ベルリン-東と西が出会う場所。ドイツにありながらドイツではない町。歴史の影に彩られた栄光と悲運の世界都市。そんなベルリンの奥深い魅力をリアルタイムでお届けするブログです。Since 1. August 2005


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中村真人 (Masato)
神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。ベルリンの映像制作会社勤務を経て、現在はフリーのライター、ジャーナリスト。


ベルリンガイドブック
「素顔のベルリン」増補改訂版
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ダイヤモンド社
(Amazon、全国各書店にて発売中)

本書は2009年10月発行「素顔のベルリン」の増補改訂版です。2013年に改めて新規取材を行い、データを更新。レストランやショッピング、コラムなどのページも増量し、より充実したガイドブックに生まれ変わりました。

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豊富なビジュアルとドイツ語フレーズを楽しめる1冊。基本のあいさつ表現から、街にまつわるドイツ語豆知識まで、ガイドブックとともに旅に役立つ会話集です。




『素顔のベルリン 過去と未来が交錯する12のエリアガイド 』
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ダイヤモンド社
(2009年発売)

地球の歩き方シリーズ初、待望のベルリンガイドブック誕生!比類なき歴史を抱えつつ、明日へ向かって日々進化し続ける首都ベルリン。「ドイツで最もドイツらしくない」といわれるこの町の知られざる魅力を、現地在住著者が12のエリアにわけて徹底紹介。


現在のトップ画像は、ベルリン在住のイラストレーター、高田美穂子さんによるオリジナル作品です(詳しくはこちらより)

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タグ:歴史(Geschichte) ( 111 ) タグの人気記事

ザクセンハウゼン強制収容所跡を歩く(4) -壁の向こうのガス室-

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Gedenkstätte und Museum Sachsenhausen (2014-02-22)

2007年に私が初めてザクセンハウゼン強制収容所跡を訪れたとき、正三角形の頂点に近い位置まで歩いたのだが、そこで引き返してしまった。それだけに、その数年後、壁の向こうに「隠れて」いたものを目にした驚きは大きかった。

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壁を抜けると、大きな壕が最初に視界に飛び込んでくる。

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この場所に立ってみれば、これが銃殺用に作られた塹壕だということがすぐにわかるだろう。博物館のパンフレットには、「抵抗運動の闘士、兵役拒否者もしくはナチ特別裁判所で有罪判決を受けた者が処刑された」とある。奥まで寄って見上げてみたら、処刑のときに使われたであろう釣り鉤がまだ生々しく架かっていた。

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横の壁には、ヨーロッパの各国語で書かれた記念碑が掛けられていた。ドイツから見た「外国人」の多くもここで殺されたのだった。

この塹壕の隣には、目立たないが墓地の跡がある。火葬場で焼かれた犠牲者の灰が、親衛隊によってここでまかれたという。

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そしてもう一つ、私がわかっていることがある。あの当時、途方もない侮蔑と憎しみの中で殺され、拷問や空腹の中で死に至り、ガス室で殺され、絞首刑で殺戮された人々のことを国籍問わず心に刻むことなしに、将来のヨーロッパは存在し得ない。
Andrzej Szczypiorski, 1995
かつてザクセンハウゼンの捕虜だったAndrzej Szczypiorskiという人の言葉が刻まれた入り口から中に入ると、そこは火葬場跡。ここは「Z部」と呼ばれ、現在ザクセンハウゼン強制収容所の犠牲者の中央追悼所になっている。ザクセンハウゼンに来て、毎回いくらかの希望を感じることができるのは、いつ訪れても若い人々のグループに出会うことだ。

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1942年、ここにガス室と4つの焼却場からなるクレマトリウムが造られた。『戦時下のベルリン』(ロジャー・ムーアハウス著。白水社)という本によると、ガス室はシャワー室に見せかけられ、もはや働けなくなった囚人を処刑するために使われたという。この建物は1952年に爆破されたので、現在残るのは土台部分だけである。私はてっきりナチスが証拠隠滅のために爆破したのかと思っていたが、年号を見るとそうではないようだ。

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強制収容所跡を訪れて何を考え学ぶべきか、戦後30年の年に生まれた私はなかなか実感を持って語ることができない。それゆえ、最近読んで感銘を受けたアウシュヴィッツの生存者、プリーモ・レーヴィの著作からの一節を最後に引用したい。1947年に書かれた文章だが、ラーゲル(強制収容所)は「いま」の問題であり続けているのだと考えざるを得ない。

個人にせよ、集団にせよ、多くの人が、多少なりとも意識的に、「外国人はすべて敵だ」と思いこんでしまう場合がある。この種の思いこみは、大体心の底に潜在的な伝染病としてひそんでいる。もちろんこれは理性的な考えではないから、突発的な行動にしか現われない。だがいったんこの思いこみが姿を現わし、いままで陰に隠れていた独断が三段論法の大前提になり、外国人はすべて殺されなければならないという結論が導き出されると、その行きつく先にはラーゲルが姿を現わす。つまりこのラーゲルとは、ある世界観の論理的発展の帰結なのだ。だからその世界観が生き残る限り、帰結としてのラーゲルは、私たちをおびやかし続ける。であるから、抹殺収容所の歴史は、危険を知らせる不吉な警告として理解されるべきなのだ。

『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』(プリーモ・レーヴィ著。朝日選書)の序文より
(つづく)
by berlinHbf | 2014-03-28 20:00 | ベルリン発掘(東) | Comments(2)

ザクセンハウゼン強制収容所跡を歩く(3) - バラック跡 -

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Gedenkstätte und Museum Sachsenhausen (2007-02-10)

ザクセンハウゼン強制収容所のことをブログに書き始めてから、ある知人の方が指摘してくださったのだが、ここはとにかく広いので、歩き慣れた靴で行くことは大事かと思う。またベルリン市内から片道1時間20分程度かかることを考えると、できるだけ午前中の早めの時間に出発することをお勧めしたい。ちなみに、強制収容所跡は毎日8時半からオープンしている(博物館は月曜定休)。

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ところで、過去に訪れたときの写真を見比べていると、あることに気付いた。これは2010年7月末に訪ねた際の写真。

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そしてこちらは2012年3月に再訪した際の写真。鉄でできた大きな長方形の枠の中に、無数の石が敷かれているのがわかる。このようなものがあちこちに点在するのだ。これは一体?

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今はもうないバラックが、かつてどこに並んでいたかがわかるよう可視化の試みがされていたのだ。本と同じように、こういった記憶の場所においても、最新の研究成果を取り入れつつ、よりよく伝えるための「改訂作業」が今も続けられているのだと実感した。

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やがて見えてくるのが、東ドイツ時代の1961年に建てられたモニュメンタルな記念碑。

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2007年冬に初めてザクセンハウゼンを訪れたときは、記念碑の右手奥にある壁の展示を見て、そのまま引き返してしまった。情報不足だったこともあるが、その向こう側に何かがあるとは当時は思いもしなかったのだ。

(つづく)
by berlinHbf | 2014-03-19 12:49 | ベルリン発掘(東) | Comments(0)

ザクセンハウゼン強制収容所跡を歩く(2) - A塔を抜けて -

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Genkstätte und Museum Sachsenhausen (2014-02-22)

インフォメーションセンターから収容所通りと呼ばれる通りを経て、ようやくザクセンハウゼン強制収容所の入り口にやって来た。中心に位置するA塔("Turm A")から中に入る前に、この位置の右手にある新博物館(Neues Museum)の見学をお勧めしたい。ここには、ザクセンハウゼン強制収容所の前身にあたるオラニエンブルク強制収容所と、東独時代の記念施設の歴史をテーマにした展示が並んでいる。オラニエンブルク強制収容所は、ヒトラーが政権を取った約2ヶ月後の1933年3月21日、中心部の元ビール工場内にプロイセン初の強制収容所として設立された。特にナチスから政治犯と見なされた人々がここで屈辱的な仕打ちを受け、中には殺害された人もいた。1934年7月13日に閉鎖されるまで、3000人以上の人がここに拘留された。

展示部分を抜けると、小さなカフェテリアとトイレがある。ものすごく広大な強制収容所の敷地にトイレはないので、ぜひ最初に立ち寄っておきたい。

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さて、有名な「労働する者は自由になる」の標語が刻まれたドアを抜け、いよいよ収容所の入り口であるA塔を抜けて敷地内に入る。誰もがこの広さに圧倒されるだろう。かつてはこの奥に、4列に渡って68棟のバラックが並んでいたのだ。

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中に入ると、かつて点呼広場(Apellplatz)と呼ばれた半円状の広場がある。ここで1日3回、後には朝と夜の2回、囚人が点呼を受けなければならなかったことからこの名が付いている。雨や雪が降ろうが、一回の点呼はしばしば数時間にも及んだという。この記念碑の場所には、絞首台が置かれていた。点呼広場に整列した収容者の前で見せしめを目的とした処刑が行われたのである。クリスマスの時期になると、親衛隊はここにクリスマス・ツリーを立てたという・・・。

奥に2つのバラックが見える。左は収容者の洗濯場だった建物。右は収容者用の調理場だ。調理場にはザクセンハウゼン強制収容所で起きた主要な事柄に関する展示があり、必見と言える。

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ナチス時代の収容所跡をこのブログで紹介するのは、これが3カ所目になる。最初は、2007年11月に訪れたアウシュヴィッツ(現ポーランドのオフィシエンチム)。一般的によく知られているのは第2のビルケナウの方だろう。絶滅収容所(Vernichtungslager)と呼ばれ、主にユダヤ人を殺害するため「だけの」目的で造られた殺人工場である。2番目は、2010年5月に訪問したテレージエンシュタット(現チェコのプラハの近く)。ここはマリア・テレジア時代の要塞を利用して使われたゲットーであり、町全体が強制収容所のような特異な場所だった。ご興味のある方は当時の記事をご覧いただけたらと思う。

それらに対して、このザクセンハウゼンは強制収容所(Konzentlationslager)だった。私が以前読んだ日本語のガイドブックには、「1945年までにここで10万人以上のユダヤ人が犠牲になった」と書かれていたが、大きな誤解を与える表現だ。ここに収容されたのはユダヤ人だけでなかったし、アウシュヴィッツやトレブリンカといった「絶滅収容所」とは目的が明確に異なった。もちろんザクセンハウゼンの収容者は過酷な条件のもとに置かれたが、絶滅収容所に比べると、生き残れる可能性は「それでもまだ」ずっと高かったということも留意すべきではないかと思う。

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1936年7月、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがドイツ警察長官に任命されてから初めて建てられたのが、このザクセンハウゼン強制収容所だった。ここの大きな特徴は、首都のすぐ近郊に位置していたこともあり、ナチズムのモデルとなる強制収容所の役割を担わされたことだ。正三角形の底辺の中心に位置するA塔の前に立ってみると、ここからバラックの収容者に対して絶対的に服従させる構造になっていることがよくわかる(画面左上)。施設は次第に拡張され、ドイツの支配下にあった全ての強制収容所の管理本部、SSのための住居などが造られていった。終戦時には、オラニエンブルク市の3分の1近くの敷地が強制収容所だったというから驚くほかない。右手下には1940年に建てられた悪名高きレンガ工場が見える。最近読んだロジャー・ムーアハウスの『戦時下のベルリン』(白水社)には、こう書かれている。
煉瓦工場の作業環境は恐るべきものだったので、最初から懲罰分遣隊に入れられた囚人のためのものだった。そこで働く囚人の平均余命はわずか3ヶ月で、ザクセンハウゼンの平均余命より遥かに短かった。

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当初ここに収容されたのは、ナチ政権の政治犯が多かったが、やがて、ユダヤ人やシンティ・ロマなどナチによって劣等と見なされた民族、同性愛者、1939年の開戦後はドイツ占領下のヨーロッパ諸国から多くの人々が送られてきた。1936年から45年までの間に20万人以上の人々が収容され、数万人が飢えや病気、強制労働、虐待のために命を落としていった。これは、かつて拷問のために使われた台らしい。

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1939年10月28日のチェコスロヴァキアの独立記念の日、プラハでドイツの占領に対してのデモが行われ、1人の学生が殺害された。プラハの学生たちは衝撃を受け、さらなる抗議行動をした。それに対しゲシュタポは9人の学生を処刑し、保護領内の全ての大学を閉鎖。そして、1140人ものプラハと他都市の学生をザクセンハウゼンへと強制連行したのである。左の手紙は、11月20日、ある学生がチェコの両親のもとに宛てた葉書。自分の健康状態が良好であることを伝えているが、実際はもちろん、ドイツ語でそう書くように強制されていたのだった。

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調理場の地下には、当時収容者が食事のためのじゃがいもの皮を剥かされていた地下室がある。ここに残されているいくつかの壁画は、ナチス時代の強制収容所、そしてその後のソ連特設収容所の時代に、囚人が描いたものだそうだ。人間のユーモアの精神はこんな状況下においても発揮されてしまうものなのかと、ここに来る度に驚きを禁じ得ない。

(つづく)
by berlinHbf | 2014-03-07 22:02 | ベルリン発掘(東) | Comments(2)

ザクセンハウゼン強制収容所跡を歩く(1) -駅からの道のり-

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S1の車窓から (2007-02-10)

日本から旅行で来る方々と話していると、ザクセンハウゼン強制収容所跡に興味のある方が結構多い。つい先日も、ある女子大生の方と話していたら、今日の午後、これからザクセンハウゼンに行くという。若い今風の学生さんが一人で収容所跡に行くというのに私は少し驚き、話を聞いてみたら、学生時代に『シンドラーのリスト』をはじめ、いくつかの映画を見て興味を持つようになったのだという。私は行き方の簡単な地図と見どころを紙に書いて彼女に渡した。

ザクセンハウゼンのことは、日本語での情報が少ないこともあり、一度まとまった形で紹介したいと思っていた。私はこれまで何度か訪れているが、ちょうど先週末、プライベートで久々に行ったばかりだ。そして、この数日間、日本で「アンネの日記」が相次いで破られるという恥ずべき事件が度々報道されている。この機会にブログに書いてみようと思い立った。

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今回ご紹介する写真は、2007年2月に初めて訪れたときのものと、先週末に撮ったものとが中心だ。フリードリヒシュトラーセ駅からS1(20分毎に出ている)に乗って北に約45分。終点のオラニエンブルク駅に到着する。ここはもうブランデンブルク州。ベルリン交通局のチケットはCゾーンになる。

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立派な外観の駅舎を持つオラニエンブルク駅。もともとベトツォウ(Bötzow)と呼ばれていたこの街が「オラニエンブルク」に変わったのは、17世紀にさかのぼる。大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの最初の妃、ルイーゼ・ヘンリエッテ・フォン・オラニエンはオランダ王家の出身だった。彼女はこの街をとても気に入り、オランダ風の城を建てることを命じ、城の名をオラニエンブルクと名付けたのだった(ここもいつか訪ねてみたい)。

駅前のバス停から、804か821という収容所跡(Gedenkstätte)行きのバスが走っている。だが、どちらも1時間に1本程度しか出ておらず、週末は804番が2時間に1本出ているだけ!ここでは徒歩での行き方をご紹介したい。駅前のStralsunder Str.をドラッグストアのdmの方向にまっすぐ行くと、Bernauer Str.という大通りにぶつかり、ここを右に曲がる。

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列車のガード下をくぐり、しばらく歩くと、Straße der Einheitという大きめの通りと交差する。ここを左に曲がれば、やがてこの記念碑が見えてくるだろう。強制収容所が解放された後、1945年4月のいわゆる「死の行進」を追悼する碑だ。

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その記念碑を曲がると、Straße der Nationという通りに入る。強制収容所跡の入り口は、この突き当たりだ。駅からここまで徒歩で約20分。タクシーに乗っても10ユーロ弱ではないかと思う。ここで帰りのバスの時間を調べておくのも手だろう。

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入口から奥に見える建物が、インフォメーション。まずはここに立ち寄って、各国語で出ているパンフレットと地図を手に入れよう。日本語版はないものの、受付で聞くと、A4版の日本語の翻訳を出してくれる(私が行ったときは1ユーロだった)。これがあるとないとでは大分違うので、ぜひ聞いてみていただきたい。書籍のコーナーも充実している。オーディオガイドは現在のところ英独だけだと思う。

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ナチス時代の他のいくつもの強制収容所同様、ザクセンハウゼンも正三角形の幾何学的な構造を持っている。底辺の真ん中に位置する入り口までは、ここからさらに歩かなければならない。

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強制収容所の歴史に関する野外展示。

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やがて見えてくる収容所の本当の入り口。オラニエンブルクの駅からここまで、かれこれ30分は歩いたことになる。

(つづく)
by berlinHbf | 2014-02-28 15:17 | ベルリン発掘(東) | Comments(3)

ピアニスト メナヘム・プレスラー

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ハンス・アイスラー音大のマスタークラスで指導したメナヘム・プレスラー氏

メナヘム・プレスラーというピアニストをご存じでしょうか? クラシック音楽に興味がある人でも、誰もが知る名前ではないかもしれません。それは、プレスラー氏がソリストとしてよりも、「ボザール・トリオ」という米国のピアノ三重奏団で長年活躍してきたからなのですが、驚くべきことに90歳の今もなお、精力的に演奏活動を続けています。1月中旬、この超ベテランピアニストがベルリン・フィルと“初共演“すると聞き、期待を胸に出掛けてきました。

万雷の拍手の中、小柄なプレスラー氏が舞台に現れました。曲目はモーツァルトのピアノ協奏曲第17番。セミヨン・ビシュコフ指揮の柔らかな伴奏に乗って、ピアノのソロが始まります。極めて軽く透明なタッチに耳を奪われました。何より驚いたのは、彼独自の世界観を感じさせながらも、オーケストラと完全に調和していたこと。木管楽器が活躍するこの作品で、愛らしいメロディーの掛け合いが幾度も交わされ、協奏曲というよりは室内楽を聴いているかのような親密な演奏でした。

アンコールで演奏されたのが、ショパンの遺作となった夜想曲第20番。忍び寄る死と生が同居したような、不思議な軽みと温かみに包まれた演奏で、聴衆は最後、総立ちでピアニストを讃えました。

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マスタークラスの様子

その翌日、プレスラー氏がベルリンのハンス・アイスラー音楽大学の若手ピアノ三重奏団に対してマスタークラスを行うというので、見学に行きました。前夜、天上のような音楽を奏でていた人とは思えないほど厳しく、また細かい指導に驚きます。「タッチが乱暴過ぎる。手を無重力のまま下ろすような感じで」「楽譜をよく見て! ピアニッシモと書いてあるでしょう」。英語だけでなく、時折流暢なドイツ語も交じります。彼は1923年にマグデブルクでユダヤ人として生まれ、1938年の「水晶の夜」事件の後、ナチスによる迫害を逃れて米国に亡命した経歴を持ちます。ドイツに帰化したのは2012年と言いますから、祖国への果てしない道のりに思いが至ります。

レッスンの後、プレスラー氏と少し言葉を交わすことができました。別れ際、にっこり笑みを浮かべて一言、「春に日本に行くよ。サヤカと共演するんだ」。この4月、ヴァイオリニストの庄司紗矢香さんと日本でデュオ・リサイタルを行うそうです。

何かを達観したような美しいピアノの音色とその背景にある激動の歩み。そして、今も持ち続けている好奇心と向上心。プレスラー氏の歩みはこの先も続きます。
ドイツニュースダイジェスト 2月21日)
by berlinHbf | 2014-02-22 21:50 | ベルリン音楽日記 | Comments(2)

ユダヤ博物館の特別展「本当の真実」

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ベルリン・ユダヤ博物館の特別展より
© Jüdisches Museum Berlin, Foto: Linus Lintner


ドイツで生活していると、日本にいたときよりもはるかに身近に感じられるのが「ユダヤ人」をめぐるテーマです。第2次世界大戦中のナチスによるホロコーストは、70年近くを経た今でも「記憶され続けるべき問題」として社会の中で共有されているのをしばしば実感しますし、ユダヤ人とパレスチナ人をめぐる中東問題は、メディアによって日本よりもずっと詳細に報じられています。

ただ、身近なようでいて遠いところにあるのもこのテーマです。私自身、日常の中でユダヤ人と接する機会はほとんどありません。ドイツには実際、どのくらいのユダヤ人が住んでいるのだろうか? 「あなたはユダヤ人ですか?」と初対面の人に質問するのはタブーではないのだろうか? 興味を抱きつつもなかなか近付けないもどかしさを時に感じていました。

現在、ベルリン・ユダヤ博物館で開催中の特別展「本当の真実。あなたがユダヤ人について知りたいすべて」(DIE GANZE WAHRHEIT... was Sie schon immer über Juden wissen wollten)は、私だけが抱くわけではないであろう、そんな疑問に真っ向から挑み、話題を集めています。

中に入ると、赤字の上に大きく書かれたいくつもの「問い」に目が行きます。例えば、「人はいかにしてユダヤ人となるのか?」「ユダヤ人をどのように識別できるのか?」「ユダヤ教徒にとってなぜ割礼は重要なのか?」といったものから、「ホロコーストについてジョークを言うことは許されるのか?」「ドイツ人はイスラエルを批判しても良いのか?」といった“きわどい”質問まで。それらの横には、宗教や日常生活、現代アートなど、問いに関連した展示が施されています。

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ガラスケースに「展示」されたユダヤ人
© Jüdisches Museum Berlin, Foto: Linus Lintner


極めつけは、大きな展示室に置かれたガラスのショーケース。中にいるのは黒髪のマネキン人形、ではなく本物の女性! ボランティアのユダヤ人が毎日交代で「展示」され、訪れた人が自由に対話できるようになっているのです。

私はやや恐る恐る、中に座っている若い女性に話しかけてみました。彼女は3年前にイスラエルからドイツにやって来たアヤさんという方。

「ガラスケース越しに話すというのが、アドルフ・アイヒマンの裁判の写真をどこか思い起こさせて、最初は抵抗がありました。でも、ちゃんと窓は開いているし、いろいろな方の関心に出会えるので私にとっても刺激的。実際、ユダヤ人と接点のない人はドイツでも多く、皆さん率直にいろいろなことを聞いてきます。展覧会の反響は大きく、『私もやってみたい』というボランティア希望者も多いそうですよ」。

ユダヤ教に対する考え方から食べ物の話まで、アヤさんとは思ったよりもざっくばらんに会話ができました。

ユダヤ人に関する多くの問いに対し、わかりやすい「答え」が用意されている展覧会ではありません。しかし、複雑で不幸な歴史背景を持ち、それゆえに硬直化しがちなこのテーマにあえて踏み込もうとするキュレーターの強い意志に私は感服し、同時に「もっと知りたい」という気持ちになりました。
 
同特別展は9月1日(日)まで開催。ユダヤ人の「展示」コーナーは、土曜以外の毎日14:00から15:30まで設けられています。www.jmberlin.de
ドイツニュースダイジェスト 8月2日)


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この特別展の後、久々にユダヤ博物館の常設展を見学したのですが、その規模と内容の濃さに圧倒されました。その見学の価値を高めてくれたのが、入場料プラス3ユーロで借りられる日本語のオーディオガイドでした(もちろんドイツ語や英語もあります)。歴史から、文化、宗教、思想、生活、風俗まで、あらゆる分野の解説を日本語で聞けるというのは素晴らしいことで、これを利用するとしないとでは、理解の深まり方が大きく違うので、非常におすすめです。麻生副総理の問題発言の直後だからではないですが、日本の政治家の方々もこういう所に来て勉強してほしいなあと思います。本当に。
by berlinHbf | 2013-08-01 13:44 | ベルリン発掘(全般) | Comments(2)

発掘の散歩術(35) -シンティ・ロマの記念碑〜隠れた悲劇〜-

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Sinti und Roma Denkmal (2013-05)

ツォー駅から100番バスに乗って、「ライヒスターク」のバス停で降りた。シャイデマン通りに面して何台もの観光バスが停泊し、ライヒスタークの入場口には次々に人の波が押し寄せる。

それとは反対のティーアガルテンの側に、ドイツの2人の政治家の言葉を引用したプレートが設置されていることをご存知だろうか。その1つには、シュミット元首相の発言が記されていた。

「シンティとロマはナチの独裁政治によってひどい不正を受けた。彼らは人種的な理由によって迫害された。この犯罪はジェノサイドだった」。

向こう側の様子が気になりつつも、ここからは中に入れないため、いつも素通りしていたが、ようやくその機会が訪れた。

昨年10月に完成した「虐殺されたシンティ・ロマの記念碑」は、ライヒスタークからブランデンブルク門までを横切る並木道の途中にある。入り口から中に入ると、そこは緑と記念プレートによって囲まれた空間になっていた。中心には円形の大きな池が置かれ、吸い込まれそうな黒い色をたたえた水面に、周囲の木々や空が反射し揺らぐ。池の真ん中には三角形のプレートが置かれ、その上には一輪の花が。流れ込む水のせせらぎ、鳥の鳴き声……。先ほどまでの喧噪とは打って変わった静けさが、ここを支配していた。

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イスラエルの彫刻家ダニ・カラヴァンが設計したシンティ・ロマの記念碑

1933年から45年にかけて、ユダヤ人だけでなく、シンティやロマといった少数民族が大虐殺の犠牲になったことはあまり知られていない。記念碑の脇に設置された 年譜によると、シンティやロマが、「ツィゴイナー」という総称でナチにより「劣等民族」と位置付けられ、老若男女問わず組織的にゲットーや強制収容所に送られた過程は、ユダヤ人のそれと極めて類似している(犠牲者数は約50万人に上ったという)。池の中央に置かれた三角形の石は、強制収容所で当時、囚人の服に縫い付けられたバッジをモチーフにしており、ここに置かれた花が枯れると、石が下がって、新しい花に置き換えられる仕組みになっているそうだ。設計したダニ・カラヴァンによると、この花は「生、哀悼、記憶の象徴」とのこと。

「Do you speak English?」。今日も中心部を歩いていると、子どもを抱えた物乞いのロマの女性に声を掛けられる。彼らはいつこの街にやって来て、どこに住み、どのような生活を営んでいるのかと時々思うが、周囲の知人に聞いても、誰もわからない。ただ、何となく「汚い/子どもを連れた女性/物乞い」という忌避のイメージが共有されている。

先日、たまたま訪ねたノイケルンのギャラリー「イム・ザールバウ」で、ロマをテーマにした写真展に出合った。準備に関わったフランクさんがそこで、こんなことを語ってくれた。

「展示に携わって感じたのは、人々が抱く単純化された図式と違って、ロマの世界が信じられないほど多様で、複雑だということ。彼らを巡る状況は今も厳しいが、 こんな時、政治が見出す解決策は幅の狭いものになりがちだから、文化の側から今の硬直を解きほぐせないかと思っています」

ロマの問題に限らず、憎しみの連鎖を防ぐには、まず知ろうとすることから始めるべきだろう。ライヒスタークの裏にひっそり構える記念碑は、そんな何かを感じさせてくれる場所だった。
ドイツニュースダイジェスト 6月7日)


Information
シンティ・ロマの記念碑
Sinti und Roma Denkmal


1992年に連邦議会が建設を決定してから、約20年の月日を経て完成した記念碑。2012年10月の落成式にはガウク大統領とメルケル首相も同席した。直径12メートルの池の淵には、ロマの出自を持つ詩人サンティーノ・スピネッリの「アウシュヴィッツ」が、英語、ドイツ語、ロマ語で刻まれている。入り口は1カ所だが、24時間見学可能。

住所:Simsonweg / Scheidemannstr., 10117 Berlin
URL: www.stiftung-denkmal.de


ホロコースト記念碑
Holocaust-Mahnmal


正式名称は「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」。ブランデンブルク門南側の広大な敷地に、約2700もの石碑が並ぶ。東側の情報センターでは、ホロコーストの悲劇の歩みが展示され、日本語の簡単なパンフレットもある。同記念碑の財団が、近くの同性愛者の記念碑とシンティ・ロマの記念碑も管理・運営している。

オープン:(情報センター)火~日10:00~20:00
      冬期は~19:00
住所:Cora-Berliner-Str. 1, 10117 Berlin
電話番号:030-26 39 430
URL: www.stiftung-denkmal.de
by berlinHbf | 2013-06-14 18:12 | ベルリン発掘(全般) | Comments(2)

「破壊された多様性」について考える年

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ポツダム広場に設置された「破壊された多様性」の展示

今年に入ってベルリンへ来られた方は、街の多くの場所で赤と黒を基調としたインパクトの強い展示ポスターをご覧になったことがあるのではないでしょうか? そこには必ずこう記されています。「Zerstörte Vielfalt(破壊された多様性)Berlin 1933-1938-1945」と。

今年は、ヒトラー率いるナチスが1933年1月30日に政権を握ってからちょうど80年、さらに1938年11月9日、ユダヤ人の商店やシナゴーグが焼き討ちにあった、いわゆる「水晶の夜」事件から75年という節目の年に当たります。

この2つの出来事は、それまでのベルリンを特徴付けていた豊かな多様性が破壊されていく決定的な要因となりました。そこでベルリン市は、「破壊された多様性」を2013年のイヤーズ・テーマに定め、博物館や大学、教会、劇場、ユダヤ人協会などで、多くの関連行事が開催されることになったのです。

その主眼は、ナチスの台頭以前、ベルリンの多様な文化世界に貢献していたジャーナリストや芸術家、学者、商人、労働者といった人々に焦点を当て、彼らへのその後の迫害が何を意味したのかを問うことです。街中に置かれた赤と黒のポスターによる展示もその1つで、例えば劇作家のブレヒト、物理学者のアインシュタイン、核分裂の発見に寄与したマイトナーら著名人から、1920年代のベルリンで活躍したダンサーやデパート経営者といった人々の歩みが紹介されていました。

先日、ナチス時代にゲシュタポの本部があった「テロのトポグラフィー」記録センターでの特別展「ベルリン1933――独裁制への道」に足を運ぶ機会がありました。ナチスがこの年のわずか半年の間に権力を「合法的」に掌握し得たのは、国民の圧倒的な支持があったからこそ、ということがよくわかる展示になっており、それゆえの恐ろしさも感じました。

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「テロのトポグラフィー」の特別展「ベルリン1933――独裁制への道」。5月からは内容を拡大し、野外で展示

現在のベルリンは、再び自由な空気を謳歌しているように見えます。世界中の人を引き付けるのも、それゆえなのでしょう。しかし、このイヤーズ・テーマのプログラムの前文には、あえてこのように書かれていました。「2013年の今、ナチスによって破壊された多様性を心に刻むことの意義は、私たちが誇るべきベルリンの新しい多様性が決して自明のものではなく、このオープンな心や寛容さ、多面性が大切にされ、常に新しく獲得され直さなければならないものなのだと意識することにもある」。

社会の変化から何かを感じ取ること、煽動政治家の発言に流されないこと、歴史に学ぶこと。それは決して過去のドイツだけの問題ではないと思います。詳細情報は、www.berlin.de/2013より。
ドイツニュースダイジェスト 5月17日)
by berlinHbf | 2013-05-26 01:41 | ベルリンのいま | Comments(5)

発掘の散歩術(34) -マルクトハレの復活!-

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マルクトハレ・ノインの週末のマーケットの様子 (2013-04)

ポツダム広場の「アルカーデン」に代表されるような大型ショッピングモールは、ベルリンに限らず、現代の消費生活の中心的存在と言えるだろう。便利な反面、中に構えているのは大手スーパーやドラッグストアのチェーン店、お馴染みのファストファッション店ばかり。どこでも代わり映えしないのもまた周知の事実だ。

このショッピングモールの「元祖」と言えるのが、マーケットホールを意味するマルクトハレである。ベルリンの人口が急増した19世紀末、この街には14の屋内市場が立て続けに建てられた。屋外の市場が主流だった当時、衛生面、また雨から商品を守れるという利点からも、マルクトハレはたちまち市民生活に浸透したのだった。

戦災を経て、現在まで生き残っているマルクトハレは市内で5つほど。その1つ、地下鉄U1のゲルリッツ駅(Görlitzer Bahnhof)から徒歩10分弱のところにあるマルクトハレ・ノインを4月の週末に訪ねてみた。

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Markthalle IX

「9番目のマルクトハレ」を意味するここを訪ねたのは、近年小売業が衰退し、寂れた状態のマルクトハレが多い中、ある成功を収めていると聞いていたからだ。

堂々たるレンガ建築の中に入ると、高い天井にまず驚いた。この時代に建てられた駅や教会とも共通した、ベルリンが欧州屈指の大都市へと上り詰める予感に溢れている。そこに無数の店舗が並び、行き交う人々でごった返していた。

3人の仕掛人によって、マルクトハレ・ノインが再オープンしたのは2011年10月のこと。新しいコンセプトでは、地域産や季節もののオーガニック食品の提供にこだわり、生産者から直接仕入れることを重視した。さまざまな実験や修正を繰り返した結果、今の形態に落ち着いた。営業を金土のマーケットに重点を置いたことも、成功の要因と言えるだろう。

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ヴィーガンの野菜グラーシュGemüsegulasch(5.50ユーロ)は美味

ブランデンブルク産の野菜、パン、ケーキにマカロン、薫製の魚、どれも新鮮そうで、威勢のいい声が飛び交う。中央にあるカンティーネという名のイートインコーナーでヴィーガンの野菜グラーシュを食べてみたら、確かに美味しい。子ども連れの家族も多く、奥では小さな音楽ライブも行われていた。

一緒に行ったドイツ人の友人がこんな感想を口にした。「うーん、みんなビオやエコの信者って感じだね。トルコ系住民が多い地区なのに、彼らの姿をほとんど見ないのもちょっと不自然」

この界隈に10年以上前から住む彼の言い分もわかる。確かに品質を重視している分、値段はやや高めだ。また、最近のプレンツラウアー・ベルク地区に見られるようなプチ・ブルジョア的な雰囲気が漂っていると言えなくもない。

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それでも、数年前に初めてマルクトハレ・ノインを訪れ、その寂れ具合に唖然とした私にとって、この活気は自分の知らない往年のそれを彷彿とさせ、ショッピングモールにはない市場を徘徊する楽しみを存分に味わったのだった。よし、週末はまたマルクトハレへ行こう!
ドイツニュースダイジェスト 5月3日)


Information
マルクトハレ・ノイン
Markthalle IX


1891年10月にオープンしたクロイツベルク地区のマルクトハレ(通りの名前から、アイゼンバーン・マルクトハレと呼ばれることも)。現在は食べ物だけでなく、ハンドメイドの製品なども扱っている。また、年に4回開催される„handmade supermarket “ では、手作りのオーナメントやコスメ、セラミック製品が販売され、人気を集めている。

オープン(マーケット):金土 10:00~18:00
住所:Eisenbahnstr. 42/43, 10997 Berlin
電話番号:030-577094661
URL: www.markthalleneun.de


マールハイネッケ・マルクトハレ
Marheineke Markthalle


クロイツベルク西部のマールハイネッケ広場に面している。2007年の大改装の際、南側の一面にガラスを大胆に取り入れ、雰囲気ががらりと変わった。「オーガニック、新鮮、地産」をモットーに、食材や豊富なイートインコーナーが並ぶ。マルチカルチュラルな土地柄を反映して、売り場の店員さんも多様だ。U7のGneisenaustr.駅より徒歩5分。

オープン:月~金 8:00~20:00、土 8:00~18:00
住所:Marheinekeplatz 15, 10961 Berlin
電話番号:030–61286146
URL: www.meine-markthalle.de
by berlinHbf | 2013-05-10 15:58 | ベルリン発掘(西) | Comments(1)

ベルリンでの12年間 1933-1945, 2000-2012

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Prinzregentenstraßeにて (2013.02)

何のあてもないまま、私がベルリンにやって来たのは2000年の9月25日。高橋尚子がシドニー五輪で金メダルを獲得した翌日だ。いつの間にか、丸12年を迎えたことになる。2年前の10周年のときも一区切り付いた感じだったが、ベルリンで12年間を過ごしてきたことにも感慨がある。というのも、ナチスが政権を握ったのが1933年1月末、第2次世界大戦でドイツが降伏したのが1945年5月。12年という歳月は、ナチスがベルリン、そしてドイツ(に留まらないが)を支配していた年月にほぼそのまま当てはまるからだ。

12年間という年月は、私の経てきた人生の約3分の1の長さ。それなりに長かった気もするが、あっという間に過ぎ去った感覚も確かにある。世紀という単位で見れば、5分の1に過ぎない。なのに、70年以上昔の12年間が、いまもドイツでは繰り返し語られ、メディアで報じられる。新しく記念碑が建てられたり、著名人の誰々が当時ナチスに関わっていた事実が明るみになって社会問題になったりもする。

あの12年とは何だったのか。身近なところで考えさせられる出来事がここ最近続いた。

昨年9月半ば、グルーネヴァルト駅17番線の記念碑に日本からのお客さんを連れて行ったときのこと。夕刻の時間だった。かつて多くのユダヤ人が強制収容所に連れ去られたホームの周囲は閑散としていたが、記念写真を撮っていたとき、ホームに降りる階段に60代後半ぐらいの女性が座り佇んでいるのに気付いた。ほっぺに手を当て、視線は遠い空の方を向いていた。涙を流しているようにも見えたが、それは定かでない。その悲しみの表情が、映画『ベルリン・天使の歌』の地上防空壕の撮影シーンでワンカットだけ登場するユダヤ人女性の表情にそっくりだと思った。近くにいた私と同年代ぐらいの男の人に写真を頼まれ、ふと聞いてみたら、案の定彼女の息子とのことだった。彼らはイスラエル人。旅行でベルリンを訪れ、ホロコーストで犠牲になった親戚を偲ぶためにここに来たのだという。それにしても、あの年配の女性の悲しみの表情が忘れられない。70年も昔に起きたことだという事実を忘れさせる生々しさがあった。

昨年9月のある日、知人のインゲさんという年配の女性が突然亡くなったと聞かされた。親しい知人を通して知り合い、10代半ばの孫娘が日本に興味があるというので、何度か食事を共にする機会があった。実際にお会いしたのは計3回に過ぎないのだが、それでも強く印象に残っているのが、ご自宅で夕食をご馳走になったときのことだ。彼女のアパートは、女優マレーネ・ディートリッヒのお墓があるシェーネベルクの墓地のすぐ近くにある。「ディートリッヒの遺体があの墓地に埋葬された日、私はここから様子を見ていたわ。すごい人出が押し寄せて、警備も厳重だった」と話した後、インゲは「マレーネ・ディートリッヒって人知ってる?」と孫娘のアンナに語りかけた。「名前は知っているけれど」という若いアンナに対し、インゲはディートリッヒのことを説明し始めた。映画女優としての活躍だけでなく、ナチを嫌悪してアメリカに亡命したこと。第2次世界大戦中は戦場を訪れ、歌でアメリカ兵を慰安したこと。そのため、ディートリッヒが戦後ベルリンに戻ってきたときは、一部のドイツ人から非難と罵倒さえ浴びたこと…。私が聞いてもわかりやすく、かつ正確に話すので驚いたのだが、インゲは昔歴史の先生だったのだそうだ。「どうりで」と思ったら、そこから思わぬ方向に話が展開した。「私の父はナチだった」というのだ。

インゲはかつて東プロイセンと呼ばれた現在のポーランド領に生まれた。父親はドイツ国防軍の将校で、彼女が4歳の1944年にソ連で戦死している。翌年ドイツが敗戦を迎えると、突然故郷を追われ、一家は命からがら逃れて来たのだそうだ。父親が早くに亡くなった悲しみの一方、ナチスに信奉していたことで、父親に対して複雑な思いを抱えていたようだった。しかし、10年ぐらい前だったか、数10年ぶりに故郷を訪れ、初めて父親のお墓を訪ねたとき、いままでのわだかまりが溶けたという。「私ぐらいの歳になって、過去について語り始める人がドイツでは増えているの」とインゲは言った。

インゲの死後、共通の知人からインゲが出版したという本を見せてもらった。「Gegen das Vergessen(忘却に抗って)」というタイトル。「ベルリンのプレンツラウアー・ベルク地区フェアベリナー通り92番地 ユダヤ人の孤児院の記憶」とあり、その孤児院にいた子供や先生たちの足跡をたどった記録だ。びっくりするぐらい詳細な記録と写真に埋められた本をめくり、インゲがどういう気持ちでこの仕事にのめり込んでいったのだろうかと思った。インゲは、戦争の被害者と加害者の子供同士が交流をする組織「One by One」でも熱心に取り組んでいたそうだ。

もっといろいろ話を聞いておきたかった。その機会が失われたいま、後悔の念が強く残る。

昨年10月にはミシェル・シュヴァルベさんが91歳で亡くなった。シュヴァルベさんはユダヤ人のヴァイオリニストで、1957年から1986年までベルリン・フィルのコンサートマスターを務めた偉大な音楽家。それまでスイス・ロマンド管弦楽団のコンサートマスターだった彼が、ベルリン・フィルのコンマスに請われたのはカラヤンからの熱烈な誘いがあったからだった。「でも私はそこで半年間も悩みに悩んだんだ。ナチスの牙城だったベルリンに行くべきかどうかでね」といつかお話を聞かせてくださった。シュヴァルベさんが戦時中スイスに亡命している間、ポーランドに残った母親はトレブリンカ強制収容所で虐殺されていたのだ。彼はそのことを決して話題に出さなかったし、没後の報道でそれがトレブリンカだったことを私は初めて知った。

被害者側の癒えぬ思い、加害者側の苦悩。そして身も蓋もない事実として、あの12年間を直に生きた人は、そう遠くない将来この世界からいなくなる。奇しくも今年はヒトラーが政権を獲得してから80年にあたり、ベルリンでは多くの記念行事が予定されている(詳細はこちらより)。さまざまな立場の人の思いを、今のうちに少しでも多く聞いておきたいと思っている。
by berlinHbf | 2013-03-18 23:21 | ベルリン発掘(全般) | Comments(5)

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