ベルリン-東と西が出会う場所。ドイツにありながらドイツではない町。歴史の影に彩られた栄光と悲運の世界都市。そんなベルリンの奥深い魅力をリアルタイムでお届けするブログです。Since 1. August 2005


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中村真人 (Masato)
神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。ベルリンの映像制作会社勤務を経て、現在はフリーのライター、ジャーナリスト。


ベルリンガイドブック
「素顔のベルリン」増補改訂版
¥1,680
ダイヤモンド社
(Amazon、全国各書店にて発売中)

本書は2009年10月発行「素顔のベルリン」の増補改訂版です。2013年に改めて新規取材を行い、データを更新。レストランやショッピング、コラムなどのページも増量し、より充実したガイドブックに生まれ変わりました。

Amazonにてネット購入ができます。



『街歩きのドイツ語 』
¥1,575
三修社

豊富なビジュアルとドイツ語フレーズを楽しめる1冊。基本のあいさつ表現から、街にまつわるドイツ語豆知識まで、ガイドブックとともに旅に役立つ会話集です。




『素顔のベルリン 過去と未来が交錯する12のエリアガイド 』
¥1,575
ダイヤモンド社
(2009年発売)

地球の歩き方シリーズ初、待望のベルリンガイドブック誕生!比類なき歴史を抱えつつ、明日へ向かって日々進化し続ける首都ベルリン。「ドイツで最もドイツらしくない」といわれるこの町の知られざる魅力を、現地在住著者が12のエリアにわけて徹底紹介。


現在のトップ画像は、ベルリン在住のイラストレーター、高田美穂子さんによるオリジナル作品です(詳しくはこちらより)

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タグ:歴史(Geschichte) ( 111 ) タグの人気記事

発掘の散歩術(59) - 70年目の「解放」の日、ドイツ・ロシア博物館にて -

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Sowjetisches Ehrenmal im Tiergarten (2015-05-09)

5月8日の終戦記念日の夜、ベルリン東側の郊外リヒテンベルク区にあるドイツ・ロシア博物館を目指した。ドイツ鉄道(DB)のストライキのため、通常の最寄り駅であるSバーンのカールスホルスト駅を避け、地下鉄のティーア・パーク駅から運良く最終バスに乗ることができた。人気のない静かな住宅街を走ること約10分、バスは突然雑踏の中に紛れ込んだ。

正直、これほどの人出は予想していなかった。博物館横の芝生には多くの屋台が並び、ウオツカやロシアビールを片手に人々は陽気に飲み語らっている。まさに祭りの雰囲気だ。「日本人がイメージする終戦記念日の雰囲気とずいぶん違いますね」と、この日に合わせて関西からやって来た知人が驚きを込めて言う。確かにそうだ。
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リヒテンベルク区のドイツ・ロシア博物館

1945年5月8日の深夜、もともとはドイツ国防軍工兵学校だった赤軍司令部内で、ナチス・ドイツの代表が降伏文書に調印。欧州における第2次世界大戦が終わった瞬間だった。私たちは22時から行なわれる「平和の乾杯」というセレモニーに合わせて来たのだが、人が殺到し、調印式が行なわれたホールへは一向に進めない。ついに諦めた人々は、前に立つ屈強な門番の指示を受けて外に出て行く。どうやら大型のスクリーンに式典の様子が映し出されるらしい。後に付いて行くと、ドイツの文化大臣が、赤軍がナチスの支配から人々を解放したことへ感謝の挨拶を述べるところだった。

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ドイツの無条件降伏の調印が行なわれた歴史的なホール

乾杯の式典の後、ホールの中に入ると、熱気がまだ残っていた。ポツダム会談が行なわれたツェツィーリエンホーフ宮殿と同じく、背景に掲げられた戦勝国の旗、調印式に使用されたテーブルや机などが、当時と同じ状態で保存されている。画面に映される調印式の映像を見ると、ドイツ国防軍のカイテル元帥があの席に座ったのかとリアルに想像できた。その横には、本物の文書がガラスケースの中に保管されている。

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気が付くと、ホールの中からほとんど人が消えていた。向こうの方から爆発音が聞こえる。急いで外に出ると、花火の打ち上げが始まっていた。色とりどりの花火が夜空に放たれる度に歓声が上がり、スピーカーからはナポレオンのロシア遠征を描いたチャイコフスキーの序曲『1812年』が流れる。ベルリンでこんな立派な花火を見るのは初めてで、私と知人はあっけに取られるようにしてその様子を眺めていた。ここがモスクワならばともかく、敗戦国であるドイツの閣僚を交えて行なわれた公式行事で、ここまで派手な演出は予想外だったからだ。

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翌9日、ベルリンは平和的なムードに包まれていたが、サッカーの国際試合以外でこれほど多くのロシア国旗を街中で見たのは初めてだった。モスクワでは過去最大規模の軍事パレードが行なわれ、ドイツのメディアはロシアの動きを警戒する論調の記事も掲載した。お祭りの雰囲気の中、その前日、町で出会ったドイツ人女性が語っていた「(強制収容所などで)解放されなかった人々のことも記憶に刻まなければ」という言葉がふと思い起こされた。
ドイツニュースダイジェスト 5月19日)


Information
ドイツ・ロシア博物館 
Deutsch-Russisches Museum

ソ連軍がベルリンから退却した後の1995年にオープンした博物館。第2次世界大戦、特に甚大な犠牲者を出した41年6月からの独ソ戦の歴史が、ドイツとロシア双方の視点を取り入れて展示されている。S3のKarlshorst駅、もしくはU5のTierpark駅からバス296番に乗り、Museum Berlin-Karlshorst下車すぐ。入場無料。

開館:火~日10:00~18:00
住所:Zwieseler Str. 4, 10318 Berlin
電話番号:030-50150810
URL:www.museum-karlshorst.de


ソ連戦勝記念碑 
Sowjetisches Ehrenmal

ブランデンブルク門の西側、6月17日通りに面した記念碑。第2次世界大戦で犠牲になった赤軍兵、中でも大戦末期のベルリン地上戦による犠牲者を追悼する目的で建てられ、45年11月に完成。当時そこはすでに英国占領地区だったため、東西分断時代は事実上ソ連の「飛び地」の形で存在し続けた。記念碑の両側にはベルリンの戦いで使われた2台の戦車と榴弾砲が並ぶ。

住所:Straße des 17. Juni 4, 10785 Berlin

by berlinHbf | 2015-06-13 16:43 | ベルリン発掘(東) | Comments(0)

ドイツニュースダイジェストの1000号と終戦70周年特集

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ドイツニュースダイジェストは、日本にお住まいの方にはあまり馴染みがないと思いますが、ドイツ在住の邦人の方は、おそらく一度はどこかで目にされたことがあるのではないでしょうか。日本関係のお店やレストランなどによく置いてあるフリーペーパーです。同紙はデュッセルドルフに拠点を構え、姉妹紙としてイギリスとフランスにも同名のニュースダイジェストがあります。私個人2007年から毎月寄稿してきた(連載記事はこのブログにも転載させていただいています)このドイツニュースダイジェストが、つい最近、記念の1000号を迎えました。数年前からそれまでの週刊から月2の発行になったものの、このご時世、広告費だけの収益でフリーペーパーを続けるのはなかなか大変なことだと想像します(私は一ライターに過ぎないので、その辺のスタッフの方々の苦労はわかりませんが)。大手新聞などに比べると本当に小さなメディアではありますが、ドイツ在住者やドイツに関心のある人々の貴重な情報源として、これからも続くことを願いつつ、ご紹介させていただいた次第です。1000号では、岡崎慎司選手のインタビュー、村上春樹作品の翻訳者ウルズラ・グレーフェ氏のエッセイ、日独の知られざる歴史に迫る記事など、なかなか充実した特集記事が並んでいますので、よかったらぜひお読みください(HPよりすべての記事をお読みいただけます)

さて、一昨日(5月8日)ドイツは70回目の終戦記念日を迎えました。最新の1001号の終戦70周年特集で、フォルカー・クレップさんというまさに1945年5月8日に生まれた方のインタビュー記事を書かせていただく機会がありました。ベルリン広しといえども、この日に生まれた人を探そうとしても、そう簡単には見つからなかったと思いますが、知人を介した偶然のつながりで出会うことができました。ドイツとヨーロッパの歴史において、極めて重要な日に生まれた一人のドイツ人が何を考えて生きてきたのでしょうか。クレップさんのご両親は、外国生まれのドイツ人という背景を持つゆえ、彼自身のドイツ社会での立ち位置や一般のドイツ人との感じ方の違いも、興味深いところではないかと思います。合わせてお読みいただけると幸いです(こちらより)。
by berlinHbf | 2015-05-10 15:00 | ドイツ全般 | Comments(1)

グルーネヴァルト駅からアウシュヴィッツ行きの列車が出ていた時

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Bahnhof Grunewald Gleis 17 (2014-10-15)

昨年10月半ばのある日のお昼、Sバーンに乗って西の郊外にあるグルーネヴァルト駅に行きました。ホームを降りて、駅の出口に向かって通路を歩いて行くと、Gleis 17(17番線)と書かれたホームへ上がる階段があります。ちょうど落葉の鮮やかな季節で、落ち葉がホームに舞っていました。

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ここは第2次世界大戦中に、東方の強制収容所へベルリンのユダヤ人を輸送する列車が出て行った場所(ご興味のある方は、以前このブログでご紹介した際の関連記事をご参照ください)。アウシュヴィッツ解放70周年に際して、昨年10月15日、このホームの上で行われた追悼式典の模様をご紹介したいと思います。

関連記事:

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73年前の1941年10月18日、1251人のユダヤ人を乗せたリッツマンシュタット(現ポーランドのウッジ)行きの貨物列車が、初めてこの駅のホームを発ったのでした。2012年以来、毎年この時期にこの場所で、ベルリンにおけるホロコーストの始まりに思いを寄せる記念式典が行われています。この行事を最初に提案したのが、ホロコーストの生存者であるインゲ・ドイチュクローンさん(写真左から4番目の女性)。現在発売中の岩波書店の『世界』2月号に掲載されている拙ルポ「インゲ・ドイチュクローンが心に刻んできたもの」でご紹介している方です。

インゲさんから右に2人目の白髪の女性は、マルゴート・フリートレンダーさん(93歳)。1944年、この場所からゲットーのテレジエンシュタット(現チェコ)に送られた後、生き残ったという方で、今回の式典では彼女が歴史の証人として挨拶しました。

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地元ライニッケンドルフ地区の高校生たちが、同地区にかつて住み、東方へ送られていったユダヤ人を自分たちで調べ、その一人一人の名前を読み上げていきました。

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式典の後、犠牲者とその遺族が白いバラを手に、ホームを降りて歩いて行きます。

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17番線のホームには鉄板の警告碑が敷かれ、1枚1枚に「強制収容所行きの列車が出た日付」「そのとき運ばれたユダヤ人の数」「目的地」が刻まれています。生存者のフリートレンダーさんがその最後の方の1枚の前で献花しました。おそらく彼女自身がテレジエンシュタットに送られた日ではないかと思います。彼女の母親と弟はアウシュヴィッツの犠牲者となり、父親も別の収容所で殺害されたそうです。

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グルーネヴァルト駅17番線は、ベルリンにあるナチス時代に関連した警告碑の中でも、特に強い感銘を与えるものの一つだと思います。

気が遠くなるほどの規模ですが、プレートに刻まれた日付、ユダヤ人の数、送られた場所を1枚1枚歩きながら見ていくと、ある種の傾向や規則性のようなものが浮かび上がってきます。例えば、強制輸送の最盛期では、5日続けてユダヤ人が送られた後、2日のインターバルがあります。つまり、強制輸送の「作業」に携わった人びとは、5日間「労働」として実務にあたり、休日はしっかり休むというサイクルを繰り返していたわけです。休みの日、彼らは教会に行ったり、家族で団らんの時間を過ごしていたのでしょうか……。

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また、テレジエンシュタットに送られたユダヤ人の数は、1回の輸送につき100人になっていることが多いのです。テレジエンシュタットは、中間収容所の役割を果たしていました。ドイツ人の知人が教えてくれたところによると、テレジンからアウシュヴィッツに100人送られる度に、新たにベルリンからテレジンに100人「補充」されるサイクルになっていたとのこと。こんなところにも、人間をモノ以下として扱う、ホロコーストの恐るべき工場的性格と組織犯罪性が感じられます。

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鉄板に刻まれた数字を追っていくだけでも、その背後に人間存在の底知れぬ闇が垣間見える場所です。

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フリートレンダーさんは、戦後ニューヨークに渡り、そこに居を定めた後、実に2010年になってベルリンへの帰還を決意しました(そのあたりの経緯は、『世界』のルポでご紹介した作曲家のウルズラ・マムロクさんとも重なります)。彼女は94歳になった今も、若い人の前に立って自分の体験を語る活動を続けているそうです。本当に頭が下がる思いですが、人はいつまでも過去の記憶を生き生きと語り続けることができるわけではありません。例年、ホロコースト関連の記念日の前後に、ドイチュクローンさんが式典に出席したり、インタビューに答えたりする様子がメディアを通して伝えられるものですが、今回のアウシュヴィッツ解放70周年でその姿を見ることはありませんでした。

by berlinHbf | 2015-02-03 15:32 | ベルリン発掘(西) | Comments(4)

岩波書店『世界』2015年2月号 - アウシュヴィッツ解放70周年 -

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岩波書店の月刊誌『世界』2月号に、「インゲ・ドイチュクローンが心に刻んできたもの—アウシュヴィッツ解放70周年—」というタイトルのルポを寄稿させていただきました。間もなくやって来る1月27日のアウシュヴィッツ解放70周年に合わせて書いたものです。

『世界』という非常に歴史ある雑誌に書かせていただくことになり、また1万字を超える字数のルポを書くのは初めてということもあって、昨年の秋はこの原稿をどうまとめるかがずっと頭の中にありました。いろいろ考えた結果、戦時下のベルリンで生き延びた1922年生まれのユダヤ人女性、インゲ・ドイチュクローンさんのインタビューを軸に、戦後ドイツ社会がどのようにして「アウシュヴィッツ」に向き合うようになったのか、さまざまな立場から描こうと試みました。

とても重く、また難しいテーマですが、書くにあたっては、ベルリンの生活者としての立場、そしてそこでの人間関係から生まれるものを大切にしようと心がけました。実際、友人や知人と話している中で、「この人に会って話を聞いてみるといい」というありがたい提案や紹介をいただくことが何度もあり、取材対象はどんどん広がっていきました。字数の関係から、今回原稿の形になったのはその中の限られた部分ではありますが、今後掘り下げていきたいテーマもいくつか見つかりました。まだまだ稚拙な部分もあるかと思いますが、力を込めて書きましたので、『世界』2月号をご一読いただけると大変嬉しく存じます。

後記:
嬉しいことに、朝日新聞の「論壇委員が選ぶ今月の3点」(1月29日朝刊)にて、小熊英二氏が拙ルポ「インゲ・ドイチュクローンが心に刻んできたもの」を選んでくださいました。

by berlinHbf | 2015-01-13 19:52 | ベルリンを「読む」 | Comments(11)

発掘の散歩術(53) -21世紀の「消費のカテドラル」が誕生-

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モール・オブ・ベルリンの吹き抜けホール。この日はファッションショーが行われていた

バスがポツダム広場を過ぎ、ライプツィヒ通りに入ると、左手に広大な空き地が広がる。ここを通るとき、私は「Tresor」と手書きで書かれた看板を見るのが好きだった。「金庫室」を意味する壁崩壊後の伝説的なクラブは、2005年に閉鎖となり、やがて工事現場へと変貌していった。

ある時、ここをタクシーで通ったら、運転手がこんな話をし始めた。「ここには戦前ユダヤ人が経営する大きなデパートがあったんですよ。彼らが所有権を持っていた土地をベルリンが巨額のお金を出して獲得し、新しいビルを建てることになったそうです」。彼の話の真偽はともかく、いわくありげな雰囲気が漂う場所だったのは確かだ。

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入口の脇に飾られていた戦前のヴェルトハイム百貨店の写真

戦前ここにあったのは、「ヴェルトハイム百貨店」。1906年にアルフレート・メッセルの設計により建てられたデパートは、7万㎡の売り場面積を持ち、欧州最大級の規模を誇った。今日の目で見ても驚くのは、華麗な装飾が施されたガラス天井を持つ吹き抜けのホールで、そこには圧倒的な富を感じる。外観のゴシック風ファサードなどから、「消費のカテドラル」の異名を持ったほどだ(ちなみに、先の「Tresor」はもともと百貨店の地下の金庫室だった場所)。しかし、ナチス台頭後、ユダヤ系資本のヴェルトハイムは接収され、やがて第2次世界大戦の空爆により、デパートの歴史は終焉を迎えた。

関連記事(この場所のかつての様子です):

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11月のある日、日本から来た知人にアドルフ・ヒトラーが自殺をした場所を案内していたら、その奥に完成したばかりの「モール・オブ・ベルリン」の姿が目に入った。ヒトラー終焉の地から150mも離れていない。中に入ってみると、いきなりガラス天井の大きなホールに出た。間違いなく、戦前のヴェルトハイムを意識して設計されたであろう舞台の上を、大勢の買い物客が行き交っている。中心部のほぼ最後の無人地帯にも資本の波が押し寄せているのを感じ、その変貌のスピードに頭がクラクラした。反対側の出口を出ると、そこはかつてヴィルヘルム広場と呼ばれたモーレン通り駅の前。ポツダム広場から地下鉄一駅分が商業ビルのトンネルで結ばれたことになる。

11月9日の壁崩壊25周年に合わせて、日刊デア・ターゲスシュピーゲル紙は各界の著名人からの寄稿文を特集した。その中の映画監督ヴィム・ヴェンダースのエッセイを読んでいたら、こんな箇所に出会った。

「私からNiemandsländer(東西どこにも属さない場所)は失われてしまった!新しいものが建てられると、私は無意識的に深く息をつく。また1つ、自由がなくなった。また1つ、向こう側を見通せなくなった。自然に踏みならされた道はもうない。ベルリンはまた1つ、ほかの都市と同じようになっていく……」

大都市は変化し続ける。ヴェルトハイム百貨店ができたときだって、驚き嘆いた人も少なからずいただろう。だが、ベルリンを愛する者としては、ヴェンダースの言葉にどうしても共感してしまうのだ。
ドイツニュースダイジェスト 12月5日)


Information
モール・オブ・ベルリン 
Mall of Berlin

ライプツィヒ広場に新しくオープンしたショッピングモール。7万6000㎡の敷地内に、270のショップ、270のアパート、ホテル、フィットネスセンター、オフィスなどを収容し、最上階はフードコートになっている。ショッピングモールの規模としては、ベルリンで2番目に大きい。屋上には、アパートの住民だけが利用できる公園があるそう。

オープン:月~土10:00~21:00
住所:Leipziger Platz 12, 10117 Berlin
電話番号:030-20621770
URL:www.mallofberlin.de


ライプツィヒ広場 
Leipziger Platz

ポツダム広場の東側にある八角形の広場。正方形のパリ広場、円形のメーリンク広場と並んで、1732~38年に掛けて造られた。戦前までは商業の中心と交通の要衝として栄えたが、ドイツの東西分断後は、この場所の上に壁が建設されたため無人地帯に。現在この広場周辺には、カナダ大使館や連邦参議院の議事堂などが建ち並んでいる。

by berlinHbf | 2014-12-08 17:56 | ベルリン発掘(境界) | Comments(1)

60周年を迎えたアメリカ記念図書館

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1954年に完成したアメリカ記念図書館

ベルリンの大きな図書館といえば、長い歴史と膨大な蔵書を誇る2つの国立図書館が有名です。とはいえ、学生や研究者ならばともかく、一般の市民により親しまれているのは、それぞれの地区にある市立図書館の方でしょう。その中でも規模が大きいことで知られているのが、クロイツベルク地区にあるアメリカ記念図書館Amerika Gedenkbibliothek(通称AGB)です。今年60周年を迎えるAGBが、このたび改装工事を経てリニューアルオープンしました。


地下鉄U1のHallesches Tor駅前にあるAGBは、その名前が示す通り、そもそもはアメリカ合衆国からの「贈り物」。1948~49年に掛けて行われた、いわゆるベルリン空輸作戦が終わった後、アメリカは同盟関係にあった西ベルリンに新たな文化施設をプレゼントすることになりました。当時の市民からは、博物館や新フィルハーモニー建設の要望が強かったそうですが、結局「教育と言論の自由のシンボル」として、西ドイツ最大規模の公立図書館が建てられたのです。

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広々とした図書館の内部

この図書館の良いところは、書架に並んでいる本を実際に手に取った上で借りられることでしょう(国立図書館では通常、事前に借りたい本を申請した後、書庫から本を出してもらう流れになっています)。蔵書のジャンルは、歴史や宗教、文学などの人文系から社会科学、語学書、旅行関係、児童書まで多岐に及ぶため、学生からシニア、家族連れまで幅広い利用者が集います。もう1つ特筆すべきは、楽譜やCD、DVDなどの充実ぶり。DVDコーナーでは、日本映画の作品もちらほら見掛けます。今回の改装によって内部の雰囲気が明るくなり、閲覧スペースも増えて、以前よりも利用しやすくなったという印象を受けました。館内はWiFi無料なので、パソコンを持って作業している人も多く見られます。

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以前音楽書や楽譜が置かれていた部屋は、新聞と雑誌のコーナーに生まれ変わった

ベルリン在住者であれば、外国人でも住民票とパスポートを持参すれば、その場で図書カードを作ることができ(年会費は大人10ユーロ、学割5ユーロ)、本やCDは28日間、DVDは14日間、一度に60までのメディアの貸し出しが可能。ベルリンの公共図書館のネットワーク(www.voebb.de)を通して、ほかの市立図書館を含めた、あらゆるメディアを検索できるのも便利です。今年9月1日からは、平日の開館時間も延長されました(月~金10:00~21:00、土10:00~19:00)。ある程度長くベルリンに住む予定の方ならば、利用価値の高い図書館として、ぜひお勧めしたいと思います。www.zlb.de
ドイツニュースダイジェスト 10月17日)

by berlinHbf | 2014-10-18 16:11 | ベルリン文化生活 | Comments(2)

季刊誌「考える人」 2014年夏号 - もうひとつのレクラム文庫 -

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発売から大分時間が経ってしまいましたが、最近寄稿する機会のあった季刊誌「考える人」の夏号をここでご紹介したいと思います。昨年秋、この雑誌にまつわる個人的な回想録(こちら)を書いたことがあり、いつかこういう雑誌に寄稿できたらと漠然と願っていましたが、まさかこんなに早く実現するとは思いませんでした。春に執筆依頼をいただいたときは飛び上がりたくなるほど嬉しかったです。

夏号の特集は「文庫」。今年新潮文庫が100周年を迎えることからこのテーマが選ばれたそうで、日本の文庫本のみならず、古今東西の小型本の魅力がたっぷりと語られています。今回私が編集部からいただいた依頼内容は、「日本の文庫に大きな影響を与えたドイツのレクラム文庫。それも、東西分断の時代のレクラムについて書いてほしい」というもの。いかにも「考える人」らしい、渋いテーマだなと思いました。実は、もともとライプツィヒに本社を構えていたレクラム社は、東西ドイツの分断後、非常にドラマチックな過程を経て、会社自体も東西に引き裂かれているのです。最初漠然と思ったのは、東西それぞれのレクラムの視点から描けたら、面白い記事になるのではないかということでした。まず、シュトゥットガルトの近くにある現在のレクラム本社にコンタクトを取ってみたのですが、正直あまりいい反応が得られず、どうしようかと思っていたところ、ライプツィヒ大学に東独時代のレクラム文庫の研究をしているグループがあることを知りました。早速連絡を取ってみたところ、同大書籍学のイングリッド・ゾンターク先生が快く取材に応じてくださることになりました。

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4月にライプツィヒを訪ねて伺ったゾンターク先生のお話は予想以上に面白く、5月にも再訪することになりました。正直なところ、私はそれまで東独のレクラム文庫に対して、ごく大雑把なイメージしか持っていませんでした。名門のレクラム社とはいえ、東ドイツという社会主義国家の中では、体制の意向に添う形の書物しか出せなかったのではないかと・・・。確かに一面ではそうだったのですが、レクラムの社長と、Lektorと呼ばれる企画顧問からなるチームの人々が、限られた条件の中でいかに知恵を絞り、面白い本、そして人々に思考を促す本を出そうと努力していたか、その葛藤を生々しく聞き知ることとなりました。

数日前、今回のレクラムの記事を読んだ、知人の新聞記者の方が、こんな感想を寄せてくださいました。

一企業としてのレクラムが、これほど東独の精神文化を背負っていた存在だったとは驚きでした。私は去年、メルケル首相の小学校時代の同級生(ドレスデンの外科医)に会いに行ったのですが、取材の中で、すでに幼少期から秀才だったメルケルは、10歳くらいでレクラムを読んでいた、という話をこの同級生から聞いたのを思い出しました。今思えば、それこそがこの東独レクラムだったのですね。レクラムは、今各界で活躍している多くの東独出身者の知性・感性を、確かに育てていたのでしょうね。

今回の原稿用紙10枚という文字数は、普段私が書く原稿に比べると多めだったのですが、実際書く段階になると、いかに集めた素材を削るかで苦心することになりました。
いまは亡き東ドイツという国の知られざる本をめぐるお話を、お読みいただけたらうれしく思います。もちろん、「考える人」夏号は、じっくり読んだら一夏かかりそうなほど、他にも読み応えのある記事が満載です。

by berlinHbf | 2014-08-03 00:39 | ベルリンを「読む」 | Comments(3)

発掘の散歩術(49) -シュタウフェンベルクと抵抗運動の人びと-

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抵抗運動の記念碑が置かれるベンドラーブロックの中庭

ポツダム広場から近い文化フォーラム地区の裏手に、シュタウフェンベルク通り13番地はある。大きなホテルに面した表通りはいつも雑然としているが、一歩中庭に入ると、そこは木陰に涼しい風が吹き抜け、静けさが支配している。

ベンドラーブロックと呼ばれるこの場所には、かつてドイツ陸軍最高司令部があった。1944年7月20日、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐は、東プロイセンの総統本営でヒトラー暗殺を試みたが、あと一歩というところで失敗に終わり、翌日未明、ほかの同士と共にこの場所で銃殺された。

あれから70年が経った日、現在はドイツ連邦国防軍の敷地であるこの中庭で、連邦政府による追悼式典が行われた。抵抗運動に携わった人々は、今でこそ「自らの良心に従った勇気ある者」とドイツの国内外で称えられているが、ガウク大統領は演説の中で、「1950年代当時、シュタウフェンベルクとその同士は『国への裏切り者』として家族に中傷が及ぶこともあった」と、彼らの名誉回復に至るまでの長い道のりについても言及した。また、東ドイツの反体制派の牧師だったガウク氏らしく、東独ではもっぱら共産主義の抵抗運動にのみ焦点が当たっていた「偏り」にも触れた。

この節目の年、ベンドラーブロックに面したドイツ抵抗運動記念館の展示内容が一新され、私は先日訪れた。

展示は18のカテゴリーに分けられている。戦時中シュタウフェンベルクの執務室があった部屋では、7月20日の事件について詳しく紹介され、1939年にミュンヘンでやはりヒトラー暗殺を試みたゲオルク・エルザーについても、大きく焦点が当てられるようになった。それ以外にも労働運動、キリスト教徒、芸術家、若者、ユダヤ人、少数民族のシンティ・ロマなど、様々な立場からの抵抗運動が取り上げられているのが特徴だ。ナチスへのレジスタンスが社会の幅広い層から生まれ、多様な広がりを見せていた様子が分かる。

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ドイツ抵抗運動記念館の様子。手前に写っているのはゲオルク・エルザー。奥にシュタウフェンベルクの執務室があった

ミュンヘンの学生による抵抗運動のグループ「白バラ」は、映画『白バラの祈り』などでご存知の方も多いだろう。彼らは1942~43年に掛けて、6種類のビラを作成し、配布した。「白バラ」の展示室には、彼らが実際に配布したいくつかのビラのコピーが置かれていた。「全ドイツ人への訴え」と題された5枚目を手に取ると、「あなた方の心を被っている無関心というマントを引き裂きなさい!」というシンプルなメッセージが心に突き刺さった。

ガウク大統領の演説を改めて読んでいたら、こういう箇所に出会った。「例えば、ユダヤ人を1日だけでもかくまったり、逃げ道を提供した。発禁とされた本をほかの人に回した。強制労働をさせられていた人にパン一切れをこっそり渡した。そういった小さな行為が、大きな抵抗運動よりも重要さにおいて劣るというわけではなかったのです」。

社会を覆う不寛容から目をそらさず、民主主義の精神を守るために、ささやかでも実行できることはないかと問うてみる。それこそが、私たちが過去から学ぶべきことではないか。
ドイツニュースダイジェスト 8月1日)


Information
ドイツ抵抗運動記念館 
Gedenkstätte Deutscher Widerstand

1952年、ヒトラー暗殺計画に携わったフリードリヒ・オルブリヒト大佐の未亡人が同席して、記念碑の定礎式が行われた。89年に現在の場所に記念館がオープンして以来、今回が3度目のリニューアルとなる。多くの部屋には、オリジナルの資料のコピーが用意され、1部10セントで入手できる。パネル説明は独英表記。入場無料。

オープン:月〜水、金9:00〜18:00、木9:00〜20:00、土日祝10:00〜18:00
住所:Stauffenbergstr. 13-14, 10785 Berlin
電話番号:030-26995000
URL:www.gdw-berlin.de


プレッツェンゼー記念館 
Gedenkstätte Plötzensee

1933~45年に掛けて、ナチスに抵抗した国内外の2891人が処刑された場所。現在は記念館として一般に公開されている(本誌902号(2012年1月20日発行)でも紹介)。44年7月20日のヒトラー暗殺計画に関わった89人もここで絞首刑に処された。123番バスの同名のバス停から徒歩3分ほど。こちらも入場無料。

開館:(3〜10月)毎日9:00〜17:00、(11〜2月)毎日9:00〜16:00
住所:Hüttigpfad, 13627 Berlin
電話番号:030-3443226
URL:www.gedenkstaette-ploetzensee.de
---------------------

さて、バタバタした中ですが、これから日本に飛びます。8月を日本で過ごすのは本当に久々です。楽しみな反面、しばらく体験していない真夏の猛暑に耐えられるのか若干の不安もありますが・・・。皆さま、どうぞよい夏をお迎えください。

by berlinHbf | 2014-07-31 10:03 | ベルリン発掘(西) | Comments(1)

発掘の散歩術(45) -ナチスの「机上の殺戮者」の館-

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オラニエンブルクにあるかつての強制収容所監査部跡 (2014-02)

※ザクセンハウゼン強制収容所の一連のルポの最後に、最近ドイツニュースダイジェストの連載に取り上げた「強制収容所監査部」の記事を転載したいと思います。


フリードリヒシュトラーセ駅からSバーンに乗って約45分、列車は終点のオラニエンブルク駅に到着した。ここにやって来る旅行者の多くは、ザクセンハウゼン強制収容所跡の訪問が目的だ。バスの本数は少ないので、私は歩いて行くことにした。駅の北側から長く延びるベルナウアー通りを東に進むと、「統一通り(Str. der Einheit)」にぶつかる。ここを左に曲がれば強制収容所跡だが、さらに5分ほどまっすぐ歩くと、左手に大きな建物が広がった。「強制収容所のテロの中心」と記された看板が手前に立っている。


「強制収容所監査部(通称IKL)」。ドイツのすべての強制収容所を管理していた組織の建物が、ザクセンハウゼン強制収容所のすぐ隣に現存していることはあまり知られていない。

この日は土曜日で、入り口にはほかに誰もいなかった。やや不安になって扉を開けると、守衛のおじさんが「展示は上の階だよ」と淡々と教えてくれた。現在は税務署として使われている建物を上がって行くと、2階正面の一室が展示室になっていた。

1934年にベルリンで設立されたIKLは、その4年後にオラニエンブルクに移ってきた。それは隣のザクセンハウゼン強制収容所が、ナチスのモデル収容所の役割を担わされたことと関係がある。ナチス・ドイツの支配領域には32の強制収容所があったが、トップダウン式の管理機構が徹底していたナチス統治下では、各収容所がそれぞれ独自に決断を下していたわけではなかった。毎月、遠方からも含めて全収容所の指揮官がここに集まり、囚人の食料、衣服、処刑に関すること、果ては人体実験といった事柄までもが取り決められた。ホロコーストが本格化して以降、アウシュヴィッツで初めて投入された毒ガス「ツィクロンB」もIKLを通して輸送された。膨大な数のユダヤ人だけでなく、シンティやロマといった少数民族、ソ連兵をはじめとする戦争捕虜などが、ごく少数の支配者の手に操られ、無惨な死を遂げていった。

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展示されていたツィクロンBの空き缶

もっとも、「いかに効率良く人を殺すか」という任務に当たっていた“Schreibtischtäter“(机上の殺戮者)が「ごく普通の」人たちだったことは、最近日本でも公開され話題を呼んだ映画『ハンナ・アーレント』に登場するアドルフ・アイヒマン(ホロコーストで指揮的役割を担ったナチスの親衛隊員)を例に取れば分かるだろう。ブランデンブルク州の歴史記念施設の館長であるギュンター・モルシュ氏はこう説明する。「1941年8月末に行われた会議では、ソ連の戦争捕虜の殺害が議題になりました。ここに集まった各収容所の指揮官にザクセンハウゼンで考案した殺害方法が紹介され、実際に7〜9人の捕虜が銃殺されました。その後、彼らは笑いながら会議室に戻り、コーヒーやコニャックを飲みながら別の殺戮法について話し合ったのです」。

展示室にはツィクロンBの空き缶も置かれていたが、ここから指令された犯罪の規模を実感することなど到底できなかった。IKLの総督を務めたテオドール・アイケとリヒャルト・グリュックスは1945年までに死亡したが、ここで働いていた約100人の親衛隊員のうち、戦後有罪判決を受けたのはわずか2人だけだったという。かつて総督の執務室だった部屋には、この日、2月にしては穏やかな光が差し込んでいた。


Information
強制収容所監査部跡 
Insepektion der Konzentrationslager (IKL)

1938年から45年にかけて存在した、ナチスの強制収容所のシステム全体を管理した本部(建物の形からT棟と呼ばれる)。昨年10月から、IKL総督の執務室だった部屋で「強制収容所監査部 1938〜45 テロの構造」という常設展が行われている。ザクセンハウゼン強制収容所跡にほぼ面しているが、収容所跡の入り口へはそこから大回りする必要がある。説明は英独併記。

開館:月〜金8:00〜18:00、土日12:00〜16:00
住所:Heinrich-Grüber-Platz, 16515 Oranienburg
電話番号:03301-810912
URL:www.stiftung-bg.de/gums


ザクセンハウゼン強制収容所跡 
Gedenkstätte und Museum Sachsenhausen

オラニエンブルク駅から徒歩20分の距離にある強制収容所跡。1936年に建てられ、首都の近くのモデル収容所として、ナチズムの強制収容所の中でも特別な役割を担っていた。施設内は極めて広く、ベルリンからの見学にはほぼ丸1日かかると見た方が良い。インフォメーションに日本語の案内書(1ユーロ)が置かれている。どちらの施設も入場無料。

開館:8:30〜18:00(3月15日〜10月14日)、8:30〜16:30(10月15日〜3月14日)。博物館、資料館は月曜定休。
住所:Str. der Nationen 22, 16515 Oranienburg
電話番号:03301-200-0
URL:www.stiftung-bg.de/gums

by berlinHbf | 2014-04-27 15:07 | ベルリン発掘(東) | Comments(0)

ザクセンハウゼン強制収容所跡を歩く(5) -収容所で見た夕日-

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Gedenkstätte und Museum Sachsenhausen (2014-02-22)

とびとびの連載になってしまったが、ザクセンハウゼン強制収容所の規模の一端をいくらかお伝えできただろうか。午前中にベルリンを出発しても、強制収容所の奥にあるクレマトリウムまで見学して、再び収容所の門に戻る頃には、大体もう夕方になっている。

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最後に訪れるのは、独房棟(Zellenbau)と小収容棟(Kleines Lager)と呼ばれるバラック跡だ。冬期の閉館時間は16時半。薄暗く人気の少ないバラックの中に入るのは、正直ちょっとこわい。

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こちらがゲシュタポと収容所の監獄だった独房棟の内部。壁によって周囲からは隔離された中に、かつて80の独房があった。反ナチのマルティン・ニーメラー牧師(1892-1984)など、特に影響力のある収容者もこの中に拘留していたという。

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 ここを抜けると、処刑台が当時のままの状態で残されている。壁によって外からは見えないこの場所で、残酷な虐待や殺害が密かに行われたのだった。

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そして小収容棟に属していたバラック38と39。1938年11月から42年10月までの間、ユダヤ人の収容者はすべてここに詰め込まれていた。

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ドイツ統一後の1992年、両方のバラックは反ユダヤ主義者によって放火されたそうで、特にバラック38の方には天井に焼け跡が生々しく残っている。そのためか、囚人のベッドがぎっしり置かれた部屋はガラス越しにしか見ることができない。

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 私が初めてここを訪れた2007年冬、小収容棟からA塔に戻るときの夕暮れの風景と凍てつくような寒さを思い出す。同じ年、アウシュヴィッツを訪れた際も、どういうわけか、とても美しい夕暮れを見たのだ。ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』(みすず書房)の中で、彼がアウシュヴィッツから別の収容所に貨物列車で輸送されたとき、隙間から見えたアルプスの山々の神々しい美しさに感動し、これだけ人間性を蹂躙されてなお、美に感動する精神が残っていたことに自分自身驚くという印象的な箇所がある。もしも自分が同じ立場に置かれたら、あの夕焼けを見て、何かを感じられるのだろうか・・・。

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上と同じ角度から(2014年2月)

5回に分けてザクセンハウゼン強制収容所の主要な場所をご紹介してきたが、医療殺人や人体実験なども行われた医療棟のバラック(Krankenrevierbaracken)や地下に死体安置場を備えた病理学棟(Pathologie mit Leichenkeller)までは書き切れなかった(もっとも、それについての展示を見るのも書くのも、相当なエネルギーが要りそうだ・・・)。収容所の一番奥にあるソ連時代の特設収容所跡には、まだ私も行ったことがない。とにかく、丸1日ですべてを見られる規模ではない。

ベルリンの周辺でこれほど気が滅入る場所もないけれど、それでも何かを感じるべき場として、一度は訪問されることをお勧めしたい。やはりアウシュヴィッツの生還者であるイタリア人のプリーモ・レーヴィが、『アウシュヴィッツは終わらない』(朝日選書)の中で記しているように。
ナチの憎悪には合理性が欠けている。それは私たちの心にはない憎悪だ。人間を超えたものだ。ファシズムという有害な幹から生まれた有毒な果実なのだが、ファシズムの枠の外に出た、ファシズムを超えたものだ。だから私たちには理解できない。だがどこから生まれたか知り、監視の目を光らすことはできる。またそうすべきである。理解は不可能でも、知ることは必要だ。なぜなら一度起きたことはもう一度起こりうるからだ。良心が再度誘惑を受けて、曇らされることがありうるからだ。私たちの良心でさえも。

最後にもう一つ、レーヴィの体験記の中から、彼が後年若い読者に向けて書いた一節を引用したい。これはいまの時代に当てはめても考えることのできる箴言ではないだろうか。
彼ら(ナチスの信者たち)は何の変哲も無い普通の人だった。怪物もいないわけではなかったが、危険になるほど多くはなかった。普通の人間のほうがずっと危険だった。何も言わずに、すぐに信じて従う職員たち、たとえば、アイヒマン、アウシュヴィッツの所長だったヘス、トレブリンカの所長だったシュタングル、20年後にアルジェリアで虐殺を行ったフランスの軍人たち、30年後にヴェトナムで虐殺を行ったアメリカの軍人たち、のような人々だ。
だから、理性以外の手段を用いて信じさせようとするものに、カリスマ的な頭領に、不信の目をむける必要がある。他人に自分の判断や意思を委ねるのは、慎重になすべきである。予言者を本物か偽物か見分けるのは難しいから、予言者はみな疑ってかかったほうがいい。啓示された真実は、たとえその単純さと輝かしさが心を高揚させ、その上、ただでもらえるから便利であろうとも、捨ててしまうほうがいい。もっと熱狂を呼び起こさない、地味な、別の真実で満足するほうがいい。近道をしようなどとは考えずに、研究と、討論と、理性的な議論を重ねることで、少しずつ、苦労して獲得されるような真実、確認でき、証明できるような真実で満足すべきなのだ。
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』(プリーモ・レーヴィ著。朝日選書)のP245より

by berlinHbf | 2014-04-25 15:41 | ベルリン発掘(東) | Comments(4)

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