ベルリン-東と西が出会う場所。ドイツにありながらドイツではない町。歴史の影に彩られた栄光と悲運の世界都市。そんなベルリンの奥深い魅力をリアルタイムでお届けするブログです。Since 1. August 2005


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中村真人 (Masato)
神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。ベルリンの映像制作会社勤務を経て、現在はフリーのライター、ジャーナリスト。


ベルリンガイドブック
「素顔のベルリン」増補改訂版
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本書は2009年10月発行「素顔のベルリン」の増補改訂版です。2013年に改めて新規取材を行い、データを更新。レストランやショッピング、コラムなどのページも増量し、より充実したガイドブックに生まれ変わりました。

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現在のトップ画像は、ベルリン在住のイラストレーター、高田美穂子さんによるオリジナル作品です(詳しくはこちらより)

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タグ:ブランデンブルク州 ( 24 ) タグの人気記事

発掘の散歩術(60) - 番外編:ブランデンブルク州 『リベックじいさんのなしの木』の村を訪ねて -

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「ハーフェルラントのリベック村のおじいさんの話、知ってる?」と知人のおばさんが一緒にお茶を飲んでいるときに言った。ドイツの国民的な作家テオドール・フォンターネ(1819〜98)が書いた、ドイツではよく知られた物語詩だそうだ。ドイツ語の「ヘア・フォン・リベック・アウフ・リベック・イム・ハーフェルラント」というリズミカルな題名が印象に残ったものの、どんな内容かも知らないまま、6月のある日、詩の舞台となった村に連れて行ってもらえることになった。

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ハーフェルラント郡にある、のどかなリベック村の様子

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村にあるカフェAlte Schuleにて

ベルリンからハンブルクへと続く連邦道路B5をひたすら西に走る。緩やかな丘陵のある並木道を心地良く進むうちに、40分ほどでリベック村に到着した。人口380人ほどの小さな集落だ。昔の村の学校の建物を利用したカフェで、コーヒーと名物の洋梨のトルテをほお張りながら、知人がフォンターネの詩を基にした絵本を見せてくれた。

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「昔々、リベックじいさんの屋敷に梨の木があった。黄金の秋に梨が実ると、おじいさんは子どもたちに優しい声をかけて梨を分け与えた。彼は亡くなる直前、「墓の下に梨を1つ埋めてほしい」という遺言を残す。彼の跡取り息子はけちな人で、梨の木の周りに柵を作って人を立ち入らせないようにしてしまうが、数年後、おじいさんの墓の脇から、あのとき一緒に埋めた梨の芽が出て成長し、やがて果実を実らせ、そばを通る子どもたちに再び恵みをもたらす……」

マルク地方独特の方言で書かれているため、原語ですらすら読むのはかなり難しいが、読後温かな気持ちにさせてくれる作品だ。この詩のモデルになったのは、18世紀にここの領主を務めたハンス・ゲオルク・フォン・リベック(1689〜1759)という人物だという。リベックじいさんの詩に描かれる梨の木は、1911年の嵐で切り倒されてしまったが、近年、同じ場所に植え直された。オリジナルの木の切り株の一部は、村の小さな教会の中に残されている。

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教会の横には、この村ゆかりのリベック家の墓地があった。一際目を引いたのは、リベック家最後の領主ハンス・ゲオルク・カール・アントン(1880〜1945)のお墓。君主制の復活を目指してナチスに抵抗した彼は、後にザクセンハウゼン強制収容所に送られ、終戦直前の4月に殺されたという。その事実を示す記念プレートには、フォンターネが描いた牧歌的な伝承の先に、彼が知る由などなかった20世紀の激動のドイツ史が刻印されていた。

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村で見つけた梨の木

戦後、リベック村は東ドイツに属したが、長い村の歩みに比べると数十年の時間などわずかな歩みに過ぎないと思わせるほど、のんびりとした時間が流れている。昔、穀物の製粉所だった建物の煙突のてっぺんには、巣を張ったコウノトリの姿が見え、村を歩くといくつもの梨の木を見掛けた。まだ実は熟していなかったけれど、黄金の秋の収穫の季節になったら、“Ick hebb ’ne Birn.(ここに梨があるよ)”と声をかけてくれる領主のおじいさんが、ふと現われそうだった。
ドイツニュースダイジェスト 7月3日)


Information
『リベックじいさんのなしの木』
Herr von Ribbeck auf Ribbeck im Havelland
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1889年にテオドール・フォンターネが書いた物語詩。現在に至るまで、ドイツの学校で頻繁に教材として使われ、ドイツではもっとも有名な詩の1つとして知られている。邦訳の絵本(藤本朝巳訳、岩波書店)も出ており、米国の児童文学作家、ナニー・ホグロギアンの味わい深い版画と共に楽しめる。


リベック
Ribbeck

ブランデンブルク州ハーフェルラント郡ナウエンにある村。リベックの名が文書に初めて登場する13世紀から、リベック家が歴代の領主を担ってきた。公共交通機関での行き方は、ベルリン中央駅からナウエンまで地域間急行で約35分。そこからバス(661か669)に乗り換えて、Ribbeck下車(約15分)。

住所:Theodor-Fontane-Str. 10, 14641 Nauen OT
Ribbeck(観光担当)
電話番号:033237 8590-30
URL:www.ribbeck-havelland.de

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ドイツニュースダイジェストで2010年から連載させていただいている『ベルリン 発掘の散歩術』が、おかげさまで今回丸5年となる60回目を迎えることができました。これからは折に触れてブランデンブルク州の街や村も取り上げていきたいと思っています。今後ともどうぞよろしくお願いします。

by berlinHbf | 2015-07-08 14:18 | ドイツ全般 | Comments(1)

ブランデンブルク州ユーターボークの旧市街を歩く(2)

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Dammtor in Jüterbog (2014-01-04)

ダム・トーアと呼ばれる門が、鉄道でユーターボークに来る場合の街の入り口になる。ユーターボークの帰属は何度も変わっている。

30年戦争期間中の1635年、この街はザクセン選定侯領に組み込まれた。そして1756年、プロイセンのフリードリヒ大王はザクセンとの国境に近かったユーターボークに進軍したことで、7年戦争が始まった。次にこの街が歴史の表舞台に出てくるのは、19世紀になってから。1813年9月6日、ナポレオン解放戦争の最中、ユーターボークのすぐ西側のデネヴィッツ(Dennewitz)において「デネヴィッツの戦い」が行われた。この戦いで連合軍はナポレオンのベルリン進軍を完全に食い止め(わずか1日の戦いで、両軍合わせて約2万人が戦死している)、1ヶ月後のライプツィヒの戦いでナポレオンのドイツ支配は終わりを告げたのだった。1815年のウィーン会議の結果、ユーターボークを含めたザクセン王国はプロイセンに譲渡されることとなる。

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門の近くにソ連軍の名誉墓地があった。第2次世界大戦末期の1945年4月18日、ユーターボークはアメリカ軍に空爆されたが、旧市街は幸い無傷だった。その2日後、赤軍が大きな戦闘を行うことなくこの街を占領。以来、ユーターボークは赤軍の駐屯地となり、彼らが完全に撤退したのは1994年になってからのこと。

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ユーターボークの歴史を振り返ってみると、血なまぐさい争いの過去に彩られつつも、ほんのわずかのところでこの街は破壊から守られたことがわかる。これだけ人通りが少ないと、どうもわびしい気分から抜けられないけれど、ベルリン・ブランデンブルク州において希有な街なのは間違いない。

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Mönchenkircheという大きな教会の前に出た。ここが一応ユーターボークの文化の中心とパンフレットに書いてあるので、扉を開けてみたら、驚いた。ようやくここでまとまった数の人に出会えたのだった。中には舞台があり、ニューイヤーコンサートの休憩時間中らしかった。地元の人びとが談笑したり、コーヒーを飲んだりしている。小さな街の住民の大半がここに集まっているのではないかと思ったほど。何はともあれ、ユーターボークで人のぬくもりを感じることができて、少しほっとした。

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1507年に完成したレンガ造りの市庁舎。

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いくつかの場所では、城壁や市門が完全な状態で残っている。

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数は少ないものの、廃屋になっている建物もいくつか見かけた。東ドイツ時代、建物の外壁はどこもこんな感じだったのかもしれない。

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ひっそりと眠ったような街だったが、30年戦争以来の名残をとどめながら、ほかのベルリン・ブランデンブルクの都市では味わったことのない悠久の時が流れていた。

by berlinHbf | 2015-01-10 11:06 | ドイツ全般 | Comments(2)

ブランデンブルク州ユーターボークの旧市街を歩く(1)

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Dammtor in Jüterbog (2014-01-04)

ちょうど1年前、近所に住む友達の車を借りる機会を得て、妻と日帰りでどこかに行こうという話になった。私はこの機会に、ユーターボーク(Jüterbog)に行ってみようと思った。何年か前に、ベルリンの新聞で「中世の面影がほぼ完全に残る街」とユーターボークが紹介されていて、興味を持っていたのである。

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ユーターボークはベルリンから南に約60キロほど、ベルリンーライプツィヒの鉄道の線上にあるブランデンブルク州のテルトウ=フレーミング群の街だ。もっとも、ユーターボークの旧市街は駅から大分離れているので、車窓からこの街を望むことはこれまでなかった。ベルリンからさほどの距離ではないとはいえ、久々の車の運転、しかもナビも付いていない状態だったので、道に迷いながら結局2時間近くかかった気がする。

旧市街に入った頃から街の閑散ぶりに驚いた。土曜日のお昼にも関わらず、人通りが皆無なのだ。マルクト広場に車を止めて、営業している数少ないお店の中からAmerican Dinerという周囲から若干浮いた感じのレストランに入ってハンバーガーを食べる。地元の若い人が出入りしているような店だった。写真は広場から伸びているニコライキルヒ通りの様子。まずはニコライ教会の方に行ってみることにした。

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ユーターボークに都市権が与えられたのは1174年のこと。法的にはブランデンブルク州最古の都市になるそうだ。13世紀半ば以降、この街は遠隔貿易の中心地として栄え、3つの教会や市壁などがこの時期に形作られた。2つの対照的な塔を持つゴシック様式のニコライ教会もその時代に建設が始まった(写真)。しかし、1478年の大火災、そして17世紀の30年戦争で街は壊滅的な被害を受ける。現在の街並みは30年戦争以降に再建されたものが主体になっているそうだ。

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ここがGroße Straßeというまさに「大通り」という名のメインストリート、なのだが、道行く人はほとんどいない・・・

人口約1万2000人の街なのだが、この街の住民はどこでどういう生活を送っているのだろうと思う。

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19世紀までは、ユーターボークは「マルク地方のマントヴァ」「マルク地方のローテンブルク」などとも呼ばれていたそうだ。建築的には大変興味深いのだが、人があまりに少ないので、いくらかわびしい気持ちにもなってくる。

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次回はこのDammtorという門の向こう側に行ってみます。

by berlinHbf | 2015-01-06 11:55 | ドイツ全般 | Comments(1)

ザクセンハウゼン強制収容所跡を歩く(5) -収容所で見た夕日-

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Gedenkstätte und Museum Sachsenhausen (2014-02-22)

とびとびの連載になってしまったが、ザクセンハウゼン強制収容所の規模の一端をいくらかお伝えできただろうか。午前中にベルリンを出発しても、強制収容所の奥にあるクレマトリウムまで見学して、再び収容所の門に戻る頃には、大体もう夕方になっている。

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最後に訪れるのは、独房棟(Zellenbau)と小収容棟(Kleines Lager)と呼ばれるバラック跡だ。冬期の閉館時間は16時半。薄暗く人気の少ないバラックの中に入るのは、正直ちょっとこわい。

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こちらがゲシュタポと収容所の監獄だった独房棟の内部。壁によって周囲からは隔離された中に、かつて80の独房があった。反ナチのマルティン・ニーメラー牧師(1892-1984)など、特に影響力のある収容者もこの中に拘留していたという。

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 ここを抜けると、処刑台が当時のままの状態で残されている。壁によって外からは見えないこの場所で、残酷な虐待や殺害が密かに行われたのだった。

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そして小収容棟に属していたバラック38と39。1938年11月から42年10月までの間、ユダヤ人の収容者はすべてここに詰め込まれていた。

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ドイツ統一後の1992年、両方のバラックは反ユダヤ主義者によって放火されたそうで、特にバラック38の方には天井に焼け跡が生々しく残っている。そのためか、囚人のベッドがぎっしり置かれた部屋はガラス越しにしか見ることができない。

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 私が初めてここを訪れた2007年冬、小収容棟からA塔に戻るときの夕暮れの風景と凍てつくような寒さを思い出す。同じ年、アウシュヴィッツを訪れた際も、どういうわけか、とても美しい夕暮れを見たのだ。ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』(みすず書房)の中で、彼がアウシュヴィッツから別の収容所に貨物列車で輸送されたとき、隙間から見えたアルプスの山々の神々しい美しさに感動し、これだけ人間性を蹂躙されてなお、美に感動する精神が残っていたことに自分自身驚くという印象的な箇所がある。もしも自分が同じ立場に置かれたら、あの夕焼けを見て、何かを感じられるのだろうか・・・。

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上と同じ角度から(2014年2月)

5回に分けてザクセンハウゼン強制収容所の主要な場所をご紹介してきたが、医療殺人や人体実験なども行われた医療棟のバラック(Krankenrevierbaracken)や地下に死体安置場を備えた病理学棟(Pathologie mit Leichenkeller)までは書き切れなかった(もっとも、それについての展示を見るのも書くのも、相当なエネルギーが要りそうだ・・・)。収容所の一番奥にあるソ連時代の特設収容所跡には、まだ私も行ったことがない。とにかく、丸1日ですべてを見られる規模ではない。

ベルリンの周辺でこれほど気が滅入る場所もないけれど、それでも何かを感じるべき場として、一度は訪問されることをお勧めしたい。やはりアウシュヴィッツの生還者であるイタリア人のプリーモ・レーヴィが、『アウシュヴィッツは終わらない』(朝日選書)の中で記しているように。
ナチの憎悪には合理性が欠けている。それは私たちの心にはない憎悪だ。人間を超えたものだ。ファシズムという有害な幹から生まれた有毒な果実なのだが、ファシズムの枠の外に出た、ファシズムを超えたものだ。だから私たちには理解できない。だがどこから生まれたか知り、監視の目を光らすことはできる。またそうすべきである。理解は不可能でも、知ることは必要だ。なぜなら一度起きたことはもう一度起こりうるからだ。良心が再度誘惑を受けて、曇らされることがありうるからだ。私たちの良心でさえも。

最後にもう一つ、レーヴィの体験記の中から、彼が後年若い読者に向けて書いた一節を引用したい。これはいまの時代に当てはめても考えることのできる箴言ではないだろうか。
彼ら(ナチスの信者たち)は何の変哲も無い普通の人だった。怪物もいないわけではなかったが、危険になるほど多くはなかった。普通の人間のほうがずっと危険だった。何も言わずに、すぐに信じて従う職員たち、たとえば、アイヒマン、アウシュヴィッツの所長だったヘス、トレブリンカの所長だったシュタングル、20年後にアルジェリアで虐殺を行ったフランスの軍人たち、30年後にヴェトナムで虐殺を行ったアメリカの軍人たち、のような人々だ。
だから、理性以外の手段を用いて信じさせようとするものに、カリスマ的な頭領に、不信の目をむける必要がある。他人に自分の判断や意思を委ねるのは、慎重になすべきである。予言者を本物か偽物か見分けるのは難しいから、予言者はみな疑ってかかったほうがいい。啓示された真実は、たとえその単純さと輝かしさが心を高揚させ、その上、ただでもらえるから便利であろうとも、捨ててしまうほうがいい。もっと熱狂を呼び起こさない、地味な、別の真実で満足するほうがいい。近道をしようなどとは考えずに、研究と、討論と、理性的な議論を重ねることで、少しずつ、苦労して獲得されるような真実、確認でき、証明できるような真実で満足すべきなのだ。
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』(プリーモ・レーヴィ著。朝日選書)のP245より

by berlinHbf | 2014-04-25 15:41 | ベルリン発掘(東) | Comments(4)

ザクセンハウゼン強制収容所跡を歩く(4) -壁の向こうのガス室-

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Gedenkstätte und Museum Sachsenhausen (2014-02-22)

2007年に私が初めてザクセンハウゼン強制収容所跡を訪れたとき、正三角形の頂点に近い位置まで歩いたのだが、そこで引き返してしまった。それだけに、その数年後、壁の向こうに「隠れて」いたものを目にした驚きは大きかった。

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壁を抜けると、大きな壕が最初に視界に飛び込んでくる。

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この場所に立ってみれば、これが銃殺用に作られた塹壕だということがすぐにわかるだろう。博物館のパンフレットには、「抵抗運動の闘士、兵役拒否者もしくはナチ特別裁判所で有罪判決を受けた者が処刑された」とある。奥まで寄って見上げてみたら、処刑のときに使われたであろう釣り鉤がまだ生々しく架かっていた。

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横の壁には、ヨーロッパの各国語で書かれた記念碑が掛けられていた。ドイツから見た「外国人」の多くもここで殺されたのだった。

この塹壕の隣には、目立たないが墓地の跡がある。火葬場で焼かれた犠牲者の灰が、親衛隊によってここでまかれたという。

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そしてもう一つ、私がわかっていることがある。あの当時、途方もない侮蔑と憎しみの中で殺され、拷問や空腹の中で死に至り、ガス室で殺され、絞首刑で殺戮された人々のことを国籍問わず心に刻むことなしに、将来のヨーロッパは存在し得ない。
Andrzej Szczypiorski, 1995
かつてザクセンハウゼンの捕虜だったAndrzej Szczypiorskiという人の言葉が刻まれた入り口から中に入ると、そこは火葬場跡。ここは「Z部」と呼ばれ、現在ザクセンハウゼン強制収容所の犠牲者の中央追悼所になっている。ザクセンハウゼンに来て、毎回いくらかの希望を感じることができるのは、いつ訪れても若い人々のグループに出会うことだ。

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1942年、ここにガス室と4つの焼却場からなるクレマトリウムが造られた。『戦時下のベルリン』(ロジャー・ムーアハウス著。白水社)という本によると、ガス室はシャワー室に見せかけられ、もはや働けなくなった囚人を処刑するために使われたという。この建物は1952年に爆破されたので、現在残るのは土台部分だけである。私はてっきりナチスが証拠隠滅のために爆破したのかと思っていたが、年号を見るとそうではないようだ。

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強制収容所跡を訪れて何を考え学ぶべきか、戦後30年の年に生まれた私はなかなか実感を持って語ることができない。それゆえ、最近読んで感銘を受けたアウシュヴィッツの生存者、プリーモ・レーヴィの著作からの一節を最後に引用したい。1947年に書かれた文章だが、ラーゲル(強制収容所)は「いま」の問題であり続けているのだと考えざるを得ない。

個人にせよ、集団にせよ、多くの人が、多少なりとも意識的に、「外国人はすべて敵だ」と思いこんでしまう場合がある。この種の思いこみは、大体心の底に潜在的な伝染病としてひそんでいる。もちろんこれは理性的な考えではないから、突発的な行動にしか現われない。だがいったんこの思いこみが姿を現わし、いままで陰に隠れていた独断が三段論法の大前提になり、外国人はすべて殺されなければならないという結論が導き出されると、その行きつく先にはラーゲルが姿を現わす。つまりこのラーゲルとは、ある世界観の論理的発展の帰結なのだ。だからその世界観が生き残る限り、帰結としてのラーゲルは、私たちをおびやかし続ける。であるから、抹殺収容所の歴史は、危険を知らせる不吉な警告として理解されるべきなのだ。

『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』(プリーモ・レーヴィ著。朝日選書)の序文より
(つづく)
by berlinHbf | 2014-03-28 20:00 | ベルリン発掘(東) | Comments(2)

ザクセンハウゼン強制収容所跡を歩く(3) - バラック跡 -

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Gedenkstätte und Museum Sachsenhausen (2007-02-10)

ザクセンハウゼン強制収容所のことをブログに書き始めてから、ある知人の方が指摘してくださったのだが、ここはとにかく広いので、歩き慣れた靴で行くことは大事かと思う。またベルリン市内から片道1時間20分程度かかることを考えると、できるだけ午前中の早めの時間に出発することをお勧めしたい。ちなみに、強制収容所跡は毎日8時半からオープンしている(博物館は月曜定休)。

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ところで、過去に訪れたときの写真を見比べていると、あることに気付いた。これは2010年7月末に訪ねた際の写真。

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そしてこちらは2012年3月に再訪した際の写真。鉄でできた大きな長方形の枠の中に、無数の石が敷かれているのがわかる。このようなものがあちこちに点在するのだ。これは一体?

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今はもうないバラックが、かつてどこに並んでいたかがわかるよう可視化の試みがされていたのだ。本と同じように、こういった記憶の場所においても、最新の研究成果を取り入れつつ、よりよく伝えるための「改訂作業」が今も続けられているのだと実感した。

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やがて見えてくるのが、東ドイツ時代の1961年に建てられたモニュメンタルな記念碑。

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2007年冬に初めてザクセンハウゼンを訪れたときは、記念碑の右手奥にある壁の展示を見て、そのまま引き返してしまった。情報不足だったこともあるが、その向こう側に何かがあるとは当時は思いもしなかったのだ。

(つづく)
by berlinHbf | 2014-03-19 12:49 | ベルリン発掘(東) | Comments(0)

ザクセンハウゼン強制収容所跡を歩く(2) - A塔を抜けて -

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Genkstätte und Museum Sachsenhausen (2014-02-22)

インフォメーションセンターから収容所通りと呼ばれる通りを経て、ようやくザクセンハウゼン強制収容所の入り口にやって来た。中心に位置するA塔("Turm A")から中に入る前に、この位置の右手にある新博物館(Neues Museum)の見学をお勧めしたい。ここには、ザクセンハウゼン強制収容所の前身にあたるオラニエンブルク強制収容所と、東独時代の記念施設の歴史をテーマにした展示が並んでいる。オラニエンブルク強制収容所は、ヒトラーが政権を取った約2ヶ月後の1933年3月21日、中心部の元ビール工場内にプロイセン初の強制収容所として設立された。特にナチスから政治犯と見なされた人々がここで屈辱的な仕打ちを受け、中には殺害された人もいた。1934年7月13日に閉鎖されるまで、3000人以上の人がここに拘留された。

展示部分を抜けると、小さなカフェテリアとトイレがある。ものすごく広大な強制収容所の敷地にトイレはないので、ぜひ最初に立ち寄っておきたい。

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さて、有名な「労働する者は自由になる」の標語が刻まれたドアを抜け、いよいよ収容所の入り口であるA塔を抜けて敷地内に入る。誰もがこの広さに圧倒されるだろう。かつてはこの奥に、4列に渡って68棟のバラックが並んでいたのだ。

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中に入ると、かつて点呼広場(Apellplatz)と呼ばれた半円状の広場がある。ここで1日3回、後には朝と夜の2回、囚人が点呼を受けなければならなかったことからこの名が付いている。雨や雪が降ろうが、一回の点呼はしばしば数時間にも及んだという。この記念碑の場所には、絞首台が置かれていた。点呼広場に整列した収容者の前で見せしめを目的とした処刑が行われたのである。クリスマスの時期になると、親衛隊はここにクリスマス・ツリーを立てたという・・・。

奥に2つのバラックが見える。左は収容者の洗濯場だった建物。右は収容者用の調理場だ。調理場にはザクセンハウゼン強制収容所で起きた主要な事柄に関する展示があり、必見と言える。

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ナチス時代の収容所跡をこのブログで紹介するのは、これが3カ所目になる。最初は、2007年11月に訪れたアウシュヴィッツ(現ポーランドのオフィシエンチム)。一般的によく知られているのは第2のビルケナウの方だろう。絶滅収容所(Vernichtungslager)と呼ばれ、主にユダヤ人を殺害するため「だけの」目的で造られた殺人工場である。2番目は、2010年5月に訪問したテレージエンシュタット(現チェコのプラハの近く)。ここはマリア・テレジア時代の要塞を利用して使われたゲットーであり、町全体が強制収容所のような特異な場所だった。ご興味のある方は当時の記事をご覧いただけたらと思う。

それらに対して、このザクセンハウゼンは強制収容所(Konzentlationslager)だった。私が以前読んだ日本語のガイドブックには、「1945年までにここで10万人以上のユダヤ人が犠牲になった」と書かれていたが、大きな誤解を与える表現だ。ここに収容されたのはユダヤ人だけでなかったし、アウシュヴィッツやトレブリンカといった「絶滅収容所」とは目的が明確に異なった。もちろんザクセンハウゼンの収容者は過酷な条件のもとに置かれたが、絶滅収容所に比べると、生き残れる可能性は「それでもまだ」ずっと高かったということも留意すべきではないかと思う。

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1936年7月、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがドイツ警察長官に任命されてから初めて建てられたのが、このザクセンハウゼン強制収容所だった。ここの大きな特徴は、首都のすぐ近郊に位置していたこともあり、ナチズムのモデルとなる強制収容所の役割を担わされたことだ。正三角形の底辺の中心に位置するA塔の前に立ってみると、ここからバラックの収容者に対して絶対的に服従させる構造になっていることがよくわかる(画面左上)。施設は次第に拡張され、ドイツの支配下にあった全ての強制収容所の管理本部、SSのための住居などが造られていった。終戦時には、オラニエンブルク市の3分の1近くの敷地が強制収容所だったというから驚くほかない。右手下には1940年に建てられた悪名高きレンガ工場が見える。最近読んだロジャー・ムーアハウスの『戦時下のベルリン』(白水社)には、こう書かれている。
煉瓦工場の作業環境は恐るべきものだったので、最初から懲罰分遣隊に入れられた囚人のためのものだった。そこで働く囚人の平均余命はわずか3ヶ月で、ザクセンハウゼンの平均余命より遥かに短かった。

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当初ここに収容されたのは、ナチ政権の政治犯が多かったが、やがて、ユダヤ人やシンティ・ロマなどナチによって劣等と見なされた民族、同性愛者、1939年の開戦後はドイツ占領下のヨーロッパ諸国から多くの人々が送られてきた。1936年から45年までの間に20万人以上の人々が収容され、数万人が飢えや病気、強制労働、虐待のために命を落としていった。これは、かつて拷問のために使われた台らしい。

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1939年10月28日のチェコスロヴァキアの独立記念の日、プラハでドイツの占領に対してのデモが行われ、1人の学生が殺害された。プラハの学生たちは衝撃を受け、さらなる抗議行動をした。それに対しゲシュタポは9人の学生を処刑し、保護領内の全ての大学を閉鎖。そして、1140人ものプラハと他都市の学生をザクセンハウゼンへと強制連行したのである。左の手紙は、11月20日、ある学生がチェコの両親のもとに宛てた葉書。自分の健康状態が良好であることを伝えているが、実際はもちろん、ドイツ語でそう書くように強制されていたのだった。

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調理場の地下には、当時収容者が食事のためのじゃがいもの皮を剥かされていた地下室がある。ここに残されているいくつかの壁画は、ナチス時代の強制収容所、そしてその後のソ連特設収容所の時代に、囚人が描いたものだそうだ。人間のユーモアの精神はこんな状況下においても発揮されてしまうものなのかと、ここに来る度に驚きを禁じ得ない。

(つづく)
by berlinHbf | 2014-03-07 22:02 | ベルリン発掘(東) | Comments(2)

ザクセンハウゼン強制収容所跡を歩く(1) -駅からの道のり-

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S1の車窓から (2007-02-10)

日本から旅行で来る方々と話していると、ザクセンハウゼン強制収容所跡に興味のある方が結構多い。つい先日も、ある女子大生の方と話していたら、今日の午後、これからザクセンハウゼンに行くという。若い今風の学生さんが一人で収容所跡に行くというのに私は少し驚き、話を聞いてみたら、学生時代に『シンドラーのリスト』をはじめ、いくつかの映画を見て興味を持つようになったのだという。私は行き方の簡単な地図と見どころを紙に書いて彼女に渡した。

ザクセンハウゼンのことは、日本語での情報が少ないこともあり、一度まとまった形で紹介したいと思っていた。私はこれまで何度か訪れているが、ちょうど先週末、プライベートで久々に行ったばかりだ。そして、この数日間、日本で「アンネの日記」が相次いで破られるという恥ずべき事件が度々報道されている。この機会にブログに書いてみようと思い立った。

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今回ご紹介する写真は、2007年2月に初めて訪れたときのものと、先週末に撮ったものとが中心だ。フリードリヒシュトラーセ駅からS1(20分毎に出ている)に乗って北に約45分。終点のオラニエンブルク駅に到着する。ここはもうブランデンブルク州。ベルリン交通局のチケットはCゾーンになる。

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立派な外観の駅舎を持つオラニエンブルク駅。もともとベトツォウ(Bötzow)と呼ばれていたこの街が「オラニエンブルク」に変わったのは、17世紀にさかのぼる。大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの最初の妃、ルイーゼ・ヘンリエッテ・フォン・オラニエンはオランダ王家の出身だった。彼女はこの街をとても気に入り、オランダ風の城を建てることを命じ、城の名をオラニエンブルクと名付けたのだった(ここもいつか訪ねてみたい)。

駅前のバス停から、804か821という収容所跡(Gedenkstätte)行きのバスが走っている。だが、どちらも1時間に1本程度しか出ておらず、週末は804番が2時間に1本出ているだけ!ここでは徒歩での行き方をご紹介したい。駅前のStralsunder Str.をドラッグストアのdmの方向にまっすぐ行くと、Bernauer Str.という大通りにぶつかり、ここを右に曲がる。

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列車のガード下をくぐり、しばらく歩くと、Straße der Einheitという大きめの通りと交差する。ここを左に曲がれば、やがてこの記念碑が見えてくるだろう。強制収容所が解放された後、1945年4月のいわゆる「死の行進」を追悼する碑だ。

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その記念碑を曲がると、Straße der Nationという通りに入る。強制収容所跡の入り口は、この突き当たりだ。駅からここまで徒歩で約20分。タクシーに乗っても10ユーロ弱ではないかと思う。ここで帰りのバスの時間を調べておくのも手だろう。

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入口から奥に見える建物が、インフォメーション。まずはここに立ち寄って、各国語で出ているパンフレットと地図を手に入れよう。日本語版はないものの、受付で聞くと、A4版の日本語の翻訳を出してくれる(私が行ったときは1ユーロだった)。これがあるとないとでは大分違うので、ぜひ聞いてみていただきたい。書籍のコーナーも充実している。オーディオガイドは現在のところ英独だけだと思う。

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ナチス時代の他のいくつもの強制収容所同様、ザクセンハウゼンも正三角形の幾何学的な構造を持っている。底辺の真ん中に位置する入り口までは、ここからさらに歩かなければならない。

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強制収容所の歴史に関する野外展示。

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やがて見えてくる収容所の本当の入り口。オラニエンブルクの駅からここまで、かれこれ30分は歩いたことになる。

(つづく)
by berlinHbf | 2014-02-28 15:17 | ベルリン発掘(東) | Comments(3)

発掘の散歩術(28) - レトロなトラムに揺られて水門のある街へ -

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森の向こうから現れたトラム87番線

ベルリンの路面電車といえば、多くの人はBVG(ベルリン交通局)が運営する黄色のトラムを思い浮かべるだろうが、旧東独のケーペニック地区に、それとはひと味違うトラムが走っているという。以前この連載で取り上げた「世界ベスト10に選ばれた絶景トラム」の続編として、乗ってみたいという気持ちがうずく。秋晴れの日曜日、ベルリンの東の郊外にあるラーンス ドルフに行こうと思い立った。

ベルリン中央駅から東にひたすら40分ほど、Sバーンのラーンスドルフ駅で降りると、駅前に1本の小さなホームがある。しばらく待っていると、森の木々を縫って、わずか1両編成のクリーム色の路面電車が現れた。「何だか『トトロ』の世界に出てきそう!」と、連れて行った妻ははしゃいでいる。確かに、ベルリンの外れとはいえ、21世紀にもなって走り続けているのが不思議に思えるくらい古色蒼然とした、しかしどこかかわいらしい電車である。

地元の人ばかり、わずかな乗客を乗せて、ヴォルタースドルフ電気軌道の87番トラムは発車した。電車はいきなり森の中を走る。年配の女性運転手が運転するトラムは、かなりの唸り声を上げて疾走する。長い森を抜けると、そこはもうブランデンブルク州。電車が停留所を発車する度に、「チーン」というベルが鳴らされる。これが結構大きな音で、静かな車内に響き渡る。やがて、レンガ造りの市庁舎や教会が構えるヴォルタースドルフの中心街を通り、ゆるやかな坂を上って行くと、終点のシュロイゼ(水門)前に到着した。所要時間20分弱の小さな旅だった。

ヴォルタースドルフの街中でさえ閑散としていたので、終点は一体どんな寂しいところだろうかと思っていたのだが、意外にも行楽客で賑わっていた。すぐ近くには、停留所の名前の通り、長さ65メートルの水門がある。カルクゼーとフラーケンゼーという2つの湖をつなぐ位置にあるこの水門は、創業1550年という古い歴史を持っているそうだ。

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信号が青に変わると、船が水門をくぐっていく

湖畔を少し散歩した後、岸辺にあるレストランの1つに入ってみた。オープンテラスの席に座ると、向こうに水門がきれいに見渡せる。ときどき船が横を通り過ぎ、湖水の赤信号の前で止まる。ほどなく先ほどまで車が通っていた橋がゆっくり上がっていった。やがてほぼ直角の高さにまで上がると信号は青に変わり、船は門をくぐっていく。

のどかな光景だが、実はベルリンの歴史において要衝ともいえる場所だということを後から知った。この北側にリューダースドルフという石灰岩の産地がある。ベルリンのブランデンブルク門やオリンピックスタジアム、ポツダムのサンスーシ宮殿といった重要な建築は全てここの石灰岩で造られた。膨大な量の石灰岩を水路で市内に運ぶ際、必ず通ったのがこの水門だったのだ。

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1850年当時、年間約1万5500隻もの船がこの水門を通っていたというが、それも過去の話。遊歩道には家族連れの笑い声が響き、紅や黄に色を変えた森の木々は、湖畔を美しく彩っていた。
ドイツニュースダイジェスト 11月2日)


Information
ヴォルタースドルフ電気軌道
Woltersdorfer Straßenbahn


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ラーンスドルフからヴォルタースドルフを結ぶ、全長5.6キロの電気軌道。創業は1913年。ドイツで最小の電気軌道に属する。東独時代に製造された2軸単車の電車が今も活躍し、日中は10~20分おきに走っている。鉄道ファンでなくとも楽しめる路線だ。創業100周年を迎える来年の5月17 ~19日は、記念のお祭りが予定されている。

電話番号:03362-881230
URL:www.woltersdorfer-strassenbahn.com


リーベスクヴェレ
Restaurant Liebesquelle


カルクゼーの湖畔にあるレストラン。メニューはドイツ料理が中心で、フランクフルターというキレのあるピルスナーは美味。パーティー会場としても利用可能だそう。天気のいい日は、水門がよく見える湖畔のテラス席がお勧めだ。南側のフラーケンゼーの湖畔にも、雰囲気の良さそうなカフェやレストランが並んでいる。

営業:月~日12:00~22:00
住所:Brunnenstr. 2, 15569 Woltersdorf
電話番号:03362-5340
URL:www.restaurant-liebesquelle.de

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by berlinHbf | 2012-11-05 21:29 | ベルリン発掘(東) | Comments(2)

ポツダムの王宮再建始まる

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昨日、女子サッカーの永里優季選手にインタビューさせていただく機会があり、ポツダムに行ってきました(聞き手としても刺激に富んだインタビューでした。掲載時にはまたお知らせしたいと思います)。彼女が所属するトゥルビネ・ポツダムの練習場からの帰り、好きなポツダムの旧市街でお昼を食べ、少し散歩したのですが、クレーンがいくつもそびえる旧市場広場(Alter Markt)の変貌ぶりに驚きました。前回紹介してから時間も経っているので、ここで今の様子をお届けしたいと思います。

関連記事:
ポツダムへの道(1) - もう1つの王宮再建 - (2010-02-14)
ポツダムのアルター・マルクト広場 (2010-02-24)

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ポツダム中央駅からトラムに乗って、Lange Brückeという橋を渡るとこの眺めが見えてきます。奥にシンケルが設計したニコライ教会が望め、ポツダムを訪れる人が旧市街で最初に出会うこのアルター・マルクト広場に、この春から本格的に王宮の再建工事が始まっているのです。

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昔だったらレンガを1つ1つ積み上げていくのでしょうが、今はコンクリート。なかなかの急ピッチで建設が進んでいます。とはいえ、外観は基本的にホーエンツォレルン家の王宮を忠実に再現するようで、実際の色や素材を使ったモデル・ファサードが展示されていました。

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ブランデンブルク州の州都で目下最大の工事現場だけに、写真を撮る人の姿もちらほら。カメラを向けたらおじさんがポーズを取ってくれました。ベルリン中央駅の時の工事現場を思い出すなあ。

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2008年12月に撮影したAlter Marktの様子です。オベリスクの右隣の門にご注目を。これはフォルトゥナ門といって、かつて王宮の中庭に続いた門。再建される王宮の最初の一部分として、ここだけはすでに2001年に造られていたのです。この門の再建のために多額の寄付をした人の中に、ポツダム在住の有名なテレビの司会者ギュンター・ヤオホがいます。

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ポツンと立っていたあのフォルトゥナ門が、王宮の一部に組み込まれつつあるのをおわかりいただけるでしょう。

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広場の一角にインフォボックスが設置されていて、てっぺんから工事の現場を眺められるようになっています。丘の上にちょこんと見える建物が、現在のブランデンブルク州の州議会。2012年末(予定)に王宮が再建された後は、ここに州議会が移ってくることになっています。

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前回ご紹介した時は修復作業中だったポツダムの旧市庁舎、そしてその右隣のクノーベルスドルフハウスも輝きを取り戻しました。

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来年はフリードリヒ2世(大王)の生誕300周年。最新号のDer Spiegelもフリードリヒ大王を特集しています。大王のお膝元だったポツダムが、ますます魅力的な古都になろうとしています。

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by berlinHbf | 2011-11-09 19:14 | ドイツ全般 | Comments(0)

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