ベルリン-東と西が出会う場所。ドイツにありながらドイツではない町。歴史の影に彩られた栄光と悲運の世界都市。そんなベルリンの奥深い魅力をリアルタイムでお届けするブログです。Since 1. August 2005


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中村真人 (Masato)
神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。ベルリンの映像制作会社勤務を経て、現在はフリーのライター、ジャーナリスト。


ベルリンガイドブック
「素顔のベルリン」増補改訂版
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(Amazon、全国各書店にて発売中)

本書は2009年10月発行「素顔のベルリン」の増補改訂版です。2013年に改めて新規取材を行い、データを更新。レストランやショッピング、コラムなどのページも増量し、より充実したガイドブックに生まれ変わりました。

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地球の歩き方シリーズ初、待望のベルリンガイドブック誕生!比類なき歴史を抱えつつ、明日へ向かって日々進化し続ける首都ベルリン。「ドイツで最もドイツらしくない」といわれるこの町の知られざる魅力を、現地在住著者が12のエリアにわけて徹底紹介。


現在のトップ画像は、ベルリン在住のイラストレーター、高田美穂子さんによるオリジナル作品です(詳しくはこちらより)

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タグ:歴史(Geschichte) ( 111 ) タグの人気記事

外林秀人さんインタビュー(2) -なぜ被爆体験を封印してきたか-

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外林さんはヒロシマの被爆者である。16歳の時、広島高等師範学校の化学の授業中に爆風を受けた。爆心地から南にわずか1.7 キロの距離だった。奇跡的に生き延びたものの、原爆で母親、そして多くの親戚や知人を亡くしている。この体験を、外林さんは数年前まで公にすることはなかった。半世紀以上もの間、被爆体験を胸の奥に秘めてきた背景は何だったのだろうか。

「見ません、聞きません、しゃべりません」という猿のことわざではないですが、言い出すと思い出すし、思い出すと嫌になる。別にそれで何か得があるわけでもない。もちろん原爆について何かを伝えなければという思いはあります。ただ、被爆者ということで疎外される現実があるのです。例えば、今回のヒロシマ広場の原爆記念碑に広島と長崎からの被爆石が埋め込まれましたが、「被爆した石というと、ドイツ人が嫌がるからあえて書かない方が良いのではないか」という反応がありました。冗談ではないと。被爆者の悲劇が疎外されている。「触らない方が良いだろう。何が起こるかわからないから」ということですが、こういったことは被爆者に対しても当てはまります。科学的には全く意味のないことですが、かといって科学的には意味がないと言って削るわけにもいかないんです。実際わからないですから。被爆した人に何らかの影響が出るのは、10年後なのか20 年後なのか、あるいは次の世代なのか。恐いのはそこです。原爆というのは実験なんです。そして、その実験はまだ完了していない。

例えば、私の弟に息子と娘がいるのですが、「縁談に影響するから、(被爆のことは)あまり大っぴらに話さないでほしい」と言われたことがあります。エイズのように、いろいろな噂が流れ、それが疎外につながっていく。また、私は亡くなった母の慰霊を広島の国立の記念碑に登録したかったのですが、それも「ちょっと待ってほしい」と周りから止められました。自分の親族が原爆の被害者だということを知られるのを嫌がるのですね。被爆者への疎外というのは、広島の中でも外でも、いまだに根強くあるんです。そういうことがあるから私も口を控えて、人が嫌がることを敢えてやる必要もないだろうと思っていました。

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ホテル・ヒルトン内のカフェで2時間にわたり、ご自身の体験をお話ししてくれた外林博士

転機は2006年に訪れた。愛知万博の最終日に、『ドイツの原子力物語』(総合工学出版社)の共著者である科学者の外山茂樹氏、そして仁科浩二郎氏に後押しされ、3人で講演会を名古屋で行った。日本で被爆体験を語った最初の機会だったという。

反響は大きく、同じことをドイツでもやったらどうかということになったんです。特にその後押しをしたのが、私の妹でした。終戦の年、当時10歳以下だった妹は広島の郊外に強制疎開しており、母がその様子を定期的に見に行っていました。子どもたちにとっては母親と一緒に寝るのが楽しみだったのですね。8月の初頭、恋しがる妹の希望で、母は滞在を少し延ばしました。ところが、そのために、8月6日が勤労奉仕(空襲の際、火の回りを遅らせるために、建物を壊して道路を拡張する作業。町内ごとに分担が決まっていた)の分担の日に当たってしまった・・・・・・。もし母がそのまま帰って、前の日に勤労奉仕をしていたら、助かっていたかもしれない。妹はそのことに対して責任を感じていて、原爆の反対運動に対して熱心でした。それだけに、私が名古屋で話したことも喜んでくれて、「お兄さん、しっかりね」とドイツでの講演も応援してくれたのです。

2007年にベルリンの日独センターで講演を行って以来、ドイツはもちろん、ヨーロッパの諸都市で原爆の体験を語り続けてきた。そこで集まった募金は、記念碑設立の資金に回された。現地の人々の反応はどうだったのだろうか。

反応はとても良いです。私が原爆を受けた時と同じ、15、6歳ぐらいの若い皆さんの前で話す機会もありますが、後でいただいた手紙を読むと、アメリカを憎むとか、責任者は誰々だとか、そういうことではなくて、「人間が、こんなことをして良いのですか?」という純真な反応を示してくれます。

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被爆した広島電鉄の路面電車の敷石と、長崎市の山王神社境内の石が埋め込まれている原爆記念碑

今回のポツダムの原爆記念碑に関して、現地在住のアメリカ人による投稿が地元紙に掲載された。「この記念碑を作ることによって日本人は被害者の立場に立ち、戦争責任から目を反らそうとしている」という趣旨の投稿に対して紙面上で議論が交わされ、ちょっとした話題となった。

広島と長崎に原爆が落とされて、被害を受けたのはもちろん日本人です。でも私は、原爆というのは神が人類全体に対して行った行為だと思っています。私がいろいろ意見を言っているのも、日本人としてではなく、こういう悲劇は二度と人類に起きてはいけないという意味で、多くの人間の1人としてお話ししています。核の危険性が増す中で、ボタン1つ押せば原子爆弾は飛ぶんですから。すると、相手も自動的にボタンを押すでしょう。それによって人類は滅亡するんです。最後なんです。人類全体の問題として私は話をしているのに、議論の程度が低くなると、誰々が殺した、だからこちらも誰々を殺した、ということになってしまう。原爆の悲劇はわれわれだけでいい。その望みをこれからの人々に託したいという思いから、私は今いろいろな場所でお話ししているのです。

(つづく)

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by berlinHbf | 2010-10-06 00:59 | ベルリンの人々 | Comments(8)

外林秀人さんインタビュー(1) -ベルリンほど原爆に安全な場所はなかった-

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8月にインタビューをさせていただく機会のあったベルリン在住の科学者、外林秀人さんの記事が今週号のドイツニュースダイジェストに掲載されました。字数の関係で掲載できなかった部分も含め、これから3回に分けて再掲したいと思います。大変興味深い内容なので、お読みいただけると幸いです。

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外林 秀人 
そとばやし・ひでと

工学博士
1929年長崎市生まれ。16歳の時に広島で被爆。京都大学工学部を経て、マックス・プランク研究所教授、ベルリン工科大学非常勤教授(高分子物理化学)を歴任。1994年定年退職、ベルリン在住。
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ポツダム会談の会期中の1945年7月25日、トルーマン米大統領は、当時滞在していたポツダム市郊外のグリープニッツ湖畔の邸宅で、日本への原爆投下命令を下したと言われている。あれから65年が経った今年7月25日、歴史的な邸宅の前の「ヒロシマ広場」にて、新しい記念碑の除幕式が行われた。この「ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会」の中心メンバーの1人として記念碑設立に尽力してきたのが、外林さんである。

外林さんは、1957年にフンボルト財団の奨学生として海を渡って以来、科学者としてほぼ途切れることなくベルリンに住んでいる。壁の建設、東西冷戦の実情、そして壁の崩壊に至るまで、直に体験してきたベルリンの昔の話からインタビューは始まった。



1957年、28歳の時にフンボルト財団の奨学生としてベルリンにやって来ました。当時すでにヨーロッパへ飛行機が飛び始めていましたが、京都大学の高分子学科の桜田先生は、「お前はまだ時間があるのだから、船で行きなさい」とおっしゃるので、神戸からジェノヴァまで貨物船に乗って約4週間かけてヨーロッパにやって来ました。

1961年8月13日は、車でイタリアを旅行していました。現地の新聞が盛んにベルリーノと報道していて、そこで壁ができたことを知ったんです。もちろんびっくりしましたが、自分にとって一番大事な所有物である車は持って出ていたので、急いで戻る必要もないなと。その約1週間後、ベルリンに帰る時に、ちょうどハノーヴァーからアメリカ軍の戦車が西ベルリンに入るのにぶつかって、一緒に走ってきました。西ベルリンの市民は大喜びしていましたよ。もちろん私に対してではなく、アメリカ軍に対してでしたけれども。ジョンソン副大統領が西ベルリンを訪れたのもちょうどその時だったと思います。よく覚えているのは、(西ベルリンに入ってすぐの)ヴァンゼーで市民から花束をたくさんもらったことですね。当時は西ベルリンを出て行く人ばかりだったから、ベルリンナンバーの車がわざわざ戻って来て、しかもそれが外国人だったから、「よく帰って来てくれた!」と歓迎されたのです。

いろいろな経験をしたのは、東ドイツと西ドイツ、表面上は喧嘩しているように見えても、下では手を握っているようでしたね。アメリカやソ連の援助を引き出すために、時々危ない場面も作り出すわけです。そういう政治の裏事情はよく感じられました。何か突拍子もない事件が起きても、「これは本当に喧嘩しているのか?どこまで本気なのか?」と思ってよく見ると、予め下の方で仕組まれていて、経済援助を引き出すためにわざとやったのではないかと思うことがよくありました。政治というのは作り事ですよ。壁を作って、(意図的に)緊張を生み出す。東独では車を運転する際に嫌がらせも受けましたね。検問所で丹念に検査をすれば、20〜30キロの渋滞はすぐにできます。車を追い越す時にウインカーを出したとか出さなかったとかで嫌がらせを受けましたし、ドレスデンにオペラの招待を受けて出かけた時は、ビザの関係でその日のうちに帰って来なければならなかったのですが、なにせ道路状態が悪いでしょう。10分ぐらい遅れただけなのに、もう大変。検問所で車の中のありとあらゆる場所を調べられました。

これだけ長く住んでいますから、やはりベルリンが好きなのでしょうね。フリッツ・ハーバー研究室の雰囲気も大好きで、昔からの伝統があり、やりたいことが自由にできる最高の環境でした。もう1 つ、ベルリンに長く住んでいる理由は、ベルリンほど原子爆弾に対して安全な場所は世界になかったからです。アメリカもソ連もここには決して原爆を落とせなかったでしょう。ソ連が西ベルリンに攻めて来るなんて言われていましたが、進撃にだって時間は掛かる。一番恐いのは原爆ですよ。ここにいれば二度と原爆には遭遇しないだろうと信じていましたから。

(つづく)

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by berlinHbf | 2010-10-03 14:09 | ベルリンの人々 | Comments(0)

ツェツィーリエンホーフ宮殿を歩きながら考える

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Schloss Cecilienhof (2009.4)

仕事柄、ポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿に来ることが多い。去年から急にその頻度が増え、この1年半の間に一体何度ここを訪れただろうかと思う。ポツダム観光のもうひとつのドル箱、サンスーシ宮殿も私は大好きだが、時間が限られた中でどちらか1つとなると、日本人にはやはりツェツィーリエンホーフ宮殿を勧めるだろうか。実際、「ここに来てよかった」と言って帰る方は少なくない。

日本人にとってツェツィーリエンホーフ宮殿で馴染みが深いのは、ここが「ポツダム宣言」の舞台であり、ポツダム会談の会期中にアメリカ大統領のトルーマンが広島への原爆投下を決定したことだろう(実際にその決定がなされたのは、ノイエ・バーベルスベルクの邸宅と言われているが)。

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皇帝ヴィルヘルム2世の息子、皇太子ヴィルヘルムとその妃ツェツィーリエのために造られたホーエンツォレルン家最後の居城。イギリスの別荘スタイルの建築様式が特徴的で、屋根の煙突1つを取っても、装飾がとても凝っているのがわかる。観光客の多くは、宮殿を見学したらすぐに帰ってしまうが、私がおすすめしたいのは、宮殿の裏側をぐるりと回ってHöhenstr.のバス停まで歩くことだ。裏手に回るとまず見えて来るのが、ツェツィーリエの書斎に面した小さな庭園。ここは初夏になると庭園の花々が本当に美しい。

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小道に出ると、ユングフェルン湖(Jungfernsee)に沿って、しばらく歩くことになる。まさにこの道に沿って、1989年までは「ベルリンの壁」が建っていたというのが、今となっては不思議だ。つまり、当時ツェツィーリエンホーフ宮殿の内部からユングフェルン湖への視界は、壁によって遮られていたことになる。

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やがて、ツェツィーリエンホーフ宮殿を裏側から一望できるポイントにやってくる。中央が、ポツダム会談の本会議場として使われた有名なホールだ。

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日本に住んでいた頃、(子供の頃に埋め込まれたイメージが強烈だったこともあり)ヒロシマとナガサキの原爆というと、おどろおどろしいイメージしかなかったが、ここに来ると物事がまた違って見えてくる。小鳥のさえずりを聞きながらのどかな道を歩いていると、これら美しい自然と原爆投下直後の地獄絵巻の光景とが、どうしても結び付かないのだ。1945年7月末も、この周辺の樹々は緑を咲かせ、ユングフェルン湖は今と変わらずそこにあったのだろう。この森や湖を背景に、たった1人の権力者の命令によって、人も自然も一瞬にして破壊する原子爆弾のスイッチが押されてしまったこと。そして、世界に核兵器が存在する以上は、今後もその可能性があり得ること。私の友人も言っていたが、これは戦勝国、敗戦国という枠組みでとらえることではない。人類全体の問題として、誰もが認識すべきことだと思う。

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by berlinHbf | 2010-08-06 23:28 | ドイツ全般 | Comments(4)

ポツダムへの道(1) - もう1つの王宮再建 -

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ベルリンからポツダムに入る方法は大きく分けて2つある。1つはオーソドックスに鉄道で行く場合だ。モダンなポツダム中央駅で降り、徒歩かトラムでハーフェル川に架かるLange Brückeという大きな橋を越えると、この風景が目に飛び込んでくる。

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近くに寄ってみると、昔ここにあった建物の地下部分ということがわかる。巨大な遺跡現場だ。初めて見た時、これは一体何だろうと、私は写真を撮りまくった。

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このAlter Marktという広場には、かつて王宮があった。かのフリードリヒ大王の時代の1744年から51年にかけて、建築家クノーベルスドルフの設計によって建てられたバロック様式の王宮である。第2次世界大戦末期に爆撃を受け、1959年に東独政府によって爆破された。このあたりの経緯は、ベルリンの王宮と非常によく似ている。

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それがこの度、オリジナルの様式に倣って再建されることになった。完成の暁には、現在、中央駅南側の丘の上にあるブランデンブルク州議会が、ここに移る予定だ。とはいえ、ベルリン王宮の再建同様、再建方法や使用用途をめぐって、そこに至るまで長い道のりがあった。歴史的な王宮を再建するとなると、当然大変な費用がかかる。そのため、一旦はモダン建築にすることで決まったのだが、市民団体をはじめそれに対する反対の声も強かった。こういう状況の中、Hasso Plattnerというソフトウェア会社が2000万ユーロという巨額の寄付を申し出たことで、王宮再建の方向に一気に傾くことになったのである。

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2008年12月4日の様子。正面のドームは、19世紀前半シンケルが設計したニコライ教会。ローマのサン・ピエトロ大聖堂をモデルにしたものらしい。左隣のDDR時代に建てられたプラッテンバウは、今となっては何ともみすぼらしい。ニコライ教会の右隣の覆いがかぶさっているのが、旧市庁舎。

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ほぼ同じアングルから、2009年10月9日の撮影。旧市庁舎の覆いが外され、よく見えるようになった。

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しばらくの間ずっと工事中だったトラムの路面も最近新しくなった。ポツダムの王宮再建は間もなく始まり、2013年には完成する予定。ベルリンだけでなく、ポツダムもいま大きく変わろうとしている。

関連記事:
ポツダム再発見! (2008-12-17)

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by berlinHbf | 2010-02-14 00:38 | ドイツ全般 | Comments(4)

ベルリン空輸作戦終結から60年

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昨年10月に惜しまれつつ閉鎖されたテンペルホーフ空港が、久々に表舞台に帰ってきました。5月12日、ベルリン空輸作戦の終結60周年を記念し、旧空港内の敷地を使って市民を対象にした祭りが行われたのです。

ベルリンの激動の歴史の中でも、この「空の架け橋」作戦はいまだに伝説的な存在であり続けています。1948年6月24日、ソ連による「ベルリン封鎖」で西ベルリンの周囲の交通網がすべて絶たれた後、ほぼ1年間にわたりアメリカのクレイ将軍指揮下の西側連合国が空の経路だけを使って220万人の西ベルリン市民のために食料や燃料、その他の生活物資を運び続けたという事実は、驚異的というほかありません。特に主要拠点となったテンペルホーフ空港では、何機もの飛行機が平行して高度差をわずか150メートルに保ちながら、数分おきに着陸するという光景が展開されました。49年5月12日の封鎖解除までに、その数は27万機にも達したと言われています。

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この日はオープンイベントに先立って、空輸作戦に貢献した77人の退役軍人がベルリンのヴォーヴェライト市長とユング国防大臣から感謝の意を込めて表彰を受け、「空の架け橋記念碑」の下では、空輸作戦中に事故で亡くなったパイロットらに献花が捧げられました。

空港内の敷地を使って行われたイベントは、平日にもかかわらず大勢の市民で賑わっていました。特設ステージでは、ビッグバンドの演奏や空輸作戦に参加した元パイロットのインタビューが行われ、かつての西側連合国であるアメリカ、イギリス、フランスの名物が並んだ屋台、当時の新聞記事を展示するコーナーなどがありました。

ハイライトは午後4時にやってきました。空輸作戦を象徴するアメリカ軍機、通称「干しぶどうの爆撃機」が元空港の上空を周遊し、小さなパラシュートの付いたチョコレート約1000個を落としていったのです。飛行機からそれを投げたのは、元アメリカ軍パイロットのゲイル・ハルフォーセンさん(88)。当時、子どもたちのためにお菓子付きのパラシュートを落とすというアイデアを最初に思いついたのはこの人で、そこからほかのパイロットにも広まったそうです。空港へ着陸する直前に主翼をわざと揺らして子どもたちに合図を送り、お菓子を落としていくアメリカ軍機の姿は、戦後の西ベルリンとアメリカの友好関係の象徴ともなりました。
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このほか「C.A.R.E」と書かれた、当時を再現した救援物資も配られていました。私は残念ながらもらうことができませんでしたが、中に入っていたのは干しぶどうのパンだったそうです。
ドイツニュースダイジェスト 6月19日)

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by berlinHbf | 2009-06-20 12:35 | ベルリン発掘(西) | Comments(6)

ベルリン空輸終結から60年

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今年は、前回お話した11月のベルリンの壁崩壊20周年に加え、ドイツの基本法制定60周年、大統領選挙(どちらも5月23日)、夏の世界陸上、秋の連邦議会選挙と(特に政治の)重要な行事が目白押しで、首都のベルリンは大忙しです(ちなみに今日は麻生首相がベルリンを訪れました)。私もその恩恵にあずかって最近は忙しくしているのですが、来週もうひとつベルリンにとって重要な日がやって来ます。

それは、西ベルリンの人々を救ったあのベルリン空輸作戦終結(1949年5月12日)から60年という記念の日。来週12日(火)の14時から20時半まで、昨年閉港された旧テンペルホーフ空港の敷地内で一般公開のオープンイベントが行われるそうです。インフォメーションコーナーやライブ演奏、建物の見学、空輸作戦に関わった連合国の食べ物の屋台が並ぶなど、盛りだくさんの内容になっています(詳しくはこちらより)。お時間がある方は、ぜひ足を運んでみてください。

関連記事:
テンペルホーフ空港の終焉 (2008-11-15)

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by berlinHbf | 2009-05-05 22:00 | ベルリン発掘(西) | Comments(2)

変貌する「テロのトポグラフィー」

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ポツダム広場に近いニーダーキルヒナー通り(Niederkirchner Str)の壁は、「イーストサイドギャラリー」を除けば、ベルリン市内に残る「壁」の中ではおそらく最長だろう。昼間は観光バスの流れが絶えない場所だ。

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この裏手の広大な敷地は、ナチス時代にSS(親衛隊)とゲシュタポの本部があったところ。ここは1987年から、発掘された地下牢のスペースを使って、国家によるテロ、すなわちナチス時代の恐怖政治の歴史を伝える野外展示場になっている(それゆえ名前は「テロのトポグラフィー(Topographie des Terrors)」)。ベルリンに数あるオープンギャラリーの中でも、もっとも強烈な印象を与えるものだった(写真は昨年夏の様子)。

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先日久々に足を運んだら、あの野外展示はなくなっていた。どうしたのかと思い調べたら、展示会場は南側に移動したとのこと。長年の議論の末、「テロのトポグラフィー」の記録センターを造る工事が今着々と進んでいるのだ(現在の様子はこちらで見ることができる)。予定では、(ヨーロッパにおける)第2次世界大戦終結65周年の2010年5月8日にオープニングを迎えることになっている。

この「テロのトポグラフィー」については、以下のサイトが詳しいです。
テロ・トポグラフィー(テロの地勢図) BMK Berlin

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by berlinHbf | 2009-04-15 10:54 | ベルリン発掘(境界) | Comments(10)

ベルリンに帰った貴志康一

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©甲南大学貴志康一記念室所蔵

1930年代前半、ベルリンで信じられないようなキャリアを築いた若き日本人音楽家がいました。その名は貴志康一。大阪の商家に生まれ、ジュネーブとベルリンでヴァイオリンの研鑽を積みながら、ヒンデミットに作曲を、フルトヴェングラーに指揮を学び、25歳でベルリン・フィルを指揮するという快挙まで成し遂げます。交響曲や歌曲、オペレッタまで多くのジャンルで曲を残したほか、映画製作にも力を入れ、並々ならぬ意欲を持って日本文化の紹介に努めました。しかし帰国後、わずか28歳で急逝すると、戦中・戦後の混乱の中、その名は忘れ去られていきました。

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2009年は貴志の生誕100年目に当たる記念の年。生まれ故郷の関西を中心に彼への関心がじわじわと高まる中、ベルリン日独センターが、展覧会「貴志康一、ベルリンに帰る」を貴志に縁のある甲南大学と共催しました。日本大使館や甲南大学の関係者も出席したオープニング式典の様子をお伝えしたいと思います。最初に、今回の企画の実現に尽力したソプラノ歌手の中嶋彰子さんが、貴志作曲の「赤いかんざし」と彼の編曲による「さくらさくら」を情感豊かに歌い上げました。中嶋さんは、この日の昼に行われたフィルハーモニーでの「ランチコンサート」でも貴志とその同時代の音楽を紹介し、大変好評を博したそうです。

また、貴志が製作した短編映画2本が上映されたほか、ベルリン・フィルの資料室長ヘルゲ・グリューネヴァルトさんによる1930年代のベルリンについての小講演や、写真や楽譜などから成る展示物によって、貴志のマルチタレントぶりと彼が生きた時代背景が鮮やかに浮かび上がってきました。中嶋さんによると、貴志の音楽がベルリンに鳴り響くのは記録を遡っても70数年ぶりだったそうで、戦前、必死に日独の橋渡しに努めたこの若き音楽家が、確かに「第2の故郷」であるベルリンに帰って来たのだと実感しました。当展覧会は、日独センターにて4月17日(金)まで開催されています。
ドイツニュースダイジェスト 4月3日)

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by berlinHbf | 2009-04-03 09:56 | ベルリン音のある街 | Comments(4)

「ゲルマニア」の幻影

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Kolonnenbrückeにて(2008年8月3日)

ベルリンでは何気ない場所にすごいものが存在するのだが、その例として、今日はこんなものをご紹介したいと思う。

それは、前回マレーネ・ディートリッヒの生家で紹介した「赤の島」とクロイツベルク地区がほぼ隣接した地点にあり、鉄道が走るコローネン橋からもこのように見渡せる。だが、画面中ほどの物体が目に入ったところで普通は通り過ぎてしまうのがオチだろう。もう少しそばに寄ってみよう。

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これは、高さ18メートル、12.650トンのコンクリート製の円柱だ。1941年から42年にかけて建造されたという事実は、注目に値するかもしれない。

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当時、第2次大戦はすでに始まっていたが、ヒトラーは第三帝国の首都ベルリンの改造計画、いわゆる「ゲルマニア計画」をまだ本気で夢見ていた。しかし、アルベルト・シュペーア設計によるモニュメンタルで巨大な建造物が、ベルリンの軟弱な地盤に耐えられるかどうか見極める必要があった。ヒトラーは、そのシュミレーションテストのために、Schwerbelastungskörperと呼ばれるコンクリート製のひたすら重い物体を作らせたのだった。

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幸いにしてゲルマニア計画は実現に至らなかったので、この円柱がヒトラーの野望実現のため実際に造られたわずかな建造物の1つということになる(現在は文化財に指定)。ヒトラーはこれを眺めながら、パリの比ではない巨大な凱旋門や18万人を収容できるドーム型のホールをイメージし、妄想を膨らませていたのだろうか・・・。奇妙な感慨にとらわれる建造物だ。

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by berlinHbf | 2009-03-19 23:33 | ベルリン発掘(西) | Comments(6)

メルキッシュ岸沿いに歩く(2)

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前回ご紹介したRoßstraßebrückeからInselbrückeまでの2つの橋の間は、歴史的な建築物が立ち並ぶ。初めてここに来た時、「こういう場所がベルリンにあるのか」と結構感動したものだ。2年前に訪れたコペンハーゲン旧市街のニューハウンを何となく思い出す。建築様式的にも案外近いのではないだろうか。

関連記事:
北欧の雄、コペンハーゲン滞在記(1) (2007-09-26)

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もちろんコペンハーゲンのニューハウンには、目の前にこんな高層マンションは建っていない。このアンバランスさがベルリンの魅力だろうか・・・。そういうことにしておこう(笑)。

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ついでに違う季節の写真も1枚。これは2006年9月に訪れた時の様子。運河沿いに気の利いたカフェでもできれば人だって集まると思うのだが、私が来る時は大体いつもこんな感じだ。近くのニコライ地区はともかく、ここまで来る観光客は非常に少ない。

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Inselbrücke橋のたもとからのテレビ塔方面の眺めは、とても好きだ(2007年4月撮影)。このすぐ近くにはベルリン史の宝庫、「メルキッシュ(辺境)博物館」もあるし、ベルリンの歴史を感じ入るには最高のエリアといえるのではないだろうか。

関連記事:
ベルリン史の宝庫、メルキッシュ(辺境)博物館 (2006-04-09)

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Johann Georg Rosenbergが描いた18世紀末頃のこの界隈の様子。のどかな漁村の風景が当時はまだ広がっていたのだ。

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ベルリンの原風景を想像しながら、私は次なる歴史的な地区へと向かった。

(少し間を置いてまた続きます)

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by berlinHbf | 2009-02-22 01:07 | ベルリン発掘(東) | Comments(2)

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