ベルリン-東と西が出会う場所。ドイツにありながらドイツではない町。歴史の影に彩られた栄光と悲運の世界都市。そんなベルリンの奥深い魅力をリアルタイムでお届けするブログです。Since 1. August 2005


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中村真人 (Masato)
神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。ベルリンの映像制作会社勤務を経て、現在はフリーのライター、ジャーナリスト。


ベルリンガイドブック
「素顔のベルリン」増補改訂版
¥1,680
ダイヤモンド社
(Amazon、全国各書店にて発売中)

本書は2009年10月発行「素顔のベルリン」の増補改訂版です。2013年に改めて新規取材を行い、データを更新。レストランやショッピング、コラムなどのページも増量し、より充実したガイドブックに生まれ変わりました。

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豊富なビジュアルとドイツ語フレーズを楽しめる1冊。基本のあいさつ表現から、街にまつわるドイツ語豆知識まで、ガイドブックとともに旅に役立つ会話集です。




『素顔のベルリン 過去と未来が交錯する12のエリアガイド 』
¥1,575
ダイヤモンド社
(2009年発売)

地球の歩き方シリーズ初、待望のベルリンガイドブック誕生!比類なき歴史を抱えつつ、明日へ向かって日々進化し続ける首都ベルリン。「ドイツで最もドイツらしくない」といわれるこの町の知られざる魅力を、現地在住著者が12のエリアにわけて徹底紹介。


現在のトップ画像は、ベルリン在住のイラストレーター、高田美穂子さんによるオリジナル作品です(詳しくはこちらより)

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タグ:歴史(Geschichte) ( 111 ) タグの人気記事

平和のためのコンサート

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日本大使館で講演を行った田邊雅章さん(写真:在ドイツ日本国大使館)

広島への原爆投下から67年が経った8月6日、ベルリンの日本大使館で「平和のためのコンサート」が行われ、外交団を中心に日独約100人が出席し、私も参加する機会を得ました。  

コンサートに先立って、田邊雅章氏による短い講演がありました。広島出身の田邊さんはご自身が被爆者で、今回は日本政府の非核特使としてドイツに来られたとのことです。今の原爆ドーム(当時は広島県産業奨励館)の東隣で生まれ育った田邊さんは、原爆が投下された当時8歳(小学2年生)。その数日前に疎開をしていたため助かりましたが、2日後に家族の安否を求めて家の跡にやって来ました。「そこで見たもの、臭ったもの、触ったものの不気味さは、今でも忘れることができない」と語ります。

「後で分かったことですが、母と弟は、朝食を片付けていた台所で犠牲となり、今も行方不明で、原爆ドームの側の地面深くに眠っています。せめて苦しまないで、あの世へ行ってほしかった。祈らない日はありません。諦め切れずに、いつか帰ってくるのではという思いから、2人の葬式はいまだに行っておりません」  

田邊さんは、父と母、弟を一度に失いました。「祈らない日はありません」という言葉に私は、被爆者の方々が抱えてきた悲しみと苦しみ、その時間の重さが突然心にのしかかってきたようで、ショックを感じました。  

講演後、映像作家である田邊さんによる、被爆前の原爆ドーム周辺の街並みや暮らしを再現した自作のドキュメンタリーが流されました。原爆ドームというと、私も含め多くの人は、現在の廃墟の姿しか知りません。しかし、その周辺を「ふるさと」として過ごした田邊さんは、建物や内部の様子から働いていた人々、街並み、暮らしまでを克明に記憶しています。「ほとんど知られていない被爆以前の情報をよみがえらせ、後世に伝えることは、生き残った者の使命である」と考え、ドキュメンタリーの制作に取り組まれたそうです。  

私は映像を見ながら、本誌836号(2010年10月1日発行)の「独日なひと」でご紹介し、昨年末に惜しまれつつ亡くなった科学者、外林秀人さんのことを思い出していました。外林さんもまた、その晩年、ドイツで被爆体験を伝えることを自らの使命と考えていらっしゃった方。自身の講演会で毎回聴衆に見せていたのが、田邊さんが制作したこの映像だったのでした。  

戦後67年が経ち、被爆者、そして戦争体験者から直接話を聞ける機会は確実に減ってきています。彼らがこれからの世代に残そうとしているメッセージに、真摯に耳を傾けたいと改めて思った夜でした。  講演会の後は、バイエルン国立管弦楽団のメンバーで構成されたシューマン弦楽四重奏団とピアニストの西村信子氏による室内楽のコンサート。中でも、「ファシズムと戦争の犠牲者の想い出に」捧げられたというショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第8番は、田邊さんのお話を聞いた後だけに、作曲者が込めた表現の切実さが一層胸に迫ってきました。
ドイツニュースダイジェスト 9月14日)

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by berlinHbf | 2012-09-21 22:43 | ベルリン音のある街 | Comments(0)

発掘の散歩術(26) -市制775年!中世のベルリンを掘り起こす-

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お祭りが行われたニコライ教会前にて。プロイセンの地方警官に扮した男性は、頻繁に記念撮影に応じる

今年2012年は、ベルリン市の市制775周年である。ブランデンブルク司教と辺境伯との間で交わされた1237年10月28日の文書で、シュプレー川を隔ててベルリンの双子都市の関係にあったケルン(Cölln)の名前が初めて登場する。これが、都市ベルリンの公式な起源とされている。  

もっとも、1237年といったところでピンとくる人は少ないだろう。破壊と再生をドラマチックに繰り返してきたベルリンにおいて、近世以前の面影を見出すことは不可能に近い。それでも期待を胸に、8月最後の週末に行われたお祭りと記念展示を見に出掛けた。  

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ニコライ教会の周辺は、人でごった返していた。ここは、1987年の市制750年の際、当時の東独政府が中世風の街並みを再現したエリア。石畳の道を歩いていると、18世紀の国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世らしき格好をした人が、杖をついてこちらに向かって来るではないか。それだけではない。ちょっぴりキザな仕草を見せるフリードリヒ大王、17世紀にフランスから逃れてきたユグノー教徒の青年。かと思えば、制服でびしっと身を構えた、身長約2メートルの初老の男性が、小気味いいリズムで歩いてきた。これはジャンダルムリと呼ばれた地方警官なのだそう。演出とはいえ、この街の歴史を彩ってきた人たちがここかしこに混じっているのは楽しい。  

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ペトリ広場の近くにて。「最初のベルリーナーは、フラマン、ラインラント、ヴェストファーレンから来た人たちだった」

ニコライ教会からミューレンダムを通ってシュプレー川を渡り、ペトリ広場へと続く通りは、中世の時代にはメインストリートだった。東独時代に建てられた高層アパートが並び、当時の面影など何もないように見えるが、ここはかつてケルンの中心で、ペトリ教会がそびえていた広場。2008年からこの場所で始まった考古学調査により、中世の人骨や住居跡、生活用品が多数発掘され、1237年より大分前から都市ベルリンの萌芽が見られることが確認されたのである。歩道の上にはしばしば道しるべとして、当時の生活をしのばせるテキスト情報が白地でマークされている。例えばこんな具合だ。 「このフィッシュマルクトでは、商人がシュプレー川とハーフェル川の新鮮な魚を売っていた。バルト海のニシンもここで手に入った」「中世のグローバルな労働市場:ドイツの染色工がフィレンツェで、フラマン地方の織物師がベルリンで働いていた」

関連記事:
掘り起こされたベルリンの「中世」(2008-10-12)

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ベルリンの水運を担ってきた歴史的な港

アスファルトとビルの下に眠る中世は、我々が想像するより遥かに活気あるものだったのかもしれない。近くの港には、歴史的な船が次々にやって来て、蒸気の匂いが立ちこめる。13世紀当時、すでにベルリンの商人はフラマン地方の布を求めて遠隔の旅に出ていた。また年市場は大きな賑わいを見せ、オリエントから貴重な香辛料がもたらされることもあったという。  

ニコライ教会に戻る途中、こんな言葉が目に入った。「今日、ベルリン市民の約27パーセントが移民の背景を持っている。775年前は100パーセントだった」  

グローバル化の良きも悪きも体現した現代のベルリンだが、物事を一歩引いて眺める、こんな柔軟な視野を持った都市であり続けてほしい。
ドイツニュースダイジェスト 9月7日)


Information
野外展示「中世はわれわれの下にある」
Das Mittelalter ist unter uns


ニコライ地区、ペトリ広場、モルケンマルクト(乳清市場)、市壁跡など、ベルリン発祥の地に沿ってインフォボックスが並び、中世から現在までのつながりを知ることができる(英独表記)。マリーエン教会(Marienkirche)前には中央インフォメーションが立ち、パンフレットなどを入手できる。2012年10月28日(日)までの開催。同日ベルリン市は大規模なお祭りで市制775年を祝う。

入場無料
電話番号:(030)247 49 888
URL:http://www.berlin.de/775


ニコライ教会
Nikolaikirche


ニコライ地区の中心にあるベルリン最古の教会。漁師の守護神である聖ニコラウスに因み、1230年頃に建設が始まった。当初は1つの塔を持つ教会で、現在のネオ・ゴシック様式の姿になったのは19世紀後半のこと。第2次世界大戦で破壊された後、1980年代に再建。近年大規模な改修工事が行われ、常設展が一新された。

入場料:5ユーロ(割引3ユーロ)。毎月第3水曜日は無料。
オープン:月~日10:00~18:00
住所:Nikolaikirchplatz, 10178 Berlin
電話番号:(030)24 002 162
URL:http://www.stadtmuseum.de

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by berlinHbf | 2012-09-14 21:12 | ベルリン発掘(東) | Comments(2)

発掘の散歩術(24) -ボヘミア村の誕生日-

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6月の週末、ノイケルン地区で開催されたアートイベント「48時間ノイケルン」を見に行ったときのことだ。同地区内のリクスドルフ(ドルフ=村)を歩いていたら、普段は静かなこの場所に祝祭的な雰囲気が漂っている。キルヒガッセという通りでは、細い路地の奥までテーブルが並び、人々がケーキを頬張りながら賑やかに歓談しているではないか。「一体何だろ」と思っていたら、275の数字が目に入った。なるほど、この村の275周年のお祭りだったのである。

その昔、今よりも小さかったベルリンには、郊外にいくつもの村が点在していた。中でもこのリクスドルフは特殊な歴史背景を持つ。1737年、東ボヘミアのチェルムナ村を追放された350人ほどの新教徒がベルリンのこの地にたどり着いた。ハプスブルク帝国統治下のチェコでは、信仰を禁じられていたためである。同年6月15日、移民の受け入れには寛容だったプロイセンの時の王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、自らが購入したリクスドルフの農場を彼らの居住地区として提供した。それにより、ドイツ人が住むドイツ・リクスドルフの北側に、チェコ人のボヘミア・リクスドルフが誕生し、それぞれ自治が営まれることになった。

ボヘミア・リクスドルフは、現在のリヒャルト広場北側のリヒャルト通り、およびキルヒガッセ周辺。大通りのカール・マルクス通りから200メートルほど歩くと、突然牧歌的な風景が目の前に現れる。このギャップは、何度味わっても楽しい。

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この村のシンボルは、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の大きな像。軍隊王のあだ名を持ち、臣下や息子のフリードリヒ大王に厳しく接するなど悪評もつきまとう王だが、この村のチェコ人にとっては恩人。実は、王の像が設立されて今年でちょうど100年だそうで、足下には記念の月桂樹の飾りが輝いていた。

この日は、キルヒガッセ沿いの住居も見学できた。入り口のレンガの高い壁からは想像できないほど、広々とした庭と納屋のような大きな倉庫、そして立派な家屋が奥に続き、住人たちがにこやかに迎えてくれる。ボヘミアからの亡命者は農業、そして手工業に携わる人が多かったそうで、住居の造りもその名残なのであろう。

100メートルはありそうな長テーブルに座って、地元の教区のご婦人方が作ってくれた美味しいケーキとコーヒーをいただいてから、近くの小さなミュージアムに行ってみた。案内をしていたポリーナさんという年配の女性に、「リクスドルフに今もチェコ人は住んでいるのですか?」と素朴な質問をしてみた。もちろん、という顔をしてこう説明してくれた。「今あなたが見てきた通りの小さな遊び場に、子どもたちがいたでしょう。彼らはベルリンに最初にやって来たチェコ人から数えて16代目の子孫にあたるのよ!もちろん私もね」

そうなのだ。家に招き入れてくれた人も、ケーキを振る舞ってくれた教会のご婦人方も、ドイツ語を母語として話していたから気付かなかったが、その多くが祖国を逃れて来たボヘミアンの子孫たち。

後でパンフレットを見たら、「このコーヒーテーブルは、追放者の子孫による感謝のしるしです」と書かれていた。
ドイツニュースダイジェスト 7月6日)


Information
ボヘミア村のミュージアム
Museum im Böhmischen Dorf


かつてチェコ人学校だった建物の中にある小さな博物館。移住の歴史から、生活の伝統、信仰、手工業、教育に至るまで、ベルリンのボヘミアンの過去と現在を、実物の衣服や生活用品などを交えて紹介している。開館時間は限られているが、前述のポリーナさんはじめ、スタッフの対応は親切だ。

住所:Kirchgasse 5, 12043 Berlin
電話番号:(030)687 4880
開館:木曜14:00~17:00、第1・第3日曜12:00~14:00
URL:http://museumimboehmischendorf.de

リクスドルフ鍛冶屋
Rixdorfer Schmiede


リクスドルフの中心、リヒャルト広場にある鍛冶屋。チェコ人がやって来る前の1624年創業という古い歴史を持ち、現在の建物は1797年に建てられたもの。今も現役の鍛冶屋で、体験講座や包丁の研磨作業などのサービスも提供している。毎年第2アドヴェントにこの広場で行われる名物のクリスマスマーケットの際は、内部を見学できる。

住所:Richardplatz 28, 12055 Berlin
電話番号:(030)694 2232
営業:月火木金10:00~16:00
URL:www.rixdorferschmiede.de

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by berlinHbf | 2012-07-08 13:14 | ベルリン発掘(西) | Comments(2)

日独の大空襲の記憶を伝える

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第2次世界大戦中、多くのユダヤ人が強制輸送されたベルリン・グルーネヴァルト駅17番線ホームで犠牲者に思いを寄せる二瓶治代さん

2月半ば、第2次世界大戦末期の東京大空襲など日本の空襲体験者がドレスデン、ベルリン、ハンブルクの3都市を訪れ、現地で空襲を体験した人々と交流しました。

今回ドイツを訪問したのは、1945年3月10日の東京大空襲を体験した二瓶治代さん(75)と、同年7月の鹿児島の空襲で左足を失った安野輝子さん(72) のほか、東京や大阪の空襲の遺族や研究者、弁護士ら約20人。ドレスデンでは 同年2月13日のドレスデン大空襲から67年目の追悼行事に参加し、二瓶さんは自らの戦争体験をドイツの聴衆の前で語りました。また、ドレスデン市民と一緒に「人間の鎖」にも加わったそうです。

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ベルリンのマリア・レギーナ教会での交流会の様子 © Wa-PeaceRing

発起人の1人である市民グループ 「和・ピースリング」の山本唯人さんは、 今回の訪独の背景をこう語ります。「東京や大阪だけでなく、ドレスデン、ゲルニカ、重慶といったほかの空襲被災都市でも、これまでその現実はあまり知られていませんでした。冷戦期の政治事情の下では、個々の被災者の体験にまで光が当たらなかったのです。昨年2月にドレスデンで行われた日独の戦争体験者を記録した写真展がきっかけで、戦争体験から被害補償の問題まで、ともに語り合いたいという声が上がりました」

東京大空襲を体験した二瓶さんにお話を伺いました。江東区の亀戸駅近くに家族と住んでいた二瓶さんは当時8歳でしたが、その夜の出来事を克明に記憶されています。火の筒のような焼夷弾が絶え間なく落ちる真っ赤な空、人が燃えているのを目の当たりにしたこと、熱風に飛ばされ、親とはぐれたときの恐怖心、何人もの焼死体の下敷きになったために助かったこと……。

「数時間前まで生きていた人たちが、ごみくずのように至るところに転がっていました。どこの国がやっても、どんな武器を使っても、戦争は残酷なものです」。二瓶さんは江東区の東京大空襲・被災資料センターで、今も定期的に自らの体験を若い世代の人々に語っています。

「ここを訪れる小学生から、たまに『どうしたら戦争はなくなるの? こういう (被災資料センターのような)建物があればなくなるのかな?』と聞かれます。 私はそんなとき、こう答えます。『建物を造っただけでは戦争はなくならないの。こういう展示を見たり、人から話を聞いたりして、戦争が本当に嫌だと思ったらそれをほかの人に伝える。そういう人たちがいっぱい増えて、手をつなぎ、戦争を止めようという声が世界中に広まれば、そして戦争をやりたいと思っている人ができない状況を作れば、戦争はきっとなくなると思うよ』。実際に、少しずつですが(戦争を)食い止めることはできてきていますよね」

戦争の記憶が色濃く残るベルリンは、 二瓶さんの目にどう映ったのでしょう。

「激しい地上戦が行われた街を歩いて も、ユダヤ人の慰霊碑を見ても、私がまず感じたのは『子どもたちはどんなに恐い思いをしただろうか……』。本当に胸が詰まりました」

自らの体験を重ね合わせるように切々と語る二瓶さんの姿を、忘れることができません。
ドイツニュースダイジェスト 3月23日)

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by berlinHbf | 2012-03-30 16:13 | ドイツから見た日本 | Comments(6)

ドイツニュースダイジェスト 生誕150周年特集「森鴎外とベルリン」

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往年のウンター・デン・リンデン ©Ichika Rokusou

明治時代を代表する文豪、森鴎外(1862 〜1922)。2012年は鴎外の生誕150年の記念年である。日本においてはもちろん、かつて鴎外が留学したベルリンでも、誕生日の2月17日にフンボルト大学主宰の記念式典が行われるなど、この文豪への関心がいま再び高まっている。

鴎外は1884年から88年までの約4年間、陸軍軍医としてドイツに留学し、その間ライプツィヒ、ドレスデン、ミュンヘン、ベルリンで学んだ。『舞姫』を挙げるまでもなく、とりわけベルリンは鴎外にとって思い入れの強い街だったようで、後の作品にも繰り返しその影響を読み取ることができる。

この機会に改めて鴎外の作品と向かい合ってみてはどうだろう。昨年、その著作『鴎外の恋 舞姫エリスの真実』(講談社)を通して、エリスのモデルとなった人物エリーゼ・ヴィーゲルトについて決定的な新事実を発見したベルリン在住のフリーライター、六草いちかさんに話をうかがった。いざ、鴎外の生きた19世紀末のベルリンへ!(インタビュー・構成:中村真人)

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by berlinHbf | 2012-03-06 16:44 | ベルリンを「読む」 | Comments(4)

発掘の散歩術(18) - プレッツェンゼーの悲劇を忘れない -

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「プレッツェンゼー」には2つの顔がある。1つは、地名の由来になっている同名の湖。太陽が照る夏の日にここを訪れたことがあるが、西側の岸には人口の海水浴場もあり、誰もが上機嫌、パラダイスのような光景が広がっていた。もう1つは、運河をはさんで湖の西側に位置するプレッツェンゼー刑務所。ここはナチス時代、国内外の反体制派の人々を送り込んで処刑したという暗黒の歴史を持つ場所として知られる。

テーゲル空港からTXLバスで市内に向かう際、運河に沿って走る記憶をお持ちでないだろうか。プレッツェンゼー刑務所の記念館は、この運河沿いにある。昨年12月の暮れも押し迫った日の午後、私はGedenkstätte Plötzenseeのバス停に降り立った。

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高い壁がそびえる記念館の入り口。この奥は現在も市の刑務所として使われている

運河側とは反対の方向に歩くこと数分、目の前に赤煉瓦を積み上げた高い壁がそびえ立ち、それが通りに沿ってずっと続いていた。遠くを見ると、工場の煙突からもくもくと煙が上がっている。どこか殺伐とした気配を漂わせる場所だが、それだけではない。1933年から45年までの間、この壁の向こうで2891もの人が絞首刑にされたのだ。

門をくぐると、そこは壁に囲まれた大きな中庭になっており、奥には「ヒトラー独裁の犠牲者に捧ぐ」と書かれた銘板が、その裏には2つの部屋からなる小屋が立っていた。最初の部屋に入り、私は思わず後ずさりした。手前にはいくつもの献花が置かれ、奥には2つの縦長の窓。その上には鉄製の竿が架けられ、5つの釣り鉤がぶら下がっている。ここが処刑室であることは明らかだった。

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プレッツェンゼー記念館の処刑室

ここでの処刑は元々手斧で行われていたが、1936年にはヒトラーの命でギロチンに取って代わったという。死刑判決を受けた人々は、ここに面した大きな監房(現存せず)に収容された後、中庭の処刑室に運ばれた。

もう1つの部屋では、刑務所の歴史と犠牲になった人々に関する資料が展示されていた。私が特に見入ったのは、当時ドイツ最大のレジスタンスグループの1つだった「赤いオーケストラ」について。ドイツの軍事情報を通信やビラを通じてソ連に伝えようとした彼らは、42年夏ゲシュタポによって捕らえられ、プレッツェンゼーで死刑判決を受けた。現在この部屋に見られる釣り鉤の付いたギロチン台が設置されるようになったのは、彼らを一段と残酷な手法で殺すためであったという。私は映画『白バラの祈り』での理不尽な法廷のシーンを思い出し、また絞首刑に要した分秒まで几帳面に記された報告書を見て、その冷酷さに身が凍った。「赤いオーケストラ」のメンバーの死刑の日付は、私の父が生まれるちょうど前後の時期でもあった。そのことを連れてきた妻に伝えたら、一瞬間を置いて、声を上げた。「え、それってつい最近のことじゃないの!」。

大晦日のカウントダウンを控えて華やぐ中心部から、わずか20分ほどの距離だった。世界でいくつもの独裁政権が崩壊した2011年。私はそれらの出来事を思い返しながら、決して遠くない過去と現在とを重ね合わせようとした。
ドイツニュースダイジェスト 1月20日)


Information
プレッツェンゼー記念館
Gedenkstätte Plötzensee


「赤いオーケストラ」同様、1944年7月20日の有名なヒトラー暗殺未遂事件(通称「ワルキューレ作戦」)に関わった89人もここで絞首刑にされた。最寄りのバス停Gedenkstätte Plötzenseeには、以前のようにTXLバスは停車せず、123番バスに乗る必要がある。バス停からは徒歩3分。入場無料。

住所: Hüttigpfad, 13627 Berlin
電話番号:(030)344 32 26
開館:(3~10月)毎日9:00~17:00 (11~2月)毎日9:00~16:00
URL:www.gedenkstaette-ploetzensee.de


プレッツェンゼー
Plötzensee


ヴェディング地区のレーベルゲ公園に面した全長1.7キロの湖。毎年6~8月にオープンする西岸の海水浴場(Freibad Plötzensee)は、水の清潔度も良好とのこと。天気の良い日には、日光浴など湖畔でくつろぐ人の姿が多く見られる。106番バスのSylter Str.が最寄りのバス停。

住所:Nordufer 24, 13351 Berlin
電話番号:(030) 4502 0533 (Freibad Plötzensee)

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by berlinHbf | 2012-01-19 23:22 | ベルリン発掘(西) | Comments(0)

フリードリヒ大王の生誕300周年

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サンスーシ宮殿とその下に広がる美しい庭園

ポツダムのワイン畑の丘の上に建つフリードリヒ大王の夏の離宮、サンスーシ宮殿を訪れ、魅了された方は多いのではないでしょうか。2012年は、「大王」ことフリードリヒ2世(1712〜86年)の生誕300周年。今年は、彼が足跡を残したベルリン、ブランデンブルク州の州都ポツダムを中心に、多数の記念行事が予定されています。

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フリードリヒ大王と言うと、どんなイメージをお持ちでしょうか。哲学者ヴォルテールを議論の友に迎えた、18世紀を代表する啓蒙専制君主。いくつかの戦争によって領土を拡大し、プロイセンを欧州の列強にのし上げた軍国主義者。絵画やフルートを愛し、自ら作曲までした芸術家としての顔。妃とはすぐに別居、一方で犬をこよなく愛したどこか孤独な私生活……。歴代のプロイセン王の中でも、フリードリヒ大王ほど多彩な側面を併せ持ち、今なお人々の関心を引き付けて止まない人物はいないかもしれません。

実際、メモリアルイヤーに予定されているプログラムの内容も多岐に渡ります。最初のハイライトは、大王の誕生日である1月24日にかけてでしょう。ポツダムでは1月12日から音楽、劇、朗読、講演など多くの文化行事が予定され(詳細はこちら)、24日にはベルリン・フィルハーモニーで記念コンサートが、同日コンツェルトハウスではヴルフ大統領も臨席しての記念式典が行われます。

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ポツダムの旧市街に置かれた新宮殿の特別展「FRIEDERISIKO」の巨大なシンボルマーク

4月28日から10月28日まで、ポツダムの新宮殿で開催される特別展「FRIEDERISIKO」は、一連のプログラムの中でも目玉と言えるものです。1756年から続いた七年戦争の終結後、フリードリヒ大王がプロイセンの国力を誇示するために建てさせたという新宮殿は、長らく修復工事が行われていましたが、今回初公開の部屋も含めて70ものホールが一般公開されます。主催するプロイセン宮殿庭園財団史上「最もお金を掛けた」展覧会と言われるだけあって、いやが上にも期待は膨らみます。

このほか、大王が皇太子時代を過ごしたラインスベルク宮殿、ベルリンのドイツ歴史博物館でも関連の展覧会が予定されており、ポツダムのブランデンブルク・プロイセン歴史館では、「王とじゃがいも」というテーマの展覧会も!フリードリヒ大王がプロイセン国民に初めてじゃがいもを食べさせたというのは、有名な話です。

2012年、フリードリヒ大王にどのような形で新たに出会えるのか楽しみです。皆さんもこれを機に、ベルリンやポツダムを訪れてみてはいかがでしょうか。
http://friedrich300.eu
ドイツニュースダイジェスト 1月13日)

ドイツ/フランスのテレビ局Arteでもフリードリヒ大王の特集が組まれています。1月22日には、昨年新宮殿で行われたエマニュエル・パユとカンマーアカデミー・ポツダムのコンサートも放映されるそうで、これは必見ですね。

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by berlinHbf | 2012-01-13 13:25 | ベルリンのいま | Comments(2)

ペルガモン博物館のパノラマ展

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巨大なガスタンクを思わせるパノラマ展の仮設会場

ペルガモン博物館の歴史は1864/65年冬、ドイツ人技師カール・フーマンがトルコのベルガマを初めて訪れた時にさかのぼります。彼は、古代都市の廃墟の大理石が雨風にさらされ、また地元民による遺跡の略奪が横行していたことに衝撃を受けたそうです。やがてフーマンがベルリン博物館の館長アレクサンダー・コンツェの支援を得て、さらにトルコ政府から発掘権を獲得したところで、1878年から3期に及ぶ大規模な発掘作業が始まりました。中でも、数世紀もの間、人々から忘れ去られていた大祭壇や、ギリシャ神話の神々と巨人族との戦いを描いたフリーズはまさに世紀の大発見で、ベルリンに運ばれた後、同博物館に再構築されたことは誰もが知るところです。この前に立つと、大祭壇の威容とヘレニズム芸術の極致を示すフリーズの彫刻の美しさはもちろん、古代文化の発掘と復元に捧げた人々の熱意に圧倒される思いがします。

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パノラマ展内部のイメージ図 © asisi

2011年秋、全く新しい形で古代ペルガモンが私たちの前に立ち現れました。現在、博物館の中庭に高さ27.5メートルの円柱の塔が立っており、これが特別展「ペルガモン―古代首都のパノラマ」の会場です。階段を上って行くと、天辺が展望台になっており、眼前に広がる360度の古代ペルガモンの大パノラマに息を呑みました。

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仮設のやぐらから撮影した現在のペルガモンのパノラマ © asisi

このプロジェクトの総責任者は、建築家で芸術家のヤデガール・アッシジです。アッシジはトルコのベルガマに足を運び、丘の上のペルガモン遺跡を一望できるポイントにやぐらを建て、無数の写真を撮影。現実の風景をベースに、過去に発掘された遺跡や最新の考古学研究に基づいて1つひとつのディテールをはめ込んでいきました。また、別に撮影された群衆シーンもパノラマ上にデジタル加工。その結果、西暦125年4月8日、ローマ皇帝のハドリアヌスが訪問したペルガモンの1日の様子が、この上なくリアルに再現されることになったのです。

パノラマ台から眺めると、あの壮麗な建築群がいかに厳しい地形の上に建てられていたかを実感できます。目の前にアテナ神殿がそびえ、その左の円形劇場では群衆がハドリアヌス帝を待ち受けています。右手には、かの大祭壇が! 大理石のレリーフが当時はいかにカラフルだったのかも分かりました。背景から流れてくる街の雑音や人々の歓声といったサウンド効果も、古代ペルガモンにいる気分を高めてくれます。

本館で開催中のもう1つの特別展や常設展を併せて見学すれば、古代都市を一層スリリングに感じられるでしょう。2012年9月30日まで開催。
www.pergamon-panorama.de
ドイツニュースダイジェスト 11月18日)

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ペルガモンの大祭壇

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by berlinHbf | 2011-11-20 11:39 | ベルリン文化生活 | Comments(4)

テレージエンシュタット訪問記(4) - 小さな画家と音楽と -

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私の怠慢によりすっかり時間が空いてしまいましたが、昨年5月にチェコのテレジン(ドイツ語名はテレージエンシュタット)を訪れた時の話の最終回を綴りたいと思います。ご興味のある方は、過去の記事をご参照ください。テレジンの「小要塞」を訪れた後に向かったのは、「大要塞」つまり現在のテレジンの街でした。

まず訪れたのは、中心部にあるマルクト広場。子供たちがボール遊びをしていました。こう見るとごく普通の街のようですが、テレージエンシュタットは上から見ると要塞の姿を完全に留めた特異な外観をしています。街の区画は完全に左右対称で、そのど真ん中に位置しているのがこの広場です。

関連記事:
テレージエンシュタット訪問記(1) (2010-11-28)
テレージエンシュタット訪問記(2) (2010-12-05)
テレージエンシュタット訪問記(3) (2011-01-30)

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テレージエンシュタットでまず訪れるべきなのが、マルクト広場に面したゲットー資料館でしょうか。旧テレジン市学校だった建物の中にあり、テレージエンシュタットのゲットーの歴史や投獄された人々の日常生活の一端が紹介されています(簡潔ながら日本語のパンフレットがあるのがありがたかった)。

この中で心打たれる展示物の1つが、テレジンに収容されていた子供たちが残した絵や詩の数々です。野村路子さんの『テレジンの小さな画家たち』(偕成社)やその展覧活動などを通して、テレジンの子供たちの絵は日本でも知られてきているようですね。2011年からは、小学6年生の国語の教科書にこの絵にまつわる話が載せられているのだとか。

関連記事:
命のメッセージ、教科書に ナチス収容所の子が描いた絵 (asahi.com)

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今も人が住んでいる街についてこんなことを言うのは失礼かもしれませんが、言いようのない悲しみが漂っている場所という印象を受けました。

テレージエンシュタットは、われわれが一般にイメージするナチ時代のユダヤ人の強制収容所とは違います。パンフレットにはこう書かれていました。「当初はユダヤ人の囚人は兵舎にのみ収容されたが、後に1942年半ばまでに元々の住民を強制的に移住させることとなった。テレジン市全体が収容所と化したのである」。

テレージエンシュタットはまた、ナチスによる宣伝の役割も担わせられることになりました。すなわち、「美化キャンペーン」による「ユダヤ人自治移住地」として、ユダヤ人に一定の「自由」を与えたのです。ここには多くの芸術家、作家、学者なども収容され、過酷な条件の中で彼らが作った音楽や劇が上演されました。テレジンの旧マグデブルク兵舎にはゲットー内の文化的催しに関する常設展示があり、駆け足ながら見ることができました。

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一昨年の秋、フィルハーモニーの室内楽ホールで、ダニエル・ホープ(ヴァイオリン)やフォン・オッター(ソプラノ)ら(上の写真のCDの出演者)によって、テレジンの音楽が演奏されました(この日はHAUで坂本龍一のピアノコンサートもあり、私は最後まで迷ったのですが、土壇場になってフィルハーモニーに走ったのでした)。プログラムに並んだのは、V. ウルマン、 P. ハース(前回の記事で紹介したヤナーチェクの弟子でもあります)、 E. シュルホフといった作曲家たちの作品。いかにも苦しみの中から生まれた感の音楽もある一方、オペレッタ風の楽しい曲、収容所から生まれたとは思えない洒脱な雰囲気の音楽もありました。これらの音楽は、ゲットーに収容された人々にささやかな喜びをもたらしたことでしょう。しかし同時に、時々ここを視察した赤十字の調査員に、この場所の真実を覆い隠すためのプロパガンダの意味合いもあったのでした。

このコンサートの最後のアンコールで、フォン・オッターがある歌を歌い出した時、私は突如心がふわっとなるのを感じました。どこか温かい気持ちにさせてくれる音楽だったのです。後から知ったのですが、その曲はアドルフ・シュトラウスという作曲家による、 "Ich weiß bestimmt, ich werd Dich wiedersehn"(僕には確かにわかる。君に再び会えることを)というタンゴのナンバーでした。「今は別れ別れだけど、いつかまたきっと会える」という男女の恋を描いたテキスト、そこに出てくるSehnsucht(憧れ)という言葉・・・。作曲家自身はもちろん、ユダヤの人々はどんな思いでこの歌に聴き入ったのかと思うと、胸に込み上げてくるものがありました。

シュトラウスはこの歌を作曲して間もない1944年秋、妻と子供と共に、アウシュヴィッツで殺されています。

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さらに私が衝撃を受けたのは、街の外れにひそやかに残っている1本の鉄道の線路でした。パンフレットにはこう書かれています。「移送を迅速化するため、1942-1943年にかけて囚人によりボフショフ駅からテレジンまで敷設された鉄道の引き込み線の一部」と。

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私が真っ先に思い出したのは、2007年にベルリンのグルーネヴァルト駅17番線ホームを訪れた時のことです(その時のレポートはこちら)。警告碑のホームに刻まれたユダヤ人の強制輸送の目的地で、もっとも頻繁に目にしたのがこのテレージエンシュタットなのでした。ベルリンからぎゅうぎゅう詰めの貨物に押し込まれ、ようやく「解放」されて降り立ったのがこの場所だったのかと思うと、身震いするものを感じました。もっとも、多くのユダヤ人にとってテレージエンシュタットは中継収容所(Zwischenlager)であり、ここからさらにアウシュヴィッツなどの絶滅収容所に送られ殺された人もたくさんいたわけです。

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ここが線路の終わり。

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街を半周ほどしてマルクト広場に戻って来ました。パンフレットによると、正面に見える「テレジン市役所は、いわゆる『ユダヤ人自治銀行』やその他の役所の所在地となった。ここで文化的催しも行われた」。

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かつて左の建物は「SS司令部」、右の建物は「女子寮」だったそう。そして、「広場は囲いがなされており、囚人は入れなかった」。

もう少しゆっくり見て回りたかったけれど、広場から出る次のバスに乗らないと、ベルリン行きの最終列車を逃すことになります。「ここで感じたことは、これからも考え続けていきたい」。そんな思いで、私は妻とプラハ市内行きのバスに乗り込みました。

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by berlinHbf | 2011-11-18 00:29 | 欧州を感じる旅 | Comments(2)

記憶の鉄路をたどる(4) - ドイツ技術博物館の保存鉄道 -

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ベルリンの乗り物の歩みを一望」で紹介したドイツ技術博物館の車庫の一般公開を見た後、同博物館の保存鉄道というのに乗る機会がありました。これがなかなか楽しい体験だったのでご紹介したいと思います。17時半の閉館の少し前、車庫の横に行ってみると、小さなホームの横にディーゼル機関車に率いられた古めかしい客車が横たわっていました。車庫から博物館まで1,2キロぐらい(?)、かつて終着駅アンハルター駅に向かう線路はほとんど全て撤去されましたが、その一部が保存されていたのでした。

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技術博物館の保存鉄道の存在は知っていましたが、こんなところが発着点になっていたとは。ちょっとわくわくした気分になってくると、やがて列車は静かに動き出しました。

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クロイツベルクの見慣れた風景が、古い客車のボックス席に揺られていると、時代が一気にさかのぼった気分になります。博物館のHPの記事によると、この客車は1937年にブレスラウ(現ポーランドのヴロツワフ)で製造されたものだとか。すごくゆったりしていて、普段乗るSバーンとは気分も全然違います。

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鉄橋の墓場 - 天使の降りた場所(14) -」で以前書いたヨーク橋を越えると、最近公園に生まれ変わったばかりのグライスドライエックの操車場跡に差し掛かります。私がここを散策してから約3年、随分きれいに整備されたものです。

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雨で歩く人などほとんどいないのに、ちゃんと踏切係の人も立っていました。「記憶の鉄路をたどる(3) - グライスドライエックの貨物駅跡(下) -」で私がうろうろしたのはこの辺りでしょう。また改めて散策に訪れたいと思いました。

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発車して10分も経たない頃でしょうか、博物館の手前で列車は停車しました。ここが終着点です。

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周辺には蒸気機関車のターンテーブルなど、貴重な産業遺産が錆び付きながらも保存されていました。

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博物館の裏口から中に入って、展示物を横目に出口へ向かいます。できればこの先にあったかつての大終着駅、アンハルター駅まで乗っていたかったけれど、あとは想像で。それでも、往年のベルリンがほのかに感じられた旅でした。

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by berlinHbf | 2011-10-28 18:24 | ベルリン発掘(西) | Comments(5)

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