ベルリン-東と西が出会う場所。ドイツにありながらドイツではない町。歴史の影に彩られた栄光と悲運の世界都市。そんなベルリンの奥深い魅力をリアルタイムでお届けするブログです。Since 1. August 2005


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中村真人 (Masato)
神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。ベルリンの映像制作会社勤務を経て、現在はフリーのライター、ジャーナリスト。


ベルリンガイドブック
「素顔のベルリン」増補改訂版
¥1,680
ダイヤモンド社
(Amazon、全国各書店にて発売中)

本書は2009年10月発行「素顔のベルリン」の増補改訂版です。2013年に改めて新規取材を行い、データを更新。レストランやショッピング、コラムなどのページも増量し、より充実したガイドブックに生まれ変わりました。

Amazonにてネット購入ができます。



『街歩きのドイツ語 』
¥1,575
三修社

豊富なビジュアルとドイツ語フレーズを楽しめる1冊。基本のあいさつ表現から、街にまつわるドイツ語豆知識まで、ガイドブックとともに旅に役立つ会話集です。




『素顔のベルリン 過去と未来が交錯する12のエリアガイド 』
¥1,575
ダイヤモンド社
(2009年発売)

地球の歩き方シリーズ初、待望のベルリンガイドブック誕生!比類なき歴史を抱えつつ、明日へ向かって日々進化し続ける首都ベルリン。「ドイツで最もドイツらしくない」といわれるこの町の知られざる魅力を、現地在住著者が12のエリアにわけて徹底紹介。


現在のトップ画像は、ベルリン在住のイラストレーター、高田美穂子さんによるオリジナル作品です(詳しくはこちらより)

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タグ:ユダヤ人 ( 38 ) タグの人気記事

グルーネヴァルト駅からアウシュヴィッツ行きの列車が出ていた時

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Bahnhof Grunewald Gleis 17 (2014-10-15)

昨年10月半ばのある日のお昼、Sバーンに乗って西の郊外にあるグルーネヴァルト駅に行きました。ホームを降りて、駅の出口に向かって通路を歩いて行くと、Gleis 17(17番線)と書かれたホームへ上がる階段があります。ちょうど落葉の鮮やかな季節で、落ち葉がホームに舞っていました。

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ここは第2次世界大戦中に、東方の強制収容所へベルリンのユダヤ人を輸送する列車が出て行った場所(ご興味のある方は、以前このブログでご紹介した際の関連記事をご参照ください)。アウシュヴィッツ解放70周年に際して、昨年10月15日、このホームの上で行われた追悼式典の模様をご紹介したいと思います。

関連記事:

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73年前の1941年10月18日、1251人のユダヤ人を乗せたリッツマンシュタット(現ポーランドのウッジ)行きの貨物列車が、初めてこの駅のホームを発ったのでした。2012年以来、毎年この時期にこの場所で、ベルリンにおけるホロコーストの始まりに思いを寄せる記念式典が行われています。この行事を最初に提案したのが、ホロコーストの生存者であるインゲ・ドイチュクローンさん(写真左から4番目の女性)。現在発売中の岩波書店の『世界』2月号に掲載されている拙ルポ「インゲ・ドイチュクローンが心に刻んできたもの」でご紹介している方です。

インゲさんから右に2人目の白髪の女性は、マルゴート・フリートレンダーさん(93歳)。1944年、この場所からゲットーのテレジエンシュタット(現チェコ)に送られた後、生き残ったという方で、今回の式典では彼女が歴史の証人として挨拶しました。

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地元ライニッケンドルフ地区の高校生たちが、同地区にかつて住み、東方へ送られていったユダヤ人を自分たちで調べ、その一人一人の名前を読み上げていきました。

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式典の後、犠牲者とその遺族が白いバラを手に、ホームを降りて歩いて行きます。

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17番線のホームには鉄板の警告碑が敷かれ、1枚1枚に「強制収容所行きの列車が出た日付」「そのとき運ばれたユダヤ人の数」「目的地」が刻まれています。生存者のフリートレンダーさんがその最後の方の1枚の前で献花しました。おそらく彼女自身がテレジエンシュタットに送られた日ではないかと思います。彼女の母親と弟はアウシュヴィッツの犠牲者となり、父親も別の収容所で殺害されたそうです。

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グルーネヴァルト駅17番線は、ベルリンにあるナチス時代に関連した警告碑の中でも、特に強い感銘を与えるものの一つだと思います。

気が遠くなるほどの規模ですが、プレートに刻まれた日付、ユダヤ人の数、送られた場所を1枚1枚歩きながら見ていくと、ある種の傾向や規則性のようなものが浮かび上がってきます。例えば、強制輸送の最盛期では、5日続けてユダヤ人が送られた後、2日のインターバルがあります。つまり、強制輸送の「作業」に携わった人びとは、5日間「労働」として実務にあたり、休日はしっかり休むというサイクルを繰り返していたわけです。休みの日、彼らは教会に行ったり、家族で団らんの時間を過ごしていたのでしょうか……。

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また、テレジエンシュタットに送られたユダヤ人の数は、1回の輸送につき100人になっていることが多いのです。テレジエンシュタットは、中間収容所の役割を果たしていました。ドイツ人の知人が教えてくれたところによると、テレジンからアウシュヴィッツに100人送られる度に、新たにベルリンからテレジンに100人「補充」されるサイクルになっていたとのこと。こんなところにも、人間をモノ以下として扱う、ホロコーストの恐るべき工場的性格と組織犯罪性が感じられます。

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鉄板に刻まれた数字を追っていくだけでも、その背後に人間存在の底知れぬ闇が垣間見える場所です。

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フリートレンダーさんは、戦後ニューヨークに渡り、そこに居を定めた後、実に2010年になってベルリンへの帰還を決意しました(そのあたりの経緯は、『世界』のルポでご紹介した作曲家のウルズラ・マムロクさんとも重なります)。彼女は94歳になった今も、若い人の前に立って自分の体験を語る活動を続けているそうです。本当に頭が下がる思いですが、人はいつまでも過去の記憶を生き生きと語り続けることができるわけではありません。例年、ホロコースト関連の記念日の前後に、ドイチュクローンさんが式典に出席したり、インタビューに答えたりする様子がメディアを通して伝えられるものですが、今回のアウシュヴィッツ解放70周年でその姿を見ることはありませんでした。

by berlinHbf | 2015-02-03 15:32 | ベルリン発掘(西) | Comments(4)

ユダヤ博物館の特別展「本当の真実」

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ベルリン・ユダヤ博物館の特別展より
© Jüdisches Museum Berlin, Foto: Linus Lintner


ドイツで生活していると、日本にいたときよりもはるかに身近に感じられるのが「ユダヤ人」をめぐるテーマです。第2次世界大戦中のナチスによるホロコーストは、70年近くを経た今でも「記憶され続けるべき問題」として社会の中で共有されているのをしばしば実感しますし、ユダヤ人とパレスチナ人をめぐる中東問題は、メディアによって日本よりもずっと詳細に報じられています。

ただ、身近なようでいて遠いところにあるのもこのテーマです。私自身、日常の中でユダヤ人と接する機会はほとんどありません。ドイツには実際、どのくらいのユダヤ人が住んでいるのだろうか? 「あなたはユダヤ人ですか?」と初対面の人に質問するのはタブーではないのだろうか? 興味を抱きつつもなかなか近付けないもどかしさを時に感じていました。

現在、ベルリン・ユダヤ博物館で開催中の特別展「本当の真実。あなたがユダヤ人について知りたいすべて」(DIE GANZE WAHRHEIT... was Sie schon immer über Juden wissen wollten)は、私だけが抱くわけではないであろう、そんな疑問に真っ向から挑み、話題を集めています。

中に入ると、赤字の上に大きく書かれたいくつもの「問い」に目が行きます。例えば、「人はいかにしてユダヤ人となるのか?」「ユダヤ人をどのように識別できるのか?」「ユダヤ教徒にとってなぜ割礼は重要なのか?」といったものから、「ホロコーストについてジョークを言うことは許されるのか?」「ドイツ人はイスラエルを批判しても良いのか?」といった“きわどい”質問まで。それらの横には、宗教や日常生活、現代アートなど、問いに関連した展示が施されています。

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ガラスケースに「展示」されたユダヤ人
© Jüdisches Museum Berlin, Foto: Linus Lintner


極めつけは、大きな展示室に置かれたガラスのショーケース。中にいるのは黒髪のマネキン人形、ではなく本物の女性! ボランティアのユダヤ人が毎日交代で「展示」され、訪れた人が自由に対話できるようになっているのです。

私はやや恐る恐る、中に座っている若い女性に話しかけてみました。彼女は3年前にイスラエルからドイツにやって来たアヤさんという方。

「ガラスケース越しに話すというのが、アドルフ・アイヒマンの裁判の写真をどこか思い起こさせて、最初は抵抗がありました。でも、ちゃんと窓は開いているし、いろいろな方の関心に出会えるので私にとっても刺激的。実際、ユダヤ人と接点のない人はドイツでも多く、皆さん率直にいろいろなことを聞いてきます。展覧会の反響は大きく、『私もやってみたい』というボランティア希望者も多いそうですよ」。

ユダヤ教に対する考え方から食べ物の話まで、アヤさんとは思ったよりもざっくばらんに会話ができました。

ユダヤ人に関する多くの問いに対し、わかりやすい「答え」が用意されている展覧会ではありません。しかし、複雑で不幸な歴史背景を持ち、それゆえに硬直化しがちなこのテーマにあえて踏み込もうとするキュレーターの強い意志に私は感服し、同時に「もっと知りたい」という気持ちになりました。
 
同特別展は9月1日(日)まで開催。ユダヤ人の「展示」コーナーは、土曜以外の毎日14:00から15:30まで設けられています。www.jmberlin.de
ドイツニュースダイジェスト 8月2日)


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この特別展の後、久々にユダヤ博物館の常設展を見学したのですが、その規模と内容の濃さに圧倒されました。その見学の価値を高めてくれたのが、入場料プラス3ユーロで借りられる日本語のオーディオガイドでした(もちろんドイツ語や英語もあります)。歴史から、文化、宗教、思想、生活、風俗まで、あらゆる分野の解説を日本語で聞けるというのは素晴らしいことで、これを利用するとしないとでは、理解の深まり方が大きく違うので、非常におすすめです。麻生副総理の問題発言の直後だからではないですが、日本の政治家の方々もこういう所に来て勉強してほしいなあと思います。本当に。
by berlinHbf | 2013-08-01 13:44 | ベルリン発掘(全般) | Comments(2)

テレージエンシュタット訪問記(4) - 小さな画家と音楽と -

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私の怠慢によりすっかり時間が空いてしまいましたが、昨年5月にチェコのテレジン(ドイツ語名はテレージエンシュタット)を訪れた時の話の最終回を綴りたいと思います。ご興味のある方は、過去の記事をご参照ください。テレジンの「小要塞」を訪れた後に向かったのは、「大要塞」つまり現在のテレジンの街でした。

まず訪れたのは、中心部にあるマルクト広場。子供たちがボール遊びをしていました。こう見るとごく普通の街のようですが、テレージエンシュタットは上から見ると要塞の姿を完全に留めた特異な外観をしています。街の区画は完全に左右対称で、そのど真ん中に位置しているのがこの広場です。

関連記事:
テレージエンシュタット訪問記(1) (2010-11-28)
テレージエンシュタット訪問記(2) (2010-12-05)
テレージエンシュタット訪問記(3) (2011-01-30)

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テレージエンシュタットでまず訪れるべきなのが、マルクト広場に面したゲットー資料館でしょうか。旧テレジン市学校だった建物の中にあり、テレージエンシュタットのゲットーの歴史や投獄された人々の日常生活の一端が紹介されています(簡潔ながら日本語のパンフレットがあるのがありがたかった)。

この中で心打たれる展示物の1つが、テレジンに収容されていた子供たちが残した絵や詩の数々です。野村路子さんの『テレジンの小さな画家たち』(偕成社)やその展覧活動などを通して、テレジンの子供たちの絵は日本でも知られてきているようですね。2011年からは、小学6年生の国語の教科書にこの絵にまつわる話が載せられているのだとか。

関連記事:
命のメッセージ、教科書に ナチス収容所の子が描いた絵 (asahi.com)

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今も人が住んでいる街についてこんなことを言うのは失礼かもしれませんが、言いようのない悲しみが漂っている場所という印象を受けました。

テレージエンシュタットは、われわれが一般にイメージするナチ時代のユダヤ人の強制収容所とは違います。パンフレットにはこう書かれていました。「当初はユダヤ人の囚人は兵舎にのみ収容されたが、後に1942年半ばまでに元々の住民を強制的に移住させることとなった。テレジン市全体が収容所と化したのである」。

テレージエンシュタットはまた、ナチスによる宣伝の役割も担わせられることになりました。すなわち、「美化キャンペーン」による「ユダヤ人自治移住地」として、ユダヤ人に一定の「自由」を与えたのです。ここには多くの芸術家、作家、学者なども収容され、過酷な条件の中で彼らが作った音楽や劇が上演されました。テレジンの旧マグデブルク兵舎にはゲットー内の文化的催しに関する常設展示があり、駆け足ながら見ることができました。

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一昨年の秋、フィルハーモニーの室内楽ホールで、ダニエル・ホープ(ヴァイオリン)やフォン・オッター(ソプラノ)ら(上の写真のCDの出演者)によって、テレジンの音楽が演奏されました(この日はHAUで坂本龍一のピアノコンサートもあり、私は最後まで迷ったのですが、土壇場になってフィルハーモニーに走ったのでした)。プログラムに並んだのは、V. ウルマン、 P. ハース(前回の記事で紹介したヤナーチェクの弟子でもあります)、 E. シュルホフといった作曲家たちの作品。いかにも苦しみの中から生まれた感の音楽もある一方、オペレッタ風の楽しい曲、収容所から生まれたとは思えない洒脱な雰囲気の音楽もありました。これらの音楽は、ゲットーに収容された人々にささやかな喜びをもたらしたことでしょう。しかし同時に、時々ここを視察した赤十字の調査員に、この場所の真実を覆い隠すためのプロパガンダの意味合いもあったのでした。

このコンサートの最後のアンコールで、フォン・オッターがある歌を歌い出した時、私は突如心がふわっとなるのを感じました。どこか温かい気持ちにさせてくれる音楽だったのです。後から知ったのですが、その曲はアドルフ・シュトラウスという作曲家による、 "Ich weiß bestimmt, ich werd Dich wiedersehn"(僕には確かにわかる。君に再び会えることを)というタンゴのナンバーでした。「今は別れ別れだけど、いつかまたきっと会える」という男女の恋を描いたテキスト、そこに出てくるSehnsucht(憧れ)という言葉・・・。作曲家自身はもちろん、ユダヤの人々はどんな思いでこの歌に聴き入ったのかと思うと、胸に込み上げてくるものがありました。

シュトラウスはこの歌を作曲して間もない1944年秋、妻と子供と共に、アウシュヴィッツで殺されています。

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さらに私が衝撃を受けたのは、街の外れにひそやかに残っている1本の鉄道の線路でした。パンフレットにはこう書かれています。「移送を迅速化するため、1942-1943年にかけて囚人によりボフショフ駅からテレジンまで敷設された鉄道の引き込み線の一部」と。

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私が真っ先に思い出したのは、2007年にベルリンのグルーネヴァルト駅17番線ホームを訪れた時のことです(その時のレポートはこちら)。警告碑のホームに刻まれたユダヤ人の強制輸送の目的地で、もっとも頻繁に目にしたのがこのテレージエンシュタットなのでした。ベルリンからぎゅうぎゅう詰めの貨物に押し込まれ、ようやく「解放」されて降り立ったのがこの場所だったのかと思うと、身震いするものを感じました。もっとも、多くのユダヤ人にとってテレージエンシュタットは中継収容所(Zwischenlager)であり、ここからさらにアウシュヴィッツなどの絶滅収容所に送られ殺された人もたくさんいたわけです。

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ここが線路の終わり。

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街を半周ほどしてマルクト広場に戻って来ました。パンフレットによると、正面に見える「テレジン市役所は、いわゆる『ユダヤ人自治銀行』やその他の役所の所在地となった。ここで文化的催しも行われた」。

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かつて左の建物は「SS司令部」、右の建物は「女子寮」だったそう。そして、「広場は囲いがなされており、囚人は入れなかった」。

もう少しゆっくり見て回りたかったけれど、広場から出る次のバスに乗らないと、ベルリン行きの最終列車を逃すことになります。「ここで感じたことは、これからも考え続けていきたい」。そんな思いで、私は妻とプラハ市内行きのバスに乗り込みました。

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by berlinHbf | 2011-11-18 00:29 | 欧州を感じる旅 | Comments(2)

発掘の散歩術(11) - ユダヤのカフェ・ハウスでの時間 -

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常時警官が立ち構えているベート・カフェの入り口

Sバーンのオラーニエンブルガー通り駅からトゥホルフスキー通りを北に向かって歩き、アウグスト通りを越えると、白黒の独特の字体で「Beth-Café」と書かれた看板が右手に見えてくる。入り口前には柵が立てられ、その横には常に警官が構えているため、この前を通る時はいつもどこか緊張する。何も知らなかったら、警官の視線を感じながら敢えてその横のカフェに入ってみる気にはそうならないだろう。

「Beth」は、ヘブライ語で「家」を意味する。つまり、ユダヤの「カフェ・ハウス」だ。ユダヤ教の中にもいろいろな流れがあるが、モーゼス・メンデルスゾーンらの改革派の波に反抗し、1869年に設立された厳格なイスラエル・シナゴーグ教区(Adass Jisroel)の建物がカフェに隣接している。この正統派の教区が運営するカフェとして、1991年にオープンしたのが「Beth-Café」である。ゆえに、ここで提供されるすべてのメニューは、ユダヤ教の食事規定を指す「カシュルート」によって作られているそうだ(ちなみに改革派は、すでに100年以上昔にこの規定を廃止している)。

このように紹介すると、ほとんどあらゆる食文化を受け入れてきた日本人はますます「Beth-Café」に入りづらくなってしまうかもしれないが、これも経験、一歩中に足を踏み入れてみてはどうだろう。私はすすけた外観からは予想できない、落ち着いた空間が待ち受けていることに新鮮な驚きを感じた。どこか憂いのあるユダヤの音楽が店内に流れ、キッパと呼ばれる帽子のようなものを被った父と子も見かけた。時折、年配のウェイトレスが慎ましやかにそばを通り過ぎる。メニューにはKnischesと呼ばれるひよこ豆のクリームやファラフェルなどが並び、デザートのBeth-Café Cremeは、日本のカスタードプリンにも似て美味だった。

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夕日を浴びて金色に輝く新シナゴーグのドーム

このカフェの周辺からアレクサンダー広場までの一帯は、今でも「ショイネン(穀倉)地区」と呼ばれることがある。ナチスによるユダヤ人排斥が始まる前まで、ここは特に東方からのユダヤ人が密集して住む貧しいエリアだった。1920年代にジャーナリストとしてベルリンに滞在した作家ヨーゼフ・ロートは、この地区のヒルテン通りを指して「世界中どこを探してもこれほど物悲しい通りはない」(『放浪のユダヤ人』〈鳥影社。平田達治訳〉)という印象を残している。

「Beth-Café」を出て、アウグスト通りを東に歩いてみた。現在はギャラリーが多く並ぶ人気の通りだが、ここにもユダヤ人の影があることを私は大分後になって知った。かつて住んでいたユダヤ人がそこを追われ、所有主が分からなくなっていた状態の空き家に、東西統一後、アーティストが不法に住み着いて、活動を始めたのが、そもそもの発端なのだそうだ。

ナチスによってほとんど根こそぎ奪われた、ベルリンのユダヤ文化の何がしかを私は「Beth-Café」の中に感じたが、同時にまたユダヤ人の施設というだけで、常に警備を付けなければならない現実も思い出し、何とも複雑な気持ちになった。
ドイツニュースダイジェスト 6月3日)


information
ベート・カフェ
Beth-Café


スープ、サラダ、コーヒーからワインなどのアルコール類、ここで取り扱われているユダヤの食材に至るまで、「カシュルート」に基づいており、いろいろ試してみるのも興味深い。奥には夏場に開放している美しい中庭があり、ここで過ごす時間も良い。やはり安全上の理由からか、店内は撮影禁止となっている。

営業:日~木11:00~20:00、金11:00~17:00
住所:Tucholskystr.40, 10117 Berlin
電話番号:(030)282 3135


新シナゴーグ 
Neue Synagoge


もともとは1861年に完成したドイツ最大のシナゴーグ。ナチスによる「水晶の夜」事件で放火され、現在は一部しか残されていないが、ベルリンのユダヤ文化を知る上で必見の場所であることに変わりない。ユダヤ・センターとして、常設展のほか、定期的に企画展を開催。戦前、かのアインシュタインがここでヴァイオリンを演奏したこともある。

開館:日月10:00~20:00、火~木10:00~18:00、金10:00~17:00
(10~3月の開館時間は下記URLを参照)
住所:Oranienburger Str.28-30, 10117 Berlin
電話番号:(030)8802 8300
URL:www.cjudaicum.de

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by berlinHbf | 2011-06-02 16:15 | ベルリン発掘(東) | Comments(1)

発掘の散歩術(8) -オットー・ヴァイトと人知れぬ英雄たち(後)-

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Museum Blindenwerkstatt Otto Weidt

(大分時間が空いてしまいましたが、オットー・ヴァイト盲人作業所博物館の話の後編をお届けします。前編はこちらよりどうぞ)

当時の工房の様子が再現された部屋を抜け、トイレと物置だった部屋を過ぎると、最後の4部屋に行き着く。思わずはっとした。ここだけは改装をまったく施さない状態で残してあったからだ。「幸運な救出」という部屋では、最終的に大戦を生き延びたごくわずかな生存者のことが紹介されていた。その1人、インゲ・ドイチュクローンという女性は、ヴァイトが偽名を使った労働証明書を発行したため、収容所送りを免れたという。

最後の部屋では救出に失敗した事例が紹介されていた。例えばホルン一家をヴァイトはこの部屋の奥に匿ったが、後にゲシュタポに見つかり全員がアウシュヴィッツに送られ殺害された。洋服ダンスにカモフラージュされたその奥には、彼らが不穏な日々を送ったであろう小部屋が隠れていた。この前に立って感じた気分はうまく言葉にできない。

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Inge Richterの偽名を使ったインゲ・ドイチュクローンの労働証明書(1943年12月15日)。

帰り際、博物館で働くジョイア・カルナーゲルさんが、いくつか印象に残る話を聞かせてくれた。

「この場所を博物館として保存しようとする動きが出てきた時、大きな役割を担ったのが生存者のドイチュクローンさんです。彼女が奥の部屋を見て、『昔と何も変わっていないわ。この部屋は改装しないで残してほしい』と言ったので、そのまま保存することになったのです」

「え?ドイチュクローンさんは今もベルリンにお住まいなのですか?」

「ええ、88歳になりますが、信じられないくらいパワフルな女性です。今でも時々生徒のグループを連れて、ここを案内していますよ」。


大通りに出ると、見慣れた風景がいつもと違う色合いを帯びていた。勇気ある者の尽力によって生き延びた1人のユダヤ人女性が今もベルリンのどこかで元気に生活している。そう思うと、少しは救われる気持ちだった。機会があれば、ドイチュクローンさんにお会いしてみたい。
ドイツニュースダイジェスト 3月11日)


Information
オットー・ヴァイト盲人作業所博物館 
Museum Blindenwerkstatt Otto Weidt


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1999年、歴史を学ぶ学生グループがここでヴァイトについての展示を行ったことが、この場所を博物館として保存する動きにつながった。入場無料で、説明は英独表記。毎週日曜の15時からは無料のガイドツアーが開催される(事前申し込み不要)。ヴァイトは死後、イスラエルより「諸国民の中の正義の人」としてその名誉を称えられた。

開館:10:00~20:00
住所:Rosenthaler Str. 39, 10178 Berlin
電話番号:(030)285 99 407
URL:www.museum-blindenwerkstatt.de


記念館「人知れぬ英雄たち」
Gedenkstätte Stille Helden


ハウス・シュヴァルツェンベルクの入り口を入ってすぐ左手の2階にある、2008年にオープンした新しい記念館。「オットー・ヴァイト」と同じくドイツ抵抗運動記念館が運営しており、ナチス支配下の時代、ユダヤ人を救おうとした無名の英雄たちに焦点を当てている。数々の「シンドラー」とここで出会えるはずだ。こちらも入場無料。

開館:10:00~20:00
住所:Rosenthaler Str. 39, 10178 Berlin
電話番号:(030)23 45 79 19
URL:www.gedenkstaette-stille-helden.de

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by berlinHbf | 2011-03-21 13:30 | ベルリン発掘(東) | Comments(4)

発掘の散歩術(8) -オットー・ヴァイトと人知れぬ英雄たち(前)-

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ハッケシェヘーフェの隣にあるHaus Schwarzenbergの入り口

Sバーンのハッケシャー・マルクト駅から徒歩2分ほど、ローゼンターラー通り39番地にその場所はある。ハッケシェヘーフェとローゼンヘーフェという観光客がひっきりなしに集まる小綺麗なスポットに挟まれたこの入り口には、しかし同様に人の往来が途絶えることはない。壁にびっしりと描かれた落書きに興味本位からカメラを向ける若い観光客、そして頻繁にやって来るガイドツアーのグループ。とにかく何かが「におう」場所であることは多くの人が感じている。

入り口から中庭に抜けると、一気に数十年ぐらい時代をさかのぼった感覚を味わうだろう。外壁のはがれ具合はこの建物が歩んできた歴史を物語る。小さな映画館、ギャラリー、クラブなどを収容するこの「ハウス・シュヴァルツェンベルク」は、現在文化財に指定されており、華やかなこの界隈の中であえて改装せずに残してあるのだ。

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中央がオットー・ヴァイト盲人作業所博物館の入り口

オットー・ヴァイト盲人作業所の博物館は、その中庭の一角にある。階段を上って2階に行くと、外観とは打って変わってきれいに改装された空間があった。ドイツ人のオットー・ヴァイト(1883〜1947)は、ほぼ全盲になった後、ほうきやブラシを製造する小さな工房を創業した。時はすでにナチスによる反ユダヤ人政策が着々と進められていたが、1940年に工房がローゼンターラー通り39番地のこの地に移ってからも、反ナチの彼は主として盲目と耳の聞こえないユダヤ人約35人を雇い続けた。当然大変なリスクを伴う行為だったが、納入先の中には国防軍もあったため、ヴァイトは「国防上重要な」製品を作っているからと主張し、時にはゲシュタポに賄賂を手渡して、ユダヤ人の同僚が強制収容所に送られるのを防ごうとした。1942年以降、ついにこの工房のみならず、ベルリンの多くのユダヤ人が中継収容所のテレージエンシュタットに送られるようになる。ヴァイトはそれでも、収容所に物資を送るなどして、彼らを救うためにあらゆる手段を講じた。(つづく)
ドイツニュースダイジェスト 3月11日)

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印象に残った展示品の1つ。1943年11月、盲人作業所で働いていたゲオルク・リヒトがテレージエンシュタットからベルリンのオットー・ヴァイトに宛てた「荷物受け取りの確認葉書」。個人的なメッセージを書くことは許されていなかったが、リヒトは宛先の下にKartoffel-Grosshandel(ジャガイモ卸売業)とさりげなく記すことで、食べ物を送ってほしい旨を暗に伝えようとしたという。彼は44年7月にアウシュヴィッツで殺害された。一方、娘のアリスは奇跡的な生還を果たした。

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by berlinHbf | 2011-03-10 23:57 | ベルリン発掘(東) | Comments(1)

歴史博物館のヒトラー展

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あえて写真を排したヒトラー展のポスター

昨年10月に始まったドイツ歴史博物館の「ヒトラー展」は、公開当初からドイツ内外で大きな話題を集め、12月末の時点で見学者数はすでに16万人を超えています。2010年の博物館全体の訪問者数も、記録を更新したそうです。

この展覧会の正式名は、「ヒトラーとドイツ人 民族共同体と犯罪」。ナチスの独裁体制は、ヒトラー自身のカリスマ性だけで説明できるものではなく、幅広い層のドイツ人の期待があったからこそにほかなりません。この展覧会の特徴は、ヒトラー個人だけではなく、それまで無名だったヒトラーを「総統」にまでのし上げた、当時のドイツの社会状況やドイツ人の精神状況にも焦点を当てていることです。

昨年の12月末、この展覧会に足を運んできました。雪が降る中にもかかわらず、客入りは上々。地元のドイツ人だけでなく、観光客の割合もかなり高いようでした。展示は全部で8つのカテゴリーから成り、「総統神話」から「終わりなきヒトラー」まで時系列に並んでいます。当時の写真やポスターだけでなく、ヒトラーの直筆メモや『我が闘争』の各国語版など、興味深い展示物が目白押しでした。

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© dapd

前半の展示物で特に印象に残ったのは、写真や映像に記録されたヒトラーに熱狂する一般市民の表情、そして彼の43歳の誕生日に寄せられた市民からの手紙の数々です。「親愛なる総統へ」などの文面で始まるメッセージを眺めていると、老若男女問わず、ドイツ人のヒトラーへの期待感は本物だったのだと今さらながら実感します。

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© dapd

ナチスによる暴力がエスカレートし、やがて戦争へと突入する後半部分で私の心に刻まれたのは、ユダヤ人の迫害に関する展示です。「この村へのユダ ヤ人の立ち入りは望まれない」と書かれた看板や通りのど真ん中で辱めを受ける若いユダヤ人女性……。

当展覧会のキュレーターである歴史学者のハンス=ウルリヒ・ターマー教授とジモーネ・エルペル教授は、(展覧会の副題の)「民族共同体(Volksgemeinschaft)」についてこう説明しています。「この概念のシステムは、受け入れと排除の原理によって成り立っていた。根本にあるのは人種差別的な思考であり、それゆえ暴力を核に持つイデオロギーだった」。ヒトラーに熱狂した人々は、排除される側へ想像力を巡らすことには鈍感だったのでしょう。

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会場のI.M.ペイ設計による歴史博物館の新館

これと同次元で語ることはできませんが、現在ヨーロッパではイスラム系の移民排斥など、右傾化の動きが顕著に見られるようになってきています。ベルリン工科大学・反ユダヤ主義研究センターのヴォルフガング・ベンツ教授は、「19世紀の反ユダヤ主義と現代の反イスラムの動きには、排除の原理などで共通点が見られる」と不穏な分析をしています。

「ヒトラーとドイツ人が引き起こした膨大な犯罪は、いかにして起こったのか」。この問いは、現代を生きる私たちも避けて通ることができないのではないかと感じました。 当初は2月初旬までの開催予定だったこの展覧会、大きな反響を受けて2月27日まで延期されることになりました。貴重な機会をお見逃しなく。
www.dhm.de (開館は毎日10:00~18:00、金曜は21:00まで)
ドイツニュースダイジェスト 2月4日)

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by berlinHbf | 2011-02-03 12:40 | ドイツ全般 | Comments(6)

テレージエンシュタット訪問記(3)

すっかり間が空いてしまいましたが、昨年5月、チェコのテレージエンシュタット(現テレジン)を訪れた話の続きを書きたいと思います。来週更新する記事の関連性も考えて、今のうちに書いておきたいと思ったのです。テレジンの話が初めてという方は、最初にこれまでの記事をお読みいただけるとうれしいです。

関連記事:
テレージエンシュタット訪問記(1) (2010-11-28)
テレージエンシュタット訪問記(2) (2010-12-05)

前回書いたのは、テレジンの「小要塞」の方でした。そこにはハプスブルク帝国時代の要塞の中に刑務所が設置され、それまで実際に行ったことのあるアウシュヴィッツやベルリン郊外のザクセンハウゼンの強制収容所の雰囲気と重なるところがありました。最初の回で、「『要塞として建設され、その後ナチスの強制収容所になり、いまはまたそこに普通に人が住んでいる』と言われても、一体どういう場所なのか、ひまひとつ想像がつかなかった」と書きましたが、それは小要塞ではなく、大要塞、つまりテレジン市本体のことだったのです。

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1本道を500メートルぐらい歩いて行くと、オフジェ川が見えてきます。そこを越える際に、昔の城壁の跡らしきものが視界に入りますが、それを除けば「また別の街に入ったのかなあ」というぐらいの感覚でしかありません。時々、トラックやバスが横を通り過ぎて行きます。事前に何も知らなかったら、特に何も気付くことなく、私はこの街を通過していたかもしれません。

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しばらく歩くと、この街の中心地らしき広場にたどり着きました。少し閑散とはしていたものの、ベンチでは人がくつろぎ、公園では子供たちが遊ぶ光景が見えてきます。小さな街のごくごく普通の日常の風景という趣です。一見、本当に普通の街なのです。

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ところが、ネットから借用したこの街の空中写真を見れば、テレジンの特異性が一目でわかります。第2次世界大戦中、かつての大要塞の特性を生かす形で、テレージエンシュタットは大迫害施設へと生まれ変わり、数々の悲劇が起きたのでした。

(つづく)

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by berlinHbf | 2011-01-30 01:15 | 欧州を感じる旅 | Comments(0)

テレージエンシュタット訪問記(2)

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「労働は人を自由にする」と書かれた門をくぐり抜けると、中庭があり、いくつもの監房や独房の建物が並んでいた。

前回書いたように、もともとこの小要塞は18世紀末に作られた。当初ここに投獄されたのは軍人の他、中欧や南東ヨーロッパの民俗解放戦線に携わった人々だったという。入り口でもらったパンフレットによると、ナチス・ドイツの占領後、1940年にこの小要塞にゲシュタポのプラハ本部の刑務所が造られ、同年6月14日に最初の囚人が送られてきた。チェコ人が多かったそうだが、それ以外にもソ連、ポーランド、ドイツ、旧ユーゴ、もちろんユダヤ人も。大多数は、ナチスに対する抵抗運動のかどで逮捕された人々だった。

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テレジンの小要塞は、パンフレットに番号と経路が記されているので、それに従って見学するのが一番よい。ところが、この17、18と番号が書かれた場所まで来て、一瞬立ちすくんでしまった。18は「死体保安所。ここに拷問死した囚人の遺体が置かれた」そうだ(いやだなあ・・・)。隣の17は地下道。すぐにでも引き返したくなる場所だったが、経路図を見ると、この地下道をくぐり抜けないと次の19に行けないようになっている。しかもこれがたいそうな距離で、ざっと400メートルはありそう。「まさか囚人の遺体を運ぶのに使われた地下道じゃないよな」と思いつつパンフレットを見ると、「元の要塞の一部。戦時中は利用されなかった」と書かれていた。とはいえ、細長く暗い(もちろん明かりはあるものの)地下道を延々と歩いて行くのはかなり気が滅入った。1人で来ていたら、もっと恐かったかもしれない。

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ようやく地下道をくぐり抜けたと思ったら、そこは処刑場跡・・・。「小要塞で死刑執行が始まったのは1943年。ここで、約250人の囚人が銃殺された。最大の処刑が行われたのは1945年5月2日で52人が処刑された。その大部分は、レジスタンス組織のメンバー」。

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この門をくぐると、再び小要塞の中に戻ることになる。これは通称「死の門」。囚人にとっては、処刑場へと導く門だったのだ。

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あまりゆっくり見て回る時間がない中、東側の突端部に行ってみる。中庭に監房が並ぶその奥は、やはり見せしめのための処刑場だった・・・。「1945年3月、38号監房から脱走を図り、失敗した3人の囚人のうち1人が、他に無作為に選び出された2人の男性と1人の女性と共に、中庭の先端部で見せしめのため処刑された。逃亡を試みた残る2人も逮捕され、第一中庭の独房近くで石たたきの刑で処刑された」。

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劣悪な居住条件の中、戦争末期にはチフスが広がり、多くの人が亡くなったという。ここが開放されたのは、1945年5月5日に看守が逃げ出した後、ソ連軍がやって来た5月8日のことだった。

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どこを歩いても、いまでも死の気配がすぐそばに感じられるテレジンの小要塞を一通り見終え、入り口に戻ってきた。決して長い時間ではなかったが、疲労感を感じる。ここは要塞全体が完全に隔離された刑務所だった。が、テレジンはこれでおしまいではなかった。

(つづく)

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by berlinHbf | 2010-12-05 23:30 | 欧州を感じる旅 | Comments(4)

テレージエンシュタット訪問記(1)

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5月のプラハ旅行の最終日、以前から一度訪ねてみたいと思っていた場所に、行ってみることにした。ドイツ名はテレージエンシュタット、チェコ名はテレジンというこの街が、プラハから約60キロの距離にあるというのは少々以外だった。夕方のベルリン行きの列車に間に合うよう戻って来なければならないが、何とかなるだろうと思い、テレジン行きのバスが出る街の北側のHolešoviceのバスターミナルに地下鉄で行ってみた。が、そこはだだっ広い乗り場があるだけで、人も少なく、とてもバスターミナルという雰囲気ではなかった。停留所を1つ1つ回りながらTerezinの文字が書かれた路線の乗り場を探し、何とかたどり着く。バスに乗り込む際、運転手に「このバスでいいのか?」と確認したら、後ろのおじさんが親切に答えてくれた。彼の後ろに席を陣取ると、車中英語でいろいろ話をしてくれた。あれはチェコの有名な伝説の舞台になった山だ、とか、あの古い列車は近郊の小さな街の間を40年ぐらいひたすら行ったり来たりしているんだ、という話だったが(冒頭のかわいらしい気動車)、さすがに半年経つと記憶は薄れてきている。新緑の美しい季節、1時間ぐらいののんびりとしたバスの車中だった。

(テレジンはプラハの郊外だが、結構広い上にバスの便は決してよいわけではないので、午前中のうちに出かけるべきだろう。少なくとも午前中は1時間に1本はバスが出ている)

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持参してきたドイツ語版のlonely planetのガイドに、テレジンのことは比較的詳しく紹介されていた。ただ、「要塞として建設され、その後ナチスの強制収容所になり、いまはまた普通に人が住んでいる」と言われても、一体どういう場所なのか、ひまひとつ想像がつかなかった。見どころは大きく2箇所あるというので、まず手前のTrezin Blovetaで降りて「小要塞」に行ってみることにした。少し戻るようにバスの道を歩いて行くと、そこから左に延びる大きな並木道が見えてきた。隣は国立墓地になっていて、無数の墓石が並んでいた。

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ここが「テレジン小要塞」の入り口。テレージエンシュタットは、ハプスブルク帝国時代の18世紀末、ヨーゼフ2世によってエルベ川とオフジェ川が合流する地点に要塞都市として作られた。女帝マリア・テレジアの栄誉を称えるためにこの名前になったのは、有名な話だ。とにかく、ここが昔要塞だったというのは、この前に立てば一目瞭然だ。入場料を払って中に入る。地図付きの日本語のパンフレットが用意されていたのにはびっくりしたし、とてもありがたかった。

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入り口から左手に歩いて行くと、やがてアウシュヴィッツでもベルリン郊外のザクセンハウゼンでも目にした、あのおなじみの標語を掲げた門が見えてきた。すなわち、「労働は人を自由にする」。

(つづく)

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by berlinHbf | 2010-11-28 18:50 | 欧州を感じる旅 | Comments(4)

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