ベルリン-東と西が出会う場所。ドイツにありながらドイツではない町。歴史の影に彩られた栄光と悲運の世界都市。そんなベルリンの奥深い魅力をリアルタイムでお届けするブログです。Since 1. August 2005


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中村真人 (Masato)
神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。ベルリンの映像制作会社勤務を経て、現在はフリーのライター、ジャーナリスト。


ベルリンガイドブック
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本書は2009年10月発行「素顔のベルリン」の増補改訂版です。2013年に改めて新規取材を行い、データを更新。レストランやショッピング、コラムなどのページも増量し、より充実したガイドブックに生まれ変わりました。

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地球の歩き方シリーズ初、待望のベルリンガイドブック誕生!比類なき歴史を抱えつつ、明日へ向かって日々進化し続ける首都ベルリン。「ドイツで最もドイツらしくない」といわれるこの町の知られざる魅力を、現地在住著者が12のエリアにわけて徹底紹介。


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夏の終わりに聴くヴァルトビューネ2011

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日本からのお客さんがここのところ相次ぎ、しばらく間が空いてしまいました。

今週はベルリン・フィルのヴァルトビューネのコンサートを聴いてきました。これを聴けたのは、何ともラッキーというか不思議な巡り合わせでした。この公演、本来ならベルリン・フィルのシーズン最後のコンサートとして7月頭に行われるはずで、私が日本にいる時期と重なっていました。ところが、まさかの豪雨により、次のシーズン開始直前の8月末に延期されることに…(非常に珍しいことです)。日本に帰国中、私は久々に小学校時代の音楽の先生にお会いし、8月半ばにベルリンに遊びに来る予定の話をしていました。「せっかくだからコンサートにでもお連れしたいけど、この時期はまだシーズンオフだしなあ」。ふと、ヴァルトビューネの延期のニュースを思い出し、調べてみたらスケジュール的にドンピシャだったというわけです。

山本典子先生は私に音楽の楽しさと喜びを教えてくださった方。小学校2年生になった最初の頃、転校してきたばかりの学校の掃除の時間に、えも言われぬほど美しく、心ときめく音楽が教室のスピーカーから流れてきました。私はたちまち虜になったのですが、それがモーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」でした。自分にとって音楽というものに魅了された最初の瞬間だったと言うことができます。大分後になって、毎日給食後約15分間の掃除の時間に合わせてこの曲を選んだのが山本先生だったことを知りました。

その先生と一緒にベルリン・フィルを聴けるというのは、実に感慨深いことでした。先生夫妻の他、一緒に来られた娘さん夫妻たちと、23日のコンサートを聴きに行きました。この日の午後、突然雷が鳴り、「まさかまた延期?」との思いも一瞬よぎりましたが、天気は何とか持ちこたえてくれました。

今年の指揮はリッカルド・シャイー。ベルリン・フィルの客演も10年ぶりだとか。何といっても、冒頭のショスタコーヴィチのジャズ組曲第2番がよかったです。軽妙で陽気で、どこかノスタルジック。夏の終わりの夕暮れ時にしみじみ聴くには最高の音楽なのかも。有名なワルツ2では、前の方に座っていた年配のお客さんたちが肩を揺らしながらメロディーを口ずさんでいました。続く、ニーノ・ロータがフェリーニの映画「道」のために書いた音楽の組曲では、物悲しい「ジェルソミーナのテーマ」がヴァイオリン、トランペットと楽器を変えて何度も夜空に鳴り響きます。

いつもなら、休憩が始まる頃はまだ明るいのですが、さすがに8月も終わり頃になればもう真っ暗。後半のメインはレスピーギの「ローマの松」。古代ローマの円形劇場を模して造ったヴァルトビューネでこの曲を聴けるというのが最大の楽しみだったのですが、PAの限界なのか、想像していたスペクタクルな効果はもうひとつ足りなかったかなあというのが正直なところ(後でDVDで見たらまた違う印象かもしれませんが)。でも、いつもながら、このコンサートはその場で聴けただけで幸せな気分になります。途中眠そうにしていた先生の孫のかわいい双子ちゃんも、アンコールの「ベルリンの風」では大はしゃぎでした。

山本先生との思い出でもうひとつ重要なのは、リコーダーの魅力を教えてくれたこと。先生はリコーダーのアンサンブル指導に非常に熱心で、高学年の頃、周りはほとんど女の子しかいない音楽クラブに入れてもらって、私はそこでソプラノリコーダーを吹いていました。有名無名問わず、ここでもかけがえのない音楽にいくつも出会いました。

これまたラッキーなことに、ヴァルトビューネの翌日、今度はベルリン大聖堂でフルートのエマニュエル・パユらによるバッハの夕べが開かれることを知り、こちらも先生たちと聴いてきました。すでにCDになっているピノックとのバッハのフルートソナタ4曲がメイン。フルートとチェンバロ、チェロの精妙なやり取りを味わうには、いかんせん教会のキャパが大き過ぎましたが、それでも、パユがソロで1曲だけ吹いたテレマンのファンタジー第7番は圧巻。音楽の根幹をなすフレーズごとの最初の低音の厚みと空間的広がりが素晴らしく、しばしば1本の笛で奏でられていることを忘れてしまうほどでした。

山本先生は昨年定年を迎えられたのですが、いまもほとんどフルタイムで横須賀市内の小学校で音楽を教えておられるそう。今後も元気でご活躍いただきたいものです。またベルリンに来られたら、今度はフィルハーモニーにもお連れしたいと思っています。

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by berlinHbf | 2011-08-28 23:57 | ベルリン音楽日記 | Comments(7)

清水陽一さんインタビュー - 北斎展への夢 -

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8月26日から10月24日まで、日独交流150周年の1つのハイライトとも言うべき、北斎展(Hokusai - Retrospektive)がベルリンのマルティン・グロピウス・バウで開催される。計441作品という、海外では過去最大規模となる北斎展を約30年前から夢見て、実現に漕ぎ着けた人物がいる。ベルリン日独センターの清水陽一副事務総長その人だ。清水さんに、今回の展覧会に至るまでの経緯、そしてその見どころをたっぷり伺った。
ドイツニュースダイジェスト・独日なひと 8月19日) 

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清水 陽一 Yoichi Shimizu
ベルリン日独センター副事務総長

1943年北京生まれ。国際基督教大学(政治学)、マールブルク大学(ドイツ史)で学んだ後、1964年外務省入省。ケルン日本文化会館館長、在ミュンヘン日本国総領事などを経て2009年より現職。
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長年、日本とヨーロッパの文化交流に携わってこられた清水さんにとっても、今回の北斎展は特別思い入れが深い展覧会だそうですね。

私は、30代半ばで葛飾北斎の作品に魅せられて以来、北斎が日本のみならず世界で最も優れた画家の1人であると信じてきました。彼が生きた18世紀後半から19世紀前半にかけて、ヨーロッパのほかの画家と比較した場合、匹敵する人がいません。かろうじてゴヤが挙げられるかなというぐらい。それほどのインパクトと天才性を持っていて、70年に及ぶ画業であらゆる作風の作品を残している。

その北斎が、ドイツでは「富士山の北斎」、「漫画の北斎」としか受け止められていません。もちろん、すごい画家だと感じている人は多いと思いますが、例えば「富士山の北斎」というのは、彼が70歳を過ぎてからたった1年半ぐらいで描いた仕事です。私は、20代から90歳までの北斎の全貌をドイツ人にぜひ紹介したいと長年思っていました。

ただ、ドイツは連邦制ですから、イギリス(ロンドン)やフランス(パリ)のように大きな展覧会場がなく、潤沢な予算を持っている州も少ないんです。私の職場がケルン、日本、ミュンへンと移り変わる中、結局実現できないまま年金生活に入ったのですが、2008年秋に国際交流基金の本部からもう一度ベルリンに行ってほしいと依頼が入りました。正直、最初は乗り気ではなかったのですが、しばらく考えて、2011年が日独交流150周年だということ、そして30年来の友人であるマルティン・グロピウス・バウのジーバニッヒ館長の存在が頭に浮かび、「彼ならやってくれるかもしれない」と思いました。「よし、ベルリンで北斎展をやろう!」と決意したものの、その段階ではまだ夢ですよね。ベルリンに行くと返事をした後、日本の北斎研究の第一人者である永田生慈さんにお会いし、お力を貸していただけないかと相談しました。「私はオーガナイズと予算面の面倒を見るから、内容は永田さんに全部お任せしたい」と伝え、ご快諾いただいた次第です。2009年4月に私がベルリンに来てからは、予算の問題をクリアするのに時間が掛かりましたが、昨年6月に国際交流基金とマルティン・グロピウス・バウの関係者が集まって、開催が正式に決まりました。ただ、準備期間が1年しかなかったので、そこからがまた大変でした。これだけの規模の展覧会となると、通常は準備に4、5年掛かりますから。

まさに、清水さんの長年の思いが結実した展覧会なのですね。今回の北斎展の内容の特色は何でしょうか?

ジーバニッヒ館長と永田さんと話し合って決めたのは、すでによく知られ、それゆえ幾分手垢のついたヨーロッパのコレクションではなく、原則として日本から状態の良いものを持ってくるということです。今回出展する441点のうち、429点は日本から持って来ます。残り12点について申しますと、まず10点はベルリンのアジア美術館のコレクションです。昨年、永田さんと同美術館を訪れたところ、『北斎漫画』の初編から10編までの初版本に出会いました。何と美術館側は、それが初版本だということに気付いていなかったんです。日本でも珍しい初版本が、ベルリンにきれいそっくり残っていたという驚き。これをお借りすることができました。それから、北斎83歳の時の自画像。これはオランダ・ライデンの美術館が所蔵するもので、世界に1つしかありません。自画像というのは、ヨーロッパの人が非常に関心を持つジャンルですよね。あとは、ヨーロッパに初めて北斎を紹介したと言われるシーボルトの著書『日本』。これはボン大学からお借りします。これら12点はヨーロッパのコレクションで、残りはすべて日本からです。

清水さんからご覧になって、特に思い入れのある絵、じっくり観てほしいという作品は?

1つは、先ほど触れた83歳の自画像ですね。北斎は、「70歳までの自分の絵は取るに足りない。私は100歳まで生きて絵画の奥義を極める」と尋常ではない意気込みを持っていた人。そういう人が83歳の時にどんな顔をしていたのか、見ていただきたいです。それと並行して、北斎がやはり80歳ぐらいの時に書いた手紙が残っているのですが、そこからは彼のユーモアな人柄が偲ばれます。

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富嶽三十六景 信州諏訪湖 墨田区蔵

それからやはり『富嶽三十六景』。36作品全部ではありませんが28点、私がこれはと思う絵は全部出していただいています。私が好きなのは、松の山の形が美しい「青山円座松」、礫川の雪の情景を描いた「礫川雪の旦」、桶で有名な「尾州不二見原」だとか、木が真ん中にある構図が面白い「甲州三島越」、「遠江山中」などですね。有名な「神奈川沖浪裏」など、北斎生誕の地である墨田区からお貸しいただく約50点の作品も、今回の目玉といえる素晴らしいものです。

また、これはあまり知られていませんが、滝沢馬琴の小説『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』で、北斎が挿絵を描いています。お岩さんなど、お化けの絵もあります。ほかにも、蘭学をもとに描いた骸骨の絵。カラフルな武者絵。水の表情を描いた『諸国滝廻り』。北斎自身はそれほどたくさん描いていませんが、美人画。それから、掛け軸など貴重な一点ものも。長さが7メートル近くの大きな『山水図巻』という肉筆画もあり、それに合わせて特別に展示ケースを作ってもらいました。

展示の仕方にも工夫を凝らしているそうですね。

ええ、『北斎漫画』を電子書籍のように読める「北斎漫画の部屋」を設けましたし、オーディオガイド(英語とドイツ語)にも面白い小話が盛り込まれているので、作品の理解を深めるのにご活用いただきたいです。

ほかにも、アダチ版画研究所の摺師の方がいらして「神奈川沖浪裏」の実演が行われたり(8月27、28日、9月3、4日)、永田生慈さんの講演会(8月26日)や子ども向けのプログラムなど、関連行事も充実しています。10月14、15日には、北斎とその時代に関するシンポジウムが日独センターで行われます。

本当に盛りだくさんですね。あとはオープニングを待つばかりとなりましたが、最後に読者の皆さんにメッセージをお願いします。

昨年、マルティン・グロピウス・バウで入場者数が一番多かったのがフリーダ・カーロ展(3カ月で約20万人)でしたが、今回の北斎展にジーバニッヒ館長は10万人、私は20万人入ると賭けをしているんです(笑)。私はそれだけの魅力が詰まった展覧会だと思っています。

ドイツにおける従来の北斎のイメージを打破して、18世紀後半から19世紀前半にこれだけすごい作家がいたこと、同時にその北斎を生んだ江戸という時代の面白さも存分にお見せしたいと思います。ドイツの方はもちろん、日本の皆さんにもたくさん来ていただいて、北斎を、そして日本を再発見していただきたいですね。

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日独交流150周年記念 北斎展  Hokusai - Retrospektive
会期:2011年8月26日(金)〜 10月24日(月)
会場:Martin-Gropius-Bau
住所:Niederkirchnerstr.7, 10963 Berlin
開館時間:10:00〜20:00 ※火曜休館
入場料: 9ユーロ(割引6ユーロ)、
    団体(10人以上)6ユーロ、
    16歳以下無料
www.gropiusbau.de

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by berlinHbf | 2011-08-19 17:05 | ドイツから見た日本 | Comments(3)

ヴェディングのペーター・ベーレンス・ホールと友人たちとの再会

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Peter-Behrens-Halle in Wedding (2011-08-02)

先日ご紹介した世界遺産のファーグス工場。ヴァルター・グロピウスはこの建築の設計に際して、ベルリン・モアビットにあるAEG社のタービン工場(ペーター・ベーレンス設計)から大きな影響を受けたことで知られています。このタービン工場とほぼ同時期の設計で、デザインもよく似た、やはりAGB社の製造組み立て工場(AEG-Montagehalle)が、ヴェディング地区のGustav-Meyer-Alleeにあります。先日、初めて昼間の内部の様子を見ることができたので、ここでご紹介しましょう。

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この日の夕方、2人の友人に久々に再会しました。奥はベルリン工科大学(TU Berlin)で構造工学を研究している増渕基くん(以前この記事などでご紹介しています)。特に橋の構造には大変詳しく、最近共訳で「Footbridges―構造・デザイン・歴史」(鹿島出版会)という本も出版しているほど。専門書ゆえに高価なのは難ですが、非常に意欲的で、かつヴィジュアル的にも美しい本です。

手前は建築家の光嶋裕介くん。彼のことは2007年にここここなどで紹介しています(久々に見直してみて懐かしくなりました)。彼は2008年に日本に帰り、建築事務所を設立したのですが、最近は内田樹氏の道場「凱風館」の設計を手がけるなど、すっかり有名人になった感があります。あの「ほぼ日刊イトイ新聞」でも連載(『みんなの家。建築家一年生の初仕事』)が始まり、これがまた非常にスリリングなので、ぜひお読みください。裕介くんがベルリンに来るのは、完全帰国以来初めてとのことで、いろいろな話で盛り上がりました。

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1980年代まではドイツの大手電機メーカーAEGの大型機械、タービン、電車部品等の製造組立工場だったこのホール。現在はベルリン工科大学土木工学科の実験棟として使われています。増渕さんの仕事場ということで、中を案内してもらいました。レンガ壁の外観はさすがに重々しい感じがするのですが、内部のこの明るさには驚きました。さすがモダンの先駆けになった革命的な建築だけのことはあります。

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ホール周辺に何本も見える引き込み線は、この工場ができる前ここにあった家畜市場時代のものだそう。敷地内は大変広く、大学キャンパスだけでなく、多くの企業のオフィスにもなっています。

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増渕さんにもらった資料によると、大学の単独の実験棟としてはおそらく世界最大規模(幅33m、奥行き180m、高さ24m)とのこと。現在はベーレンスに敬意を表してPeter-Behrens-Halleと呼ばれ、国の文化遺産に指定されています。友人との再会でたくさんの刺激をもらった午後のひと時でした!

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by berlinHbf | 2011-08-17 23:44 | ベルリン発掘(西) | Comments(5)

NHKサンデースポーツ「ベルリンの奇跡」(8/14放映)

リサーチという形で協力させていただいたNHKサンデースポーツの特集「ベルリンの奇跡」が明日14日の22時より放映されるので、ここでご案内したいと思います。

「ベルリンの奇跡」というのは、1936年夏のベルリン・オリンピックで五輪のサッカーには初出場の日本代表が、優勝候補だったスウェーデンに3対2で奇跡的な逆転勝利を収めた試合のこと。日本代表の現キャプテン長谷部誠選手が、75年前に試合が行われた跡地を訪ね、日本代表チームの原点を形作ったともいえる先達たちの歩みに思いを馳せます。

準備期間が比較的短い中でしたが、とても印象に残る仕事でした。それは、今をときめく長谷部選手とロケ中お話できたことはもちろん、リサーチしていく過程でいい出会いに恵まれたからです。日本対スウェーデンの試合が行われたヴェディング地区のヘルタ・プラッツというスタジアム(ヘルタ・ベルリンのかつての本拠地)は、70年代にすでに取り壊されて、現在は安普請の集合アパートが建っています。敷地内にはどこか奇妙なモニュメントが並ぶのみで、かつてここにスタジアムがあったことを示すプレートさえありません。初めてここにを見に来た時、あまりの見栄えのなさに、「せっかく長谷部さんがここに来ても、ちゃんとした番組になるのかなあ…」と少々不安になりました。しかし、道路を隔てた反対側に、ヘルタ・プラッツとは一見何の関係もなさそうな地元のアマチュアサッカーチームのグラウンドが目に入り、そのチームのHPを出発点に歴史の糸をただっていくと、それがびっくりするぐらいにつながっていき、最終的には「ベルリンの奇跡」の貴重な語り部が見つかったのでした。この時のうれしさは忘れられません。

終戦記念日にもふさわしい特集が出来上がっているのではないかと思います。日曜日22時からのサンデースポーツ、よかったらぜひご覧ください!

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7月末、ベルリン・オリンピアシュタディオン前にて

【日本サッカーが築き上げてきたもの】(NHKサンデースポーツのHPより)
特集はサッカーの「ベルリンの奇跡」です。1936年のベルリン五輪で、サッカー日本代表は下馬評をくつがえす勝利で当時の人々を驚かせました。戦争で選手たちはちりぢりになっていきますが、”奇跡”をもたらした「パスサッカー」の精神は脈々と受け継がれていきます。日本代表の現主将・長谷部誠選手とその軌跡をたどります。

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by berlinHbf | 2011-08-13 16:44 | サッカーWM2006他 | Comments(5)

発掘の散歩術(13) - 「ミニ東ドイツ」を訪ねて -

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クライン・グリーニッケで小菜園を営む人々。1978年撮影(Foto: Jutta Jagßenties)

1961年8月13日の「ベルリンの壁」建設から50年という節目の今夏、『壁の後ろに』と題された展覧会の案内が目に留まった。壁の目の前で日常の生活を送っている人の写真はこれまで何度も見た。だが、この展覧会のテーマになっているクライン・グリーニッケという場所の地図を見てびっくりし、ともかく見に行ってみようという思いに駆られた。

Sバーンのヴァンゼーの駅から316番のバスに乗って、森の中を揺られること約10分、シュロス・グリーニッケのバス停で降りた。ここはかつて西ベルリンの最果てだった場所。向こうにはスパイの交換で知られたグリーニッケ橋が見える。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世の一番下の弟カール・フォン・プロイセン王子の夏の離宮だったグリーニッケ城。この敷地内の一角にあるオランジェリー(オレンジやレモンなどを冬場の寒さから守る温室)が展覧会の会場だった。

多くのドイツ人と同様(と言うべきか)、カール・フォン・プロイセン王子はイタリアやスイスに強い憧憬を持っており、1863年から67年にかけて、その南側のクライン・グリーニッケにスイスの山小屋風の邸宅をいくつも造らせた。王子もその1つに住み、いたくお気に入りだったようだ。こうして20世紀初頭にかけて、クライン・グリーニッケは風光明媚な高級住宅街へと発展した。1930年代、ここに住んでいた著名人の中には、映画女優のリリアン・ハーヴェイがいる(もっとも彼女は、ユダヤ人と接触を持っていたことを理由にゲシュタポに監視され、数年後にドイツを去ることになるのだが)。

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模型で見るクライン・グリーニッケ。左上にグリーニッケ橋が見える

事情が複雑になるのはここからである。戦後、グリーニッケ城は西側の領土に含まれたが、そこから目と鼻の先のクライン・グリーニッケは東側に属すこととなった。地図でこの区域を見ると、湖に隔てられたうさぎかロバの耳かという奇妙な形をしている。いわば西ベルリンへの「飛び地」。61年8月に壁が造られると、クライン・グリーニッケの500人ほどの住民は突如取り残された。対岸のバーベルスベルクへは1本の橋が結ぶのみ。飛び地という特殊な環境から、ここは「特別安全区域」なるものに指定され、許可証を持っていないと中に入ることができなかった。区域中で親戚が集まるパーティーを開こうものなら、何カ月も前から計画し、役所に申請しなければならなかったのだ。壁と壁との間の一番幅の狭い部分はわずか15メートルしかない。クライン・グリーニッケは、壁というものの愚かしさが凝縮されたミニ東ドイツ国家だった。

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DDR時代、「もっとも幅が狭かった場所」

展覧会を見た後、実際のクライン・グリーニッケを歩いてみた。スイス風の屋敷をはじめ、19世紀に建てられた美しい建築は今も比較的多く残っており、緩衝地帯だった空き地にもポツポツと新しい家が建ち始めていた。とはいえ、展覧会で見たばかりの灰色の写真の記憶が強かったからだろうか、一通り歩き終えて旧西側の大通りに出た時、心なしかほっとした。
ドイツニュースダイジェスト 8月5日)


Information
展覧会『壁の後ろに』
Hinter der Mauer

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ミニ東ドイツ国家の生活の実態、逃亡劇、当時の住民の証言などが、大判の写真や映像、模型を交えて程良い大きさのスペースに展示されている。ドイツ語のみの説明だが、窓口では英語の資料も用意。週末の14時には、クライン・グリーニッケの歴史をたどるツアーも開催されている(ドイツ語)。展覧会は10月3日まで。

開館:火~日10:00~18:00
住所:Schloss Glienicke Orangerie, Königstr. 36, 14109 Berlin
電話番号:(030)467 9866 66
URL:www.hinter-der-mauer.de


ビュルガースホーフ
Bürgershof

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クライン・グリーニッケにあるレストラン&ビアガーデン。創業は1873年にさかのぼり、邸宅のような建物と広大な庭園が特徴。目の前のグリーニッケ湖を眺めながらのんびりくつろいでいると、19世紀後半から20世紀初頭にかけての華やかかりし頃を彷彿とさせる。最大1000人まで収容でき、 貸し切りも可能だとか。

営業:月~金12:00~、土日祝11:00~
住所:Waldmüllerstr. 4-5, 14482 Potsdam
電話番号:(0331)237 88 89
URL:www.buergershof.de

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by berlinHbf | 2011-08-11 18:47 | ベルリン発掘(境界) | Comments(0)

ハンブルクのテレマン博物館とエルプ・フィルハーモニー

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5月にハンブルクに行った時、旧市街にあるブラームス博物館を訪れる機会がありました。展示スペースは小ぶりながらも内容は充実しており、係の方の対応も親切。満足して外に出ると、その奥にもう1つミュージアムがあることに気付きました。

Telemann Museumと書かれており、テレマンの音楽を愛好する私は、大いに興味を惹かれて妻と中に入ってみました。内部はブラームス博物館よりもさらに小さく、ハンブルクのテレマン協会のメンバーだという2人の陽気なおじいさんが迎えてくれました。この団体が中心となって作られたテレマン博物館は、なんとその前日にオープンしたばかりとのこと。世界で唯一のテレマンの博物館なのだと胸を張っておっしゃっていました。

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ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681-1767)は、創作の円熟期を含め、1721年以降生涯の半分以上をハンブルクで過ごしています。実際この家に住んでいたわけではないのですが(これはブラームス博物館も同じ)、この近くにある聖ミヒャエリス教会(St. Michaelis-Kirche)はハンブルク市音楽監督として彼の活動の拠点の1つでした。

わずか1部屋ですが、テレマンのハンブルク時代に生まれたカンタータやオラトリオのテキストや楽譜などが展示されていました。

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私が興味を惹かれたのは、「カタストロフィー」と題されたこのパネル。1755年11月1日、リスボンで大地震が発生しました。これは現在に至るまでヨーロッパ史上最悪の自然災害で、津波による死者1万人を含め、5万5000人から6万2000人が亡くなったと言われています。情報網がまだ発達していない当時、ハンブルクにこのニュースが届けられるまで2週間ぐらいかかったのだとか。テレマンも大きな衝撃を受け、この出来事をきっかけに作曲したのがDonnerodeという世俗オラトリオなのです。あまり有名な作品ではないようですが、どんな響きがするんだろう。聴いてみたくなりました。

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Pilatuspoolという通りをしばらく歩いて行くと、ライスハレ(Laeishalle)が目の前に見えてきました。ここに来たのは、2001年4月、ギュンター・ヴァント指揮の北ドイツ放送響のベートーヴェンとモーツァルトを聴いて以来だったので、さすがに感慨がありました。

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いまハンブルクでは新しいコンサートホール、「エルプ・フィルハーモニー(Elbphilharmonie)」の建設が着々と進んでいます。港街のハーフェンシティにこの新ホールを紹介する仮設のパビリオンがあり、内部空間の模型を覗き込めるようになっていました。ベルリンのフィルハーモニーのようなワインヤード形式のホールで、客席数は2150だそうだから、ほぼ同じ規模になりますね。

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元々ここにあった赤レンガの倉庫の上に、ヘルツォーク&ド・ムロン設計によるガラスの構造体を増築するという大胆なプロジェクト。当初の予定より進行は大分遅れているそうですが、2013年末完成後は、北ドイツ放送交響楽団の本拠地になり、クラシック以外にもさまざまなジャンルの音楽が演奏されるそう。その時また訪れるのが楽しみです。

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by berlinHbf | 2011-08-10 13:07 | ドイツ全般 | Comments(0)

「ひとりの犠牲者、沈黙を破る」-ヒロシマ原爆の日に-(Tagesspiegel紙より)

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外林秀人さん(2010年8月)

ヒロシマ原爆の日に、昨年翻訳したドイツの新聞記事をアップしたいと思います。これまで何度かご紹介してきたベルリン在住の科学者にしてヒロシマの被爆者、外林秀人さん。原爆投下から65年経った昨年8月、ターゲスシュピーゲル紙が紙面1面を使って外林さんを取り上げた記事の翻訳です。外林先生より直接依頼をいただき、通訳者の友人宇野将史さんに手伝ってもらいながら訳しました。1つのテーマを扱い、これほど重厚かつ長大な記事は日本の新聞ではそうそう読めないでしょう。難解な箇所も結構ありましたが、ドイツの新聞文化の厚みを感じながら訳しました。フクシマの原発事故が起こる半年前に書かれた記事ということも考慮して、ぜひ皆さんに読んでいただきたいと思います。


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ひとりの犠牲者、沈黙を破る
カーティア・ライマン

家族は彼に頼んだ。「黙っててくれよ、でないと一家の恥だ!」。それから60年もの間、彼は口をつぐんだ。しかし世界が何も学んでいないということに気付いた今、外林秀人はヒロシマの原爆投下について、口を開いた。


気温が30度、35度を超え、太陽が照っていると、平静を保てなくなる。外林にとって夏が問題なのではない。しかし暑さが記憶を呼び覚ますのだ。しのびよる熱気が肌に感じられると、汗ばみほてってくる。うすくて細いグレーの髪が生えた頭のてっぺんまで熱くなる。80歳になる体に暑さがじわりじわりと迫ってくる。暑さのせいで、彼がこれまでに整理してきたトラウマを克服しようとする考えは、かき乱されてしまうのだ。

外林は猛暑のその日、エアコンが効いている場所に座ることを望んだ。65年前に体験した8月6日のことを話すとき、彼は自分の記憶を冷静にコントロールしなければならない。彼はその時のことを、しっかり話せるように、きちんと並べてメモしていた。自分に起こったことを話す際、彼は自分の殻の中からあたかも抜け出さなければならないかのようだ。彼の中で何かがほころび、それを外に出そうと思うまで60年もの間、なぜ沈黙を保っていたのだろうか。

「あれから約150回の講演をしてきました」と外林は言った。講演の中で、彼はある日本のドキュメンタリー映画の一部分を見せた。そして、自分の日記を落ち着いた声で、ドイツ語で読み上げた。ベルリンに住んでほぼ50年になるが、決して流暢なドイツ語ではない。

ヒロシマの原爆投下を彼はどう生き延びたのか。


「1945年8月は暑い日々でした」と彼はクーラーの効いた涼しい中で話し始めた。第二次世界大戦がアジアにおいても終わりを迎えることになる夏。ドイツ降伏の後、日本もやがて降参するものだろうと思われていた。しかし結局は、アメリカの原子爆弾が日本を降伏へと追い込んだのだった。広島はそれまでアメリカの空爆による甚大な破壊を被ることのない、数少ない日本の都市のひとつだった。勤労奉仕の一環で、空襲の際、火の回りを遅らせるために、建物を壊して道路を拡張する作業が日中に行われていた。この都市は大部分が木造建築だったのである。

8月6日の早朝、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。が、その1時間後には解除された。そのため、当時エリート学校の生徒だった16歳の外林秀人は、8月6日も普段と同じように学校へ通った。教室は2階にあった。8時15分、化学の教師がベンゾールの分子の図を黒板に描いたその瞬間、閃光が上がった。「巨大な電球にスイッチが入ったような」明るさだったと外林は語る。轟音がとどろき、建物は倒壊。学校は爆心地よりわずか1.5キロほどの距離だった。

「日本語で、閃光はピカ、雷鳴はドンを意味します。ですから、広島の人は原爆の爆発をピカドンと呼ぶのです」。約14万人が即死、10万人もの人がそれから何年も病気に苛まれた。正確な数字は存在しない。

外林秀人はできることなら思い出したくない。長い間、彼は沈黙を続けた。それは1つに、日本の家族に苦労をかけたくなかったからだ。広島では、原爆の生存者は英雄ではなく、差別される者であり、人々は彼らからの伝染や奇形児を恐れている。外林はかつて弟からこのように頼まれたことがある。「被爆の話は自分の中に留めておいてほしい。そうでないと、僕の子供たちと結婚してくれる人がいなくなってしまう」。しかし、外林の目には、世界は破滅から何も学んでいないように写る。それゆえに彼は語らなければならないのである。

現在世界には2万3000の核弾頭が存在している。その威力はヒロシマの原爆の15万個分に相当する。バラク・オバマ米大統領は、2009年4月プラハでの演説で、それらを「冷戦のもっとも危険な遺産」と呼んだ。オバマは、テロリストによってこの「きたない爆弾」が製造される危険性と、核兵器なき世界である「グローバル・ゼロ」の必要性について言及した。「それは急務の問題です」と外林は語る。

原爆が落とされたのは、核分裂がエネルギー生産に使われる何年も前だった。世界は大量破壊兵器としての原子力と出会ったがゆえに、多くの人はそれを危険だと見なしている。にも関わらず、今日原子力はエネルギー需要の大部分を満たし、現在世界では439の原子力発電が稼働し、ドイツでは発電全体に対して核エネルギーが22%の割合を占めている。


意識を取り戻した時、外林は学校のがれきの下にいた。そこから抜け出し、友人の光明を助け出したが、彼は顔から耳が垂れ下がっていた。周りの全てが破壊され、燃え上がっているのを見た。「なぜ広島は攻撃を受けないのだろうかと、私たちはずっと不思議に思っていたんです」と外林は語る。川崎、東京、大阪、神戸といった日本中の大都市は爆撃を受けていた。ついにその時が来たのだと彼は思った。

原爆が広島中心部の上空約600メートルで爆発した時、爆心地の温度は、10億分の1秒の間に約6000万度にまで達した(これは太陽の地表の1万倍の熱さである)。地表では6000度以上の高熱が覆っていた。外林は講演の際、ある階段の写真を見せている。灰色の石の上に、黒い影がくっきりと浮き出ているが、これは爆発の際、そこに座っていた人の影だ。投下地点に留まっていたその犠牲者は、蒸発してしまったそうである。「それは完全には正しくありません」と外林は語る。「一種のレントゲン撮影です」。つまり、大量の放射線が一気に放射されたわけだ。「蒸発にはもっと時間がかかりますから」と彼は言う。

外林ならそれを科学的にも説明できるだろう。というのも、彼は物理化学の教授なのである。物理学者のリーゼ・マイトナーと化学者のオットー・ハーンが核分裂を発見したことで30年代後半に融合し、後の核兵器開発へとつながっていくこの分野こそが、外林の専門領域である。ひょっとしたら、外林は客観的な学問の知識があるために、自分の体験から距離を保てているのだろうか?彼は想像を絶するむごたらしさを、過度な感情を出さず自然科学的に説明することができる。


長崎に生まれた外林は、広島で育ち、京都大学で化学を専攻した。両親は彼が医者になることを望んでいた。「しかし、私は血を見ることができないのです」と語る外林は、広島の通りで血という血を見た後、それを気に留めなくなっていたことを、おかしいとさえ感じている。1957年、マックス・プランク協会のフリッツ・ハーバー研究所の2年間の奨学生としてベルリンにやって来た。学問のメッカであるダーレムは1つの夢だった。しかも、そのわずか20年足らず前、ハーンはベルリンで核分裂の実験を行った。全てはダーレムから始まったのだった。そのことが、あたかも彼をその場所に引き寄せたかのようだ。が、もちろんそうではない。あくまで学問的な興味でベルリンにやって来たのである。「ドイツといえば、メルセデス、バイエル、アスピリンでした」と外林は語る。

1965年にフリッツ・ハーバー研究所の助手として、再びベルリンへ。外林は、ベルリンの加速器Bessy Iで重合体やプラスチック層の研究、レントゲン放射を浴びた物質のテストに従事し、70年代前半に教授の資格を得た。科学者としては、人類が学問の成果について責任を負うということを、ただ望むしかない。外林秀人は、人間がいかに愚かになり得るかを知っているのだ。

日本は核エネルギーを気候変動の解決策として褒め称え、国は現在54の原子力発電所を稼働させ、さらに増やす計画もある。「それは、核エネルギーをもっぱら平和的に利用していると説明するトリックなのです」と外林は語る。では、一体その廃棄物はどこへ?日本はわからない。ドイツもわからない。

プルトニウムの半減期は約2万4000年にも及ぶ。その後ようやく、死の危険のある放射能の半分が崩壊する。外林の年齢の実に300倍もの長さである。


講演の際、外林はプロジェクタで壁に映し出される写真に背を向けて立つ。原爆投下を思い出させる博物館にも、足を運ぶことはない。「記憶が鮮明に蘇ってきて、あまりに感情的になってしまうのです」と語る。一瞬、彼はいつもの不安げなまなざしをこちらに向けて、微笑み、こう言った。「すると、夜眠れなくなってしまうのですよ」。

茶色の目には長くのびたまつ毛が重なり、年齢と暑さのためか、まぶたはやや重い。外林は「ヒロシマ広場をつくる会」と共に、1945年7月と8月のポツダム会談の期間中、ハリー・トルーマン米大統領が滞在したポツダムの邸宅の向かいに、記念碑を設立するための活動に従事していた。トルーマン大統領は、1945年7月25日にここで原爆の投下命令を下したのである。ちょうど65年後の同じ日、この会は追悼の場所の除幕式を行った。バーベルスベルクのこの広場では、いま広島と長崎からの2つのオリジナルの被爆石を見ることができる。「広島の魂が感じられます」と外林は語る。

2007年、外林はベルリン日独センターの大勢の聴衆の前で初めて語った。11月1日は彼の誕生日だった。また、広島に原爆を投下したアメリカ人パイロット、ポール・ティベッツが亡くなった日でもあった。それからというもの、外林は旅をしては学校にも行き、子供たちに話を聞かせている。講演の後、彼らから送られてくる手紙は、外林を喜ばせる。彼らの手紙からは、尊敬の念と、感銘を受けていろいろなことを考えるようになった様子が伝わってくる。「なぜ、人間がこんなことをするのでしょうか?」と彼らは問いかける。あるいは、「あなたの勇気はどこから来るのですか?」と。

行動する勇気。1945年のあの時、外林は怪我を負った友達を病院に運んだが、実家に戻った数日後に亡くなった。一方、学校の瓦礫の下から助けを求める声を無視するのも勇気がいることだった。というのも、ひょっとしたら自分が焼け死んでいたかもしれないのだから、そうせざるを得なかったのだ。

外林はそれらの光景を自分の中に抱え込んでいたが、もはやそれに耐えられなくなった。いまやそれについて語らずにはいられない。それまでは口をつぐんでいたのだが、今この歳になって、過ぎ去った人生の大部分をできるだけ早く整理し、まとまった形で残しておきたいという熱い思いが打ち勝ったのだ。1994年に彼は定年退職し、そこからようやく被爆者となった。自ら切り開いてきた人生について、外林は多くを語ろうとはしない。1965年にベルリンで出会い、1988年に結婚した妻のアストリッドは、仕事以外の私生活や思い出を分かち合える、外林のよき伴侶であり、彼を支え続けている。外林は自分が見たものをプロジェクタで壁に示すことはしない。しかし、何も見せなくても、その様子はありありと目に浮かんでくる。

外林の日記のメモから:爆心地に近づくにつれ、次第にそこはまさに地獄の様な光景になってきた。火傷で腕の皮が剥がれ、手の先から垂れ下がり、粉塵で真っ黒になり、幽霊のようにぶらぶらと歩いている人。子供の死体を抱えて、気が狂ったように叫んでいる人。

外林は父親と一緒に母親を捜しに赴くよりも先に、一家の知人を見つけねばならなかった。外林家に住んでいた沖増である。最初に客人を探すのが日本の礼儀なのだった。彼は近くの川で亡くなっていた。階段には人々が放射線状に倒れていた。

彼かどうかを確かめるため、人をより分けながら下の方に下りて行った。死んだように倒れている人が、みんな生きており、「水をくれ」と足を掴んでせがまれるが、どうすることも出来なかった。

外林はその時泣かなかった。「そんな時間はありませんでしたから」と彼は言う。しかし、川辺で死体だと思っていた人たちが、今でも夢の中で時々彼をつかもうと手を伸ばしてくる。

外林と父親は母親を見つけた。見たところ怪我はしていないようだったが、動くことはできなかった。リヤカーに乗せて、母親を家に連れて帰った。長崎に2発目の原爆が落とされた1945年8月9日、彼女は35歳で亡くなった。父と息子は、母のために棺を作り、火葬に付した。2人がそれについて話すことはその後なかった。

知人や親戚が、爆心地から約2キロの距離で、破壊されずに残った外林の家にやって来た。彼らは怪我をしていないように見えたが、数日後には髪が抜け、歯茎から出血し始め、全員が亡くなった。父と息子は必死に働き続けた。「お米を食べました」と彼は追想する。「でも、一体誰が炊いたのでしょうね?」。何はともあれ母親はもういなかった。

20年後、父親は癌で亡くなった。外林秀人も1945年以降、血液検査を受けており、腸に腫瘍ができたこともある。いつだったか?それは重要ではない。

外林秀人の話は、細部ではなく、大きな全体に向かっている。彼はこう語る。「私は日本人ではなく、ひとりの人間としてお話しているのです」。

ターゲスシュピーゲル紙 2010年8月5日。翻訳に際しては敬称略)

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by berlinHbf | 2011-08-06 13:40 | ドイツから見た日本 | Comments(7)

世界遺産になったファーグス工場の写真展

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南東から見たファーグス工場。1928年、アルベルト・レンガー=パッチュ撮影
©Albert Renger-Patzsch Archiv – Ann und Jürgen Wilde, Zülpich / VG Bild-Kunst Bonn 2011, Bauhaus-Archiv Berlin


この6月、日本の平泉と小笠原諸島が世界遺産に登録されて話題になりましたが、ドイツでも3カ所が新たに世界遺産入りを果たしました。その1つ、今回ご紹介するファーグス工場(Fagus-Werk)は、ニーダーザクセン州アルフェルトにある靴型製造工場。今からちょうど100年前の1911年、後にバウハウスを創設する建築家ヴァルター・グロピウスが、アドルフ・マイヤーと共に設計した画期的な建造物です。

現在、ベルリンのバウハウス資料館でファーグス工場を主題にした写真展「モダンへの視線」が開催されています。展示の中心をなしているのは、新即物主義の代表的な写真家、アルベルト・レンガー=パッチュが1928年と52年に撮影したファーグス工場のモノクロ写真です。

初めて見たファーグス工場の外観に、私はすぐに魅了されました。まず目を引くのは、建物のほぼ一面を覆うガラスと鉄骨の構造です。それまでの常識ならば、柱が置かれるべき角の部分にも、大きなガラスがはめ込まれ、当時主流だったレンガ造りの建物にはない軽さと透明性を生み出すことに成功しています。この建物が、「モダン建築のスタート地点」と言われる所以です。

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ファーグス工場正面(Wikipediaより拝借)

Fagusとは、ラテン語で「ブナの木」を意味する言葉。当時ブナの木は靴型の材料として重宝されたことから、その名が付けられました。ファーグスの創設者カール・ベンシャイトは福祉政策や労働者の扶助にも先見の明を持っていた人物で、彼が当時弱冠27歳のグロピウスに新しい工場の設計を依頼したことに、何か運命的な結び付きを感じます。

工場だけでなく、人物、靴型、周辺の風景などの写真も展示されており、撮影者の冷静な視線の中にも、単なる記録写真を越えた美を感じました。

ファーグス工場では、現在も4世代にわたって靴型が作られ続けており、展覧会で上映中のドキュメンタリー映像が今の様子を伝えてくれます。ある靴職人がインタビューの中で、「常に光が入るように設計されたこの工房の中で作業をしていると、自分が労働者というよりは、芸術家だと感じることができる」と話していたのが印象的でした。

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カラフルなバウハウス資料館の入り口。毎週火曜日は閉館

バウハウス資料館では最近、日本語のオーディオガイドが貸し出されるようになり、日本人にも鑑賞しやすくなりました。内容豊富な常設展も含めて、この夏お勧めの展覧会です(8月29日まで開催)。www.bauhaus.de
ドイツニュースダイジェスト 8月5日)

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by berlinHbf | 2011-08-03 17:45 | ドイツ全般 | Comments(0)

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