ベルリン-東と西が出会う場所。ドイツにありながらドイツではない町。歴史の影に彩られた栄光と悲運の世界都市。そんなベルリンの奥深い魅力をリアルタイムでお届けするブログです。Since 1. August 2005


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中村真人 (Masato)
神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。ベルリンの映像制作会社勤務を経て、現在はフリーのライター、ジャーナリスト。


ベルリンガイドブック
「素顔のベルリン」増補改訂版
¥1,680
ダイヤモンド社
(Amazon、全国各書店にて発売中)

本書は2009年10月発行「素顔のベルリン」の増補改訂版です。2013年に改めて新規取材を行い、データを更新。レストランやショッピング、コラムなどのページも増量し、より充実したガイドブックに生まれ変わりました。

Amazonにてネット購入ができます。



『街歩きのドイツ語 』
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三修社

豊富なビジュアルとドイツ語フレーズを楽しめる1冊。基本のあいさつ表現から、街にまつわるドイツ語豆知識まで、ガイドブックとともに旅に役立つ会話集です。




『素顔のベルリン 過去と未来が交錯する12のエリアガイド 』
¥1,575
ダイヤモンド社
(2009年発売)

地球の歩き方シリーズ初、待望のベルリンガイドブック誕生!比類なき歴史を抱えつつ、明日へ向かって日々進化し続ける首都ベルリン。「ドイツで最もドイツらしくない」といわれるこの町の知られざる魅力を、現地在住著者が12のエリアにわけて徹底紹介。


現在のトップ画像は、ベルリン在住のイラストレーター、高田美穂子さんによるオリジナル作品です(詳しくはこちらより)

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ベルリン・フィル八重奏団の来日公演

今週末からベルリン・フィルの八重奏団が日本で短期間のツアーを行います。原発事故の影響で2人のメンバーが来日をキャンセルし、一時はツアーの開催も危ぶまれたそうなのですが、ヴァイオリンのラティツァ・ホンダ=ローゼンベルクさん(ベルリン芸大教授)とホルンのシュテファン・イェジェルスキさん(ベルリン・フィル)が代役を引き受けて予定通り来日が実現することになったという経緯があります。ご縁があって、私がベルリンを発つ前にこのお2人にインタビューをさせていただく機会がありました。彼らの音楽的なルーツから、震災後日本のためのチャリティーコンサートで感じたこと、今回の日本行きの想いまで、とても印象深いお話を伺うことができました。

シュテファン・イェジェルスキさん(ヴァイオリン)
ラティツァ・ホンダ=ローゼンベルクさん(ホルン)

現在ベルリンを公式訪問中の皇太子殿下が、震災後チャリティーコンサートなどを通してのドイツ側の支援に感謝の気持ちを述べられたというニュースを目にしましたが、来日演奏家のキャンセルが続く中で急遽出演を引き受けたこの2人の音楽家の話と重なるところあったので、ここで紹介させていただきました。27日のオペラシティでのコンサートは私も聴きに行くつもりです(ツアーの詳細はこちらより)。

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by berlinHbf | 2011-06-26 00:48 | ベルリン音楽日記 | Comments(5)

梅雨の日本に一時帰国中

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お久しぶりです。先週後半から日本に一時帰国しています。梅雨の季節だし、震災後の影響などもあって、帰国を延期しようかと考えた時期もあったの思ったのですが、やっぱり帰って来てよかったなと思います。

成田に着いてすぐ、湿気を多く含んだ生暖かい空気に包まれると、不思議とどこか懐かしい気分になりました。ドイツに来て以来6月に帰るのは初めてで、日本の梅雨を味わうのも11年ぶりだったのです。空港駅でまずびっくりしたのが、新線開通によって京成線のホームが変わり、横須賀に帰るのにも2通りから選べるにようになっていたこと。「アクセス特急」なる電車に乗れば(運賃も京成線経由より若干高い)、北総鉄道経由で押上まで一本で行けて、そのまま京急にも接続。真新しい高架をひたすら直線的に走るので、さすがに早かったです。自宅の最寄り駅までは2時間20分ほど。これをどう見るか?従来の京成線経由より大分短縮されたのでしょうが、それでもやはり遠いなあと感じる時間感覚であることは確かです。ちなみに、7月にベルリンに戻る時は初めて羽田空港からなので、ちょっと楽しみ。ベルリンの新空港も開業予定までいよいよ1年を切ったので、羽田からベルリンまで1本で飛べたらどんなにいいものかとつい思ってしまいますね。

横須賀に戻った翌日、春に馬堀海岸にオープンしたばかりの横須賀温泉「湯楽の里」というところへ親に連れて行ってもらいました(冒頭の写真)。地下1800メートルから掘り起こした温泉だとかで、1階は岩盤浴、2階は浴室になっていて、結局4時間近くいたでしょうか、大いに楽しみました。中でも素晴らしかったのが、2階の露天風呂からの東京湾の眺めです。対岸に房総半島が見えるので、大海原というほどではないけれど、私にとってはあの震災後初めて目の前にする日本の海。鉄分を含むため黄土色の独特の湯につかり、時々のどかに行き交う船を眺めながらも、人々を襲った恐ろしい現実に思いを馳せずにはいられませんでした。

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翌日曜は相模湾に浮かぶ佐島という港に行って、おいしいお魚を食べて来たのですが、趣のある小さな漁村を歩いていても、津波に襲われた後の東北沿岸部の映像がどこかで脳裏に重なってしまう始末。この場所だって、東海地震が起きたらどうなるかわからない。地震が津波が、そして原発事故をめぐる現実が、人々の日々の生活や思考に重くのしかかっているのを、じわじわと体感しているところです。

それだけに、変わらぬ日常のありがたさを、今回の一時帰国ほど身に沁みて感じたこともなかったのかもしれません。もちろん、自分も両親も周りの人々や建物も少しずつ歳を取っているわけですが、帰れる場所があって、周りが元気でいてくれるだけでもまずはありがたいと思います。

1年半ぶりぐらいに日本に帰ると、最初の2〜3日は日本にいるのがどこか半ば夢のような気分を味わいます(時差ボケも関係しているのかもしれないけど)。でもそれを過ぎると、時の感覚が急にテンポアップしてきます。ベルリンで残してきた原稿を書いたり、7月の講演会の準備を少しずつしたり、時々東京横浜方面に出たり、という感じで少しずつ忙しくなってきました。実家の重病のネコが気にもなって、今はあまり遠出はできないのですが、7月半ばまでの日本での時間を大事に過ごしたいと思います。

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by berlinHbf | 2011-06-24 17:04 | ドイツから見た日本 | Comments(0)

125周年を迎えたクーダム

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10月16日まで、ガラスのショーケースに125の歴史が展示されているクーダム

この5月、ベルリンの西地区を代表する目抜き通り「クーダム」こと、クアフュルステンダムが完成から125周年を迎えました。

「選帝候の道」を意味する全長3.5キロのクーダムは、そもそも16世紀、ブランデンブルク選帝候ヨアヒム2世が中心部の王宮からグルーネヴァルトの狩りの館に出向くために通る道として整備されたのが最初です。とはいえ、この通りが歴史の表舞台に登場するのはそれから大分後のこと。19世紀後半、宰相ビスマルクがパリのシャンゼリゼ通りをモデルに、幅54メートルの大通りにする拡張工事に着手したのです。やがてブールバール(街路樹や側道を備えた広い道路)として完成した1886年5月5日が、クーダムの公式の誕生日となっています。

それから125年後の同日、ヴォーヴェライト市長が参加してメモリアルイヤーの開幕を迎えました。ヨアヒムスターラー通りとの角にある老舗カフェ「カフェ・クランツラー」は、道行く人々に記念のケーキをふるまったそうです。

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今、クーダムを歩くと、街灯に金色の大きなリボンが飾られているほか、通り沿いのガラスのショーケースに「125年、125の歴史」というタイトルの展示がされていることに気付くはずです。自由な空気に満ちあふれていた「黄金の20年代」、やがて始まるナチスによるユダヤ人排斥(当時クーダムでも多くのユダヤ人がデパートや商店を経営しており、閉店・接収を余儀なくされました)。また、1989年の壁崩壊の翌日は、西の繁栄の象徴だったクーダムに東独市民が殺到し、東西のベルリン市民が最初に出会った場所としても記憶されています。クーダムが歩んできた、そんな起伏に富んだ歴史を、建築、流行、商業、文化など125のポイントから紹介したもので、私はぶらぶら散歩しながら楽しみました。

それにしてもクーダム周辺は現在、日に日に風景を変えているように思えます。ランドマークのカイザー・ヴィルヘルム記念教会は約3年間の大改装中で、戦後、長らくベルリン国際映画祭のメイン会場だった映画館ツォー・パラストや周辺の商業施設も同様。その前には32階建ての新しいビル「ツォー・フェンスター」が全貌を表しつつあります。この20年間、都市開発で注目を浴びていたのはポツダム広場やミッテですが、今クーダムの変化が新たな注目を集めているのは間違いありません。

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改装中のカイザー・ヴィルヘルム記念教会と建設が進むツォー・フェンスター(右)

これから10月にかけて、クーダムではさまざまなお祝い行事が予定されています。記念教会のあるブライトシャイト広場にはインフォスタンドが立っていますし、www.kudamm2011.deでも詳細情報がご覧になれます。
ドイツニュースダイジェスト 6月17日)

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by berlinHbf | 2011-06-21 18:34 | ベルリン発掘(西) | Comments(0)

外林秀人氏インタビュー(『ターゲスシュピーゲル』紙日曜版より翻訳)

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昨年夏、ドイツニュースダイジェストにベルリン在住のヒロシマ被爆者、外林秀人さんにインタビューさせていただく機会がありました(Tags: Interviewにてご覧いただけます)。あの時は戦後65年という節目の夏だったのですが、今回の福島の原発事故の関係で、外林先生のお名前をドイツのメディアで目にする機会が再び増えたように思います。ドイツ人記者によるまとめ方は玉石混淆だったようですが、3月27日のターゲスシュピーゲル紙日曜版でのインタビューは、1面丸々が紙面に割かれ、内容も先生ご自身納得のいくものだったようで、以前から私に翻訳を依頼されていました。日本に帰る前に何とか訳し終えたので(ご協力いただいた友人の宇野将史さんに多謝!)、多くの方にじっくり読んでいただけたらと思います。それでは次は日本で!

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ヒロシマの生存者、外林秀人
「私は血を見るのがいやなのです」


外林秀人(82歳)は広島で生まれ、長崎で育った。1964年よりベルリン在住。ベルリン工科大学にて物理化学の教授となり、マックス・プランク協会で研究を重ねた。1988年にドイツ人のアストリッドと結婚し、ミッテ地区に暮らしている。広島に原爆が落とされた時、16歳の外林秀人は学校の教室に座っていた。彼はフクシマをどのように見ているか、そして若い人々に何を語るのだろうか。


外林教授、日本の大災害の動向をどのように追っておられますか?

インターネットや日本の新聞、もちろんテレビも見ています。放射線の測定を受ける子供の様子や、ガイガー・カウンターが高い測定値を示したため、衣服を脱がなければならない人々の写真を見た時、私は被災者の方々が自分や、当時の多くの人々と同じような目に遭うのではないかと危惧しました。すなわち、差別という問題です。

といいますと?

一度被曝すると、放射能が感染すると思っている人がたくさんいるのです。ですから社会のつまはじき者にされるのです。

ご自身もそのような状況に置かれたのでしょうか?

つい数年前まで、私が原爆投下時に広島にいたことは秘密にしてほしいと、弟は強く迫ってきました。でも彼は医者なので、そのような心配が理にかなっていないとわかっているはずです。子供たちが、私のようなおじのせいで、縁談に支障をきたすのではないかと心配していたのです。ですから、私たちの母の名前が広島の原爆記念碑に加えられるのも弟は望みませんでした。「少なくとも僕の子供たちが結婚するまで待ってほしい」と。そんな彼のために60年間、私は待ったのです。

日本では電力の35%を原子力発電に頼っています。日本は唯一核分裂の破壊力を経験した国であるのにも関わらず、エネルギー供給をなぜこれほど原子力に依存しているのか、説明することはできるでしょうか?

奇妙なことに、日本人は核の軍事使用と平和的利用とを分けて考えています。ですが、現在起こっていることを見ると、「平和的」というのは間違った考えだと思いますね。日本では原子爆弾の拡散を留めようという動きは強いですが、原子力を電力として利用することは、簡単に受け入れてしまうのです。例えば、私の妹は私と同様核兵器に反対していますが、彼女の夫は電力会社の監査役です。彼女が言うには「お兄さん、義弟の前で言うことには注意して。原発のことを悪く言うと、彼は嫌がるのよ」。

ご兄弟はまだ日本で生活されていますが、この大災害で被災されませんでしたか?

いえ、妹は広島に、弟は京都に住んでおり、どちらも危険地域からは遠く離れています。家族と東京に住んでいる私の甥の何人かは、まったく通常通り職場に通っています。すでに東京を離れた人々もいますが、そんなことが可能なのは、そもそも年金生活者の老人だけです。職場が東京にある人は、簡単に仕事をやめることなどできませんから。

外林教授は数年前から核兵器の廃絶のために力を注ぎ、日本とドイツの学校で講演をされています。原子力発電についても警告を発しておられるのですか?

原発は私の研究テーマではありませんでした。この数週間で初めて、私は原発への理解を本当に集中的に深めたのです。ある知人が、20年間原発で働いた後、癌で亡くなった日本のあるエンジニアのレポートを送ってくれました。原子力発電所は全てが円滑に機能しているとその近隣の人々は思い込まされていますが、全く健康の危険性にさらされていない、というわけではないのです。このエンジニアのレポートで一番興味深かったのは、福島の事故の前から、すでに原発周辺の住民が差別に遭っていたということです。東京で婚約をしたものの、婚約者の家族によって結婚を破談にされた若い女性のことをその方は伝えています。この家族は、彼女が健康な子供を産めないのではと恐れたのです。

この「差別」は日本特有のものなのでしょうか?

ドイツ人でも放射能と聞いて取り乱す人はいます。ポツダムには原爆投下の犠牲者追悼の記念碑が立っており、広島と長崎からの2つの石がそこにはめ込まれています。放射能で汚染された石だと言って怖がる人がいるから、取り除かなければならないという意見もありました。それ以前にその石は広島の大学で検査され、まったく危険はないとのことだったのですが。

原爆が広島に落ちた時、外林さんは16歳でしたね・・・

1945年8月6日の8時15分、でした。普通この年齢だと勤労奉仕をしなければならなかったのですが、私は試験に合格したのでエリート学校に通うことを許されたのです。その時間、私たちは教室で化学の授業を受けていました。夏の明るい日でした。なのに、突然明かりがついて、みんなの顔がぱっと光ったかのようでした。それから轟音がとどろきました。

キノコ雲はご覧になりましたか?

いえ、目の前が真っ暗になり、私はすぐに気絶しました。ようやく少しずつ再び意識を取り戻すと、上の方の穴から光が射し、自力で脱出することができたのです。私たちは爆心地から1.5キロほどの距離にいたのですが、学校中の建物は崩壊し、瓦礫の間から火が燃えていました。友人の光明君の助けを求める声が聞こえました。彼は瓦礫に挟まっていたものの、引っ張り出すことができました。が、顔から出血し、耳はほとんど引き裂かれ、一方から垂れ下がっていました。一緒に家へ帰ろうとしましたが、それは簡単なことではありませんでした。両親の家はそこから1キロほど離れていて、2つの川が流れています。全ての橋は崩壊していました。光明君は歩くことはできたものの、泳げません。私は小舟を見つけ、彼を乗せて押しながら川を渡りました。

爆発の時、ご両親はどちらにいらしたのでしょう?

私の父は幸い家にいました。そうでなかったら私たちの家も確実に焼失していたでしょう。いつもの朝のように窓から布団を干していたので、即座に火が回りました。父はすぐに消火することができたのです。

お友達はどうなったのですか?

彼はなんとか故郷に帰りました。後にそこで亡くなったと聞いています。私は父と一緒にすぐに家を出ました。

お母様を探すために?

そうしたかったのですが、ちょうど私たちの家に沖増君という私と同い年のお客さんが来ていました。お客さんへの責任があるので、まず客人の面倒を見なければならない。これが日本での流儀なのです。私たちは彼も見つけ出しました。爆心地からわずか600メートルほどの場所でした。

彼は生き延びたのですか?

そこにいた人たちは、ほぼ絶望的でした。私たちは、皮膚がずたずたに体からぶら下がった人々を見ました。ある橋では、階段が川へと下ってゆき、辺り一面人間が川岸に積み重なっていました。全員死んでいると私は思いました。ところが、近づいてみると、彼らは私の足をつかんだのです。水をくれと頼む人もいれば、自分が誰で、身内に(安否を)伝えてくれと私に話そうとするだけの人もいました。水辺に沖増君も見つけました。私たちは彼の遺体を家に持ち帰り、彼の両親に引き渡すことができました。

ではお母様は?

残念ながら、私たちはどこを探したらいいのかわかりませんでした。母は勤労奉仕に出ており、建物を壊して道路を拡張する作業に従事していました。空襲の際、火の回りを遅らせるためです。後に、私の妹は自分を強く責めていました。

そのことが妹さんとどういう関係があるのですか?

妹はまだ10歳で、他の大勢の子供たちと同様、田舎に疎開していました。そこを母が訪問しました。妹はまだとても幼かったので、「お願いだからもう1日だけいて!」と母に懇願しました。そのために、母は勤労奉仕の日を8月6日に変更してしまったのです。もしそうでなかったら、その日、母もまた家にいたでしょう。妹はいまでも時々自分自身を責めています。

お母様は見つからなかったのですか?

いえ、赤十字病院で見つけました。この混乱の中で見つかったのは、まったくの偶然でした。母は実際怪我をしてないように見え、表面上は無傷でした。しかし動くことができず、私たちはリヤカーに乗せて家に運びました。その3日後の8月9日、母は35歳で亡くなりました。長崎に原爆が落とされた日です。

お母様は、見た目は無傷だったとおっしゃいましたが、その3日間で病気の兆候が表れたのでしょうか?

まず髪の毛が抜け落ち、やがて歯茎が出血し始め、歯がぐらぐらになりました。私たちは棺を作り、仏教のしきたりに従って家の裏手の畑で火葬しました。母が見つかったのは不幸中の幸いといってもよいでしょう。津波が村全体を根こそぎ奪い去った今の仙台や福島と同じように、広島もあのように見渡す限り瓦礫の山でしたが、被災者の方々を思えば、家族や親類と最後のお別れができるのは、まだいい方なのです。

日本人は、このような最悪の災害でもストイックな姿勢を守るよう、教え込まれているのでしょうか?

ひょっとしたらこういうことかもしれません。ヨーロッパの人々は技術で自然を征服できると考えている。アジアでは自然が強大です。つまり、台風があれば、地震も津波もある。10メートルの津波が来たら、それは運命なのです。人は運命と折り合いを付けなければならないし、何もかも再建しなければならない。しかし、ヒロシマとフクシマは自然災害ではありません。ゆえに人間の側に責任があるのです。

お母様が亡くなった時、どのような種類の爆弾が頭上に落とされたのか、認識されていらっしゃいましたか?

いいえ、とてつもなく強力な爆弾に違いない、ということだけでした。私は最初に、「なんてことだ、このすぐ近くに落とされたに違いない」と考えました。広島のどこにいようが、誰もがただそう感じたのです。それからすぐに、あれやこれやと噂が流れました。髪の毛が抜け落ちた人がたくさんいました。私も歯茎から出血しました。当時、われわれは放射線のことをよく知らず、「ここを離れなければならない。今後75年間はもう広島には住めない」と言う人もかなりいました。それは公式の発表だったわけではありません。結局、今と状況はいくらか似通っていました。福島の周辺の人々も、これからどうなるかわからないように。

死者が出るのはどのくらい続きましたか?

大体8月の終わりまででした。が、その後も犠牲者はいました。父は20年後に胃がんで亡くなり、私はそれを放射線のせいだと考えています。私に関しては、何年か前に腸の腫瘍が見つかりました。幸い手遅れにならない時期の発見でした。他のあらゆるヒロシマの犠牲者同様、私は原爆手帳を持っていて、2年おきに広島で診察を受けることができます。

ヒロシマの犠牲者と認められたのはどういう人ですか?

コンパスで爆心地を中心として円を書き、その中にいる人は、この原爆手帳をもらえます。今日の福島を見ていても、私が間違いだと思うのは、簡単に円を書くことなどできないということです。放射能はそんなに均質に広がるわけではありません。その人が病気かそうでないかを決めるのは、距離だけでもないのです。

福島の原発周辺は、避難地域とされました。なぜ広島は同様に見限られ、居住不可と宣告されることはなかったのでしょう?

私は医師ではありませんが、それでも思うのは、両者を比較することはできないということです。福島周辺の地域では、この数週間来24時間常に、放射線が出ています。広島の爆発は巨大だったものの、ほんの一瞬でした。それに誰も広島の街から住民を避難させようとは思いませんでした。日本はアメリカの占領下に入り、むしろ広島に人がそのまま残ってくれた方がアメリカにとっては好都合だったのです。それは興味深い実験でした。私たちは採血されましたが、手当を受けるということはありませんでした。アメリカがビキニ環礁で原爆実験に着手した時、どのような爆弾が私たちの上に落とされたのか、初めて知ることとなったのです。しかし、アメリカ人が集めたデータは、日本で見つけることはできないでしょう。

今日、福島の消防士たちは自分たちがどのようなリスクを負っているか知っています。外林教授にとって、彼らは英雄ですか?

どうでしょう。彼らはひょっとしたら一種の洗脳を受け、強制されているのかもしれません。敵機に向かって自ら飛び込んだ神風特攻隊は英雄だったでしょうか?私はあの時代に育ち、日本の社会階級が厳格だった古い世代に属しますが、とてもそうは思えませんでした。ですから、われわれは若いうちに日本を飛び出し、私はドイツに、別の者はアメリカに渡りました。おかげで外国では人々がどんな暮らしを送っているのかがわかりました。今の日本の若い人たちは無精になり、ひきこもってしまって、容易には理解しがたいような人々がいるところに飛び込んで行かない、そんな印象を受けることが時々あります。

今日、外林教授は生徒たちに当時の自らの体験を話されています。若い世代の人たちは、原子力の危険について敏感に反応しますか?

日本の生徒たちは誰が悪いのかと問います。彼らの意見では、悪いのはアメリカ人です。ドイツの生徒は、もっとずっとエモーショナルに反応します。なぜ人間がそのようなことをすることができたのですか、と彼らは問うてきます。私が再び街に出て母親を探そうとした勇気はどこから来たのか、彼らは知ろうとします。私に勇気があったわけではありません。両親は私が医者になるのを望んでいましたが、それは叶いませんでした。これ以上血を見ることができなくなってしまったからです。血を見るのがいやなのです。それゆえに、私は化学者になりました。

外林教授の専門分野は物理化学です。

そもそも私はもう二度と放射線と関わりたくなかったのですが、でも、そうはいきませんでした。ダーレムの粒子加速器Bessyで仕事をした際に、エックス線と関わったからです。しかし、これは説明するのが本当に複雑です。新しい物質のための基礎研究でした。

オットー・ハーンが核分裂を研究したフリッツ・ハーバー研究所に勤務されていましたね。

ええ、1950年代、私はリーゼ・マイトナーと知り合う機会がありました。彼らのどちらも爆弾を作ろうなどとは考えず、基礎研究に従事していました。それは人間の好奇心と合致するものです。それをどう利用するかは、学問の問題ではなく、モラル、倫理、そして政治の問題なのです。

アメリカ人に原子爆弾の開発を要請したのは、アルベルト・アインシュタインでした。

ええ、ナチス・ドイツに対して効果的な武器を作ろうと考えたからです。しかし、アインシュタインは、その後はもう原爆の開発に関わることはありませんでした。彼は利用されたのです。

基礎研究に罪はないとお考えなのですね。

こう言うと矛盾して聞こえるのは承知の上です。それでもなお、私はそう信じているのです。


インタビュー:アンドレアス・アウスティラート、バーバラ・ノルテ
(ターゲスシュピーゲル紙日曜版 2011年3月27日。翻訳に際しては敬称略)

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by berlinHbf | 2011-06-15 03:00 | ドイツから見た日本 | Comments(0)

講演会「『ベルリンの壁』とは何だったのか」(7/9)のお知らせ

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来週半ばから久々に日本に一時帰国することになりました。震災後初めての日本行きということで、いままでの帰国前には味わったことのない重い気分も感じているのですが、懐かしい人々に会えるのはもちろん楽しみです。

今回ご縁があり、7月上旬に出身地横須賀市の横須賀三浦教育会館にて講演会をさせていただくことになりました。一般の方々を対象にした「教養セミナー」とのことで、一体ベルリンの何についてお話しようかとあれこれ考えたのですが、この8月で建設からちょうど半世紀を迎える「ベルリンの壁」をテーマにしようと決めました。私がベルリンについて興味を持つようになった1つのきっかけですし、この機会に自分の中で捉え直してみたいという気持ちもあったからです。私は壁の時代のベルリンを直接知っているわけではないのですが、ベルリンに来てからあの時代を生きた人に話を聞く機会は比較的多くありました。単なる知識だけでなく、彼らが味わって来た気持ちをどうしたら日本の皆さんにも体感してもらえるか、今いろいろ考えているところです。さて、どうなるか・・・

横須賀三浦教育会館は東京湾にほぼ面しているので、もしよろしかったら、土曜日の午後、横須賀の海を見に来るのも兼ねてお越しになってください。以下がちらしの文面になります。

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公益法人横須賀三浦教育会館教養セミナー
講演会『ベルリンの壁』とは何だったのか?
~壁と歩んだ街 ベルリンの過去と現在(いま)~


今年の8月、「ベルリンの壁」が築かれてからちょうど50年を迎える。1つの街が、ある日突然コンクリートの壁に分断されたことで何が起きたのか。人々はどんな思いで壁と向き合い、その向こうの世界に憧れ、運命との折り合いをつけたのか。そして、壁崩壊の歓喜の瞬間はいかに訪れたのか。

ベルリン在住10年の本人が、豊富な写真や図解、さらに現地で実際に出会った人々の実話を通して、ベルリンの過去と現在を語る。ベルリンが歩んだ数奇な歴史に加え、この街の魅力も紹介する。

日時:7月9日(土)  13:30受付  14:00~15:45
場所:公益法人横須賀三浦教育会館
申し込み:電話046-824-0683  定員100名 入場無料

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by berlinHbf | 2011-06-11 12:26 | ベルリン発掘(全般) | Comments(4)

ハンブルクの港祭りにて - Queen Mary 2の出航 -

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忙しくもなかなか充実していた5月のことを、これから振り返ってみたいと思います。まずは、先月初旬の週末にハンブルクに行った時のこと。ベルリンからハンブルクまで、一昔はインターシティでも3時間近くかかりましたが、今はノンストップのICEでわずか1時間40分ほど。近くなったものです。にも関わらず、この港町を訪れるのは実質10年ぶりでした。

大学時代の同級生で、現地に住む友人夫婦がハンブルク中央駅まで迎えに来てくれ、地下鉄で港の方に行ってみることにしました。偶然、この日は港創立記念日(Hafengeburtstag)だったのです。Rödingsmarkt駅を過ぎると地下鉄は大きく右に回り、エルベ川に沿って走ります。ここからの車窓は素晴らしい。川といってもさすがに貫禄十分で、ここから海まで110キロも離れているとは到底思えません。どこか横浜の港にいるような気分になりました。ハンブルクの港祭りは、毎年約100万人が訪れる世界最大の港祭りだそうで、地下鉄のLandungsbrückenの前には、日頃は見ることのできない大型帆船などがたくさん集まっていました。

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HafenCityと呼ばれる斬新な建築が建ち並ぶエリアを歩いて行くと、港祭りの目玉が目の前に現れました。世界最大級の客船、イギリスの「クイーン・メリー2世」がこの日に合わせて、停泊していたのです。

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写真ではうまく伝わらないかもしれませんが、こんな大きな客船、実物では見たことがありません。もう少し待てば出航のシーンが見られるというので、せっかくの機会、強い風を浴びながらも妻と待ってみることにしました。

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しかし、待てども待てどもなかなか出てくれなくて、気付いたらもう2時間が経過。ようやく船員がせわしなく動き始め、岸壁とのロープが外れ、「ブオーー」という腹に響く汽笛と共に、この巨大な船体にしては驚くほど滑らかに動き出しました。

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周りの人が手を振ると、船上の彼らも応えてくれます。大型客船の出航というのは、鉄道とも飛行機とも違う、得もいえぬ感動がありますね。

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快晴の日曜日、手を振って歓声を上げる人々。

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ここまで離れて、ようやく全長345メートルの船体の全貌が、1枚の写真に収まりました。

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現在建設中のハンブルクの新しいコンサートホール、Elbphilharmonieを横目に、Queen Mary 2は悠然とニューヨークを目指して旅立って行ったのでした。

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by berlinHbf | 2011-06-08 17:03 | ドイツ全般 | Comments(5)

発掘の散歩術(11) - ユダヤのカフェ・ハウスでの時間 -

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常時警官が立ち構えているベート・カフェの入り口

Sバーンのオラーニエンブルガー通り駅からトゥホルフスキー通りを北に向かって歩き、アウグスト通りを越えると、白黒の独特の字体で「Beth-Café」と書かれた看板が右手に見えてくる。入り口前には柵が立てられ、その横には常に警官が構えているため、この前を通る時はいつもどこか緊張する。何も知らなかったら、警官の視線を感じながら敢えてその横のカフェに入ってみる気にはそうならないだろう。

「Beth」は、ヘブライ語で「家」を意味する。つまり、ユダヤの「カフェ・ハウス」だ。ユダヤ教の中にもいろいろな流れがあるが、モーゼス・メンデルスゾーンらの改革派の波に反抗し、1869年に設立された厳格なイスラエル・シナゴーグ教区(Adass Jisroel)の建物がカフェに隣接している。この正統派の教区が運営するカフェとして、1991年にオープンしたのが「Beth-Café」である。ゆえに、ここで提供されるすべてのメニューは、ユダヤ教の食事規定を指す「カシュルート」によって作られているそうだ(ちなみに改革派は、すでに100年以上昔にこの規定を廃止している)。

このように紹介すると、ほとんどあらゆる食文化を受け入れてきた日本人はますます「Beth-Café」に入りづらくなってしまうかもしれないが、これも経験、一歩中に足を踏み入れてみてはどうだろう。私はすすけた外観からは予想できない、落ち着いた空間が待ち受けていることに新鮮な驚きを感じた。どこか憂いのあるユダヤの音楽が店内に流れ、キッパと呼ばれる帽子のようなものを被った父と子も見かけた。時折、年配のウェイトレスが慎ましやかにそばを通り過ぎる。メニューにはKnischesと呼ばれるひよこ豆のクリームやファラフェルなどが並び、デザートのBeth-Café Cremeは、日本のカスタードプリンにも似て美味だった。

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夕日を浴びて金色に輝く新シナゴーグのドーム

このカフェの周辺からアレクサンダー広場までの一帯は、今でも「ショイネン(穀倉)地区」と呼ばれることがある。ナチスによるユダヤ人排斥が始まる前まで、ここは特に東方からのユダヤ人が密集して住む貧しいエリアだった。1920年代にジャーナリストとしてベルリンに滞在した作家ヨーゼフ・ロートは、この地区のヒルテン通りを指して「世界中どこを探してもこれほど物悲しい通りはない」(『放浪のユダヤ人』〈鳥影社。平田達治訳〉)という印象を残している。

「Beth-Café」を出て、アウグスト通りを東に歩いてみた。現在はギャラリーが多く並ぶ人気の通りだが、ここにもユダヤ人の影があることを私は大分後になって知った。かつて住んでいたユダヤ人がそこを追われ、所有主が分からなくなっていた状態の空き家に、東西統一後、アーティストが不法に住み着いて、活動を始めたのが、そもそもの発端なのだそうだ。

ナチスによってほとんど根こそぎ奪われた、ベルリンのユダヤ文化の何がしかを私は「Beth-Café」の中に感じたが、同時にまたユダヤ人の施設というだけで、常に警備を付けなければならない現実も思い出し、何とも複雑な気持ちになった。
ドイツニュースダイジェスト 6月3日)


information
ベート・カフェ
Beth-Café


スープ、サラダ、コーヒーからワインなどのアルコール類、ここで取り扱われているユダヤの食材に至るまで、「カシュルート」に基づいており、いろいろ試してみるのも興味深い。奥には夏場に開放している美しい中庭があり、ここで過ごす時間も良い。やはり安全上の理由からか、店内は撮影禁止となっている。

営業:日~木11:00~20:00、金11:00~17:00
住所:Tucholskystr.40, 10117 Berlin
電話番号:(030)282 3135


新シナゴーグ 
Neue Synagoge


もともとは1861年に完成したドイツ最大のシナゴーグ。ナチスによる「水晶の夜」事件で放火され、現在は一部しか残されていないが、ベルリンのユダヤ文化を知る上で必見の場所であることに変わりない。ユダヤ・センターとして、常設展のほか、定期的に企画展を開催。戦前、かのアインシュタインがここでヴァイオリンを演奏したこともある。

開館:日月10:00~20:00、火~木10:00~18:00、金10:00~17:00
(10~3月の開館時間は下記URLを参照)
住所:Oranienburger Str.28-30, 10117 Berlin
電話番号:(030)8802 8300
URL:www.cjudaicum.de

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by berlinHbf | 2011-06-02 16:15 | ベルリン発掘(東) | Comments(1)

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