ベルリン-東と西が出会う場所。ドイツにありながらドイツではない町。歴史の影に彩られた栄光と悲運の世界都市。そんなベルリンの奥深い魅力をリアルタイムでお届けするブログです。Since 1. August 2005


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中村真人 (Masato)
神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。ベルリンの映像制作会社勤務を経て、現在はフリーのライター、ジャーナリスト。


ベルリンガイドブック
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(Amazon、全国各書店にて発売中)

本書は2009年10月発行「素顔のベルリン」の増補改訂版です。2013年に改めて新規取材を行い、データを更新。レストランやショッピング、コラムなどのページも増量し、より充実したガイドブックに生まれ変わりました。

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豊富なビジュアルとドイツ語フレーズを楽しめる1冊。基本のあいさつ表現から、街にまつわるドイツ語豆知識まで、ガイドブックとともに旅に役立つ会話集です。




『素顔のベルリン 過去と未来が交錯する12のエリアガイド 』
¥1,575
ダイヤモンド社
(2009年発売)

地球の歩き方シリーズ初、待望のベルリンガイドブック誕生!比類なき歴史を抱えつつ、明日へ向かって日々進化し続ける首都ベルリン。「ドイツで最もドイツらしくない」といわれるこの町の知られざる魅力を、現地在住著者が12のエリアにわけて徹底紹介。


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Klaus Wowereit! - ベルリンの顔 -

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ブランデンブルク門前のパリ広場にて(3月25日)

先週の日曜日はいろいろな意味で感慨深い一日でした。
2007年3月25日は欧州連合の基礎となったローマ条約が締結されてからちょうど50年という記念の日。EU全ての首脳がベルリンに集結した他、2日間にわたるEuropafestで市民も盛大に祝ったのでした。

午後2時過ぎ、私はウンター・デン・リンデンを横切ってブランデンブルク門に面したパリ広場に入ろうとしたのですが、そこからがすごい人!警察もかなりの規制を敷いていました(その理由は後でわかるのですが)。

やっとの思いで中に入ると、広場にはEU各国やドイツの省庁のブースが並んでいます。これがなかなか面白くて、各種のグッズやパンフレットが無料でもらえるのです。いくつか回って、ベルリン市のブースに立ち寄ったら、そこで思わぬ人に遭遇しました。

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クラウス・ヴォーヴェライトさん(53歳)。いうまでもなく、2001年からベルリンの市長を務めている方です。

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ヴォーヴェライトさんは数人のSPに護られている以外、本当に普通にそこに立っていました。一般市民の話しかけにも気楽に応じ、豪快に笑ったりもして、きっと人との壁を作らない方なんだろうなと思いました。よく知られている通り、この方は同性愛者なのですが、とても男前で(という言い方がふさわしいのかわかりませんが^^;)、魅力的な雰囲気を持った人だなとの印象を持ちました。

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ヴォーヴェライト市長の強みはなんといってもその人気でしょう。移民や外国人にも寛容で、ベルリンの幅広い層から支持を受けています。先月私が購読している新聞にこの人物のことが取り上げられ、彼の強みと弱みがこんな風に書かれていました。ちょっと厳しいことも書かれていますが訳してみます。

長所:ヴォーヴェライト氏は魅力的に振る舞うことができ、もてなし上手である。市民やVIPに対してBerührungsängste(接触に対する不安)を知らず、文化や映画シーンにも目がない。

短所:彼はしばしば人からアドバイスを受けることに抵抗を示し、自分の方がよく知っていると思っている。また経済のことはほんの少ししか知らず、本当に関心を持っているといえる特定のテーマがほとんどない。

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私もかなりテンションが上がってしまい、一緒に記念撮影をお願いした上、サインまでもらってしまいました^^v)。機会があったら、ヴォーヴェライトさんに「ベルリン・インタビュー」をしてみたいなあとふと思ったのでした。

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by berlinHbf | 2007-03-29 13:47 | ベルリンの人々 | Comments(13)

ドレスデンの現在

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ドレスデンのゼンパーオーパー前にて(3月21日)

1985年に再オープンした、ドレスデンの芸術のシンボルともいえるゼンパーオーパー。秋の来日公演の演目に入っているR.シュトラウスの「ばらの騎士」(1911年にここで初演)を、私は今回幸運にも聴くことができたのだが、オーケストラの響き(もちろん歌もよかったですよ^^)、そして劇場の雰囲気にはやはり抗し難い魅力を感じた。加えて今回貴重だったのは、オペラの舞台裏を見せてもらえる機会に恵まれたことだ。大道具と小道具を作る別館の工房のスケールはただただびっくり。ドレスデンの人々がこの劇場へかける思いの集積、その一端を垣間見れたような気がした。

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旧市街の再建が着々と進む中、私が今回一番驚いたのが、ホテル・ヒルトン前にできた一連の建物群だ。私が2000年に初めて来た時は、まだ何もなかったはず。前回来た時も、奥に見える「君主の行列」の壁画の辺りからフラウエン教会がよく見えたものだが。

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ノイマルクト広場にそびえるフラウエン(聖母)教会。1945年2月のドレスデン空襲で瓦礫の山と化したこの教会を再建することは、統一後のドイツの一大国家プロジェクトだった。手前で掘り起こされているのは何かの遺跡のように見えたのだが、実際は何だったのだろう。

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黒い部分はオリジナルの石。これらが破壊前どこにあったかを1つ1つ厳密に検証し、新しい部分と組み合わせたという、信じられないような気の長い作業の末、2005年に再建された教会。まさにドレスデンの復活のシンボルだ。

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そのフラウエン教会のてっぺんに初めて上ることができた。こちらはゼンパーオーパーや王宮方面。

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その反対のカローラ橋方面。エルベ川のこの向こうに、新しい橋を作るか作らないかで今大きな論議を呼んでいる地点がある。

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こちらは南側のノイマルクト広場。歴史的建築物が並ぶこの広場の中で、DDR時代に建てられた「文化宮殿(Kulturpalast)」が一際目立つ。ゼンパーオーパーが再館する前、シュターツカペレ・ドレスデンのコンサートはここで行われていた。私の大学時代のオケの演奏旅行で、ここで演奏したのも懐かしい思い出だ。

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今回はつくづく天気に恵まれなかったけれど^^;)、カローラ橋からのこの眺望はやはりすばらしい。

ドレスデンはやはり美しい街だった。だが私は同時に奇妙な印象も抱いた。重厚な建築物が並ぶ旧市街は夜になると人通りがぱったりなくなる。まるで死んだ街のようだった。観光客があふれる昼間の旧市街を除くと、全体的に活気がない。その中で私が一番活気があると感じたのは、アルトマルクト広場に面した今やドイツのどこにでもあるようなショッピングモールだった。車で少し中心部から離れると、DDR時代の廃墟をいくつも見かけただけに、資本主義(あるいはグローバリズム)との強烈な対照を感じずにはいられなかった。ドレスデンを中心とするザクセン州は失業率が高く、ネオナチの影も気になる。一方で私は今回、ドレスデンに熱い思いを寄せる地元の人々にもたくさん出会った。この街のこれからを静かに見守っていきたいと思う。

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by berlinHbf | 2007-03-28 02:38 | ドイツ全般 | Comments(13)

ドレスデンより戻りました!

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ドレスデンのTheaterplatzにて(3月23日)

昨日ドレスデンより帰って来ました。
今秋26年ぶりに来日するドレスデン国立歌劇場とこの街を紹介するテレビ番組のロケに、数日間同行させていただきました。残念ながら天気には全く恵まれませんでしたが(寒かった・・・)、面白い出会いがあったり、オペラの舞台裏を覗かせてもらう機会もあったりして、自分にとっても充実した日々でした。

ドレスデンには2000年に初めて訪れて以来、ほぼ2、3年おきに訪ねていますが、その度に街が変わっていて驚かされます。今回もいろいろと感じることがあったので、次回ドレスデンの街を少しご紹介できたらなと思っています。

ところで今日は欧州統合の基礎となったローマ条約の締結から50年という、ヨーロッパにとっては記念の日です。ウンター・デン・リンデンのドイツ歴史博物館での記念式典ではEU27カ国の首脳が一堂に会し、「ベルリン宣言」の調印の様子が先ほどテレビで放映されていました。今週末のベルリンはその関連イベントが目白押しで、祝祭ムードに包まれています。天気も最高なので、私もこれからブランデンブルク門の方に行ってみるつもりです。

留守中にいただいたコメントのお返事は、もう少々お待ちください!

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by berlinHbf | 2007-03-25 14:42 | ベルリンのいま | Comments(16)

壁崩壊、そして - メヒティルトさんに聞く(8) -

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メヒティルトさん所蔵の写真から(1989年11月)

長々とお送りしてきたメヒティルトさんとのインタビューは今回が最後です。

壁崩壊前夜

当時、壁はこのままずっと立ち続けるものだと思っていましたか?

メヒティルト:(きっぱりと)ええ、思っていたわ。1989年の初頭にエーリヒ・ホーネッカーが「壁は、あと100年は持つだろう」と言ったら、DDRの人々は「この国で建てられたものがあと100年も持ちこたえるはずがない」と笑い飛ばしていましたが。とにかく私は、同じ年に壁が崩壊するなんて思ってもいませんでした。ルートヴィヒは後になってから、「僕は予想していたよ」なんて言っていたけれど。そうそう、私は11月8日に教会の集まりで東ベルリンにいたのよ。

えっ、11月8日というと壁崩壊の前日ではないですか!

メヒティルト:当時、東と西の教会で働く女性の間で、教会や日常生活に関しての情報交換をする場が年に2回ぐらいあったんです。その日は木曜日でした。フリードリヒスハインのバルトロメオ教会で何人かの女性に会ったんですが、彼女たちはさかんに「国境はどうでしたか?検問は厳しかったですか?」と私に聞いてきました。とにかく国境で何が起こっているのかを知りたがったんです。私は「いえ、特にチェックは厳しくなかったですよ」と普通に答えました。

それまでと変わらない感じだったんですか?

メヒティルト:いえ、何かが目前に迫っているのを感じはしました。でも、物事があんなに早く進むだなんて、その時は思ってもいなかった。

深夜に鳴り響いた電話

そして運命の11月9日を迎えるわけですが。

メヒティルト:翌9日の夜、私はSFB(ベルリン自由放送)のニュースをテレビで見ていました。19時半頃だったかしら。ニュースでそのことが取り上げられて、ルートヴィヒとも話していましたが、それが一体何を意味するのかよくわかっていなかったんです。映像がまだ届いていないというせいもあった。他の人たちのようにわざわざ壁の様子を見に行くこともなく、その夜私はそのまま寝てしまいました。

すると深夜1時半ごろ、電話が鳴ったんです。「メヒティルト、私よ!今ノイケルンにいるのよ!」 東ベルリンの友人からでした。トレプトウに住んでいた彼らは壁を越えて、ノイケルンにいたのです。私は「それはすばらしい!あなたたちの幸運を祈るわ!」と言って、再び眠ってしまいました。壁が壊れたのがどうやら本当のことだと理解したのは、翌10日の金曜日、西ベルリンでトラビ(トラバント)が走っているのを初めて見た時です。こうなると話は別でしょ(笑)。要するに、壁が崩壊したのを現実の出来事として理解するまで、いくつかの段階があったんです。

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この写真は、壁崩壊の約1週間後、メヒティルトさんがブランデンブルク門周辺で撮ったもの。早くも壁のかけらを露天で売り出すトルコ人女性の写真を指差して、メヒティルトさんは笑っていた。

90年以降の建築ラッシュ

1990年のドイツ再統一以降、ものすごい勢いで新しい建物が建ち並びましたが、どう思われますか?

メヒティルト:それによって難しいことも起こったわ。例えば、ポツダム広場。あそこはもう私の場所ではなくなってしまった・・・もちろん壁があった時代のポツダム広場も悲惨な状態だったけれど、ここまで隙間なく建ち並んでしまうとね。それに、あそこはビルの谷間風がひどくて、冬場は歩きたくないのよ。

モダンな建築群の中ではフィルハーモニーや新ナショナルギャラリーなどが好きね。醜悪だと言う人が多いドイチェ・オーパーも、私はもともと好きです。でもそれは私が子供の頃からあそこで育ったことと関係があるかもしれません。もっと最近の建築となると、そうね・・・今思い浮かんだものでは、ドイツ歴史博物館のペイ館はとても気に入っています。あと、古い建築物を現代的に改築したものの中にも好きな例があるわね。ハッケシャーマルクトの駅とかオペラ座の近くのテレコムの建物がそうだし、普通のアパートの中にも、古いものと新しいものとをうまく組み合わせたものが少なくありません。新しいユダヤ博物館は、建築的にすばらしいかどうか私にはわからないけど、少なくともとても興味深いとは思うわね。ただ、ソニーセンターやその隣の一連の建築物がすばらしいかというと・・・

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ベルリンがドイツの他の街と違うのは、どういうところにあると思われますか?

メヒティルト:それは難しい質問ね。何しろ私はずっとここに住んでいるわけだから。ルートヴィヒに聞いてみたら(笑)?

多くの人が言うことだけれど、「ベルリンにはよそよそしさがない」っていうわね。なぜなら、純粋なベルリーナーというのは少数派で、みんないろいろな場所からこの街に集まって来ているから。トルコ人とかになるとまたちょっと別だけど、ミュンヘンから、シュトゥットガルトから、あるいはハンブルクからやって来てベルリンに住んでいるということはごく普通のことでしょ。ある女性が、「ドイツの他の街と違って、ベルリンでは『あなたはどこから来たの?』といちいち聞かれることがない」と私に言ったことがあるけれど、確かにそうかもしれません。でも、それ以上のことになると私にはわからないわね。

メヒティルトさんが、ベルリンに郷愁を感じるのはどういう時ですか?あるいは何に対して郷愁を感じますか?

メヒティルト:いくつか挙げてみましょう。まずは街路の敷石と街灯ね。ベルリンの敷石と街灯は他の街と違うのを知っているかしら?それから街の至る所に立っている菩提樹の香りを夏の日胸いっぱいに吸い込む時。あと、地下鉄のにおいにもベルリンらしさを感じるわね。あれが嫌いという人もいるけれど、街を歩いていて、通りにある地下の通風口からあのにおいがむわっと立ち上がってくる瞬間、私は「ベルリン」を感じるんです(笑)。


「街路の敷石」と言われても、私には何のことかよくわからなかった。するとメヒティルトさんはふと思い出したように、「よかったら今度の土曜日の午後、クロイツベルクを一緒に歩いてみない?あの辺りは両親や幼少期の思い出がいろいろあるんだけど、私も長いこと歩いていないし、今話したこともそこで説明するわ」と言ってくれた。生粋のベルリーナーに街を案内してもらえるなんて、願ってもいない機会である。私は喜んでお願いすることにした。

さて、私は明日から仕事でドレスデンに行くため、しばらくブログの更新はお休みになります。帰って来たら、ベルリン・インタビューの番外編「メヒティルトさんと歩くクロイツベルク」をお送りするつもりですので、どうぞお楽しみに。

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by berlinHbf | 2007-03-19 01:05 | ベルリンの人々 | Comments(10)

シュピーゲル誌のベルリン特集

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今日発売の週刊誌"Der Spiegel"のタイトル記事はベルリン!
先ほど駅の売店でたまたま見つけ、迷わず買いました。記事の方はパラパラめくっただけですが、ベルリンの現在をよく伝えるレポートになっているようです。サブタイトルは「世界都市へのカムバック」。

それよりもすごいのが付属のDVDです。ベルリンのこの100年の歴史を振り返るという、おそらく"Spiegel TV"ですでに放映された番組だと思いますが、貴重映像が満載の1時間半のドキュメンタリーになっています。これで3.5ユーロって・・・ちょっとありえません。私は狂喜乱舞しています\(^0^)/

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by berlinHbf | 2007-03-18 23:26 | ベルリンあれこれ | Comments(9)

壁のあった時代(下) - メヒティルトさんに聞く(7) -

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「ベルリン市立オペラ(Städtische Oper)」のプログラム

(前回のつづき)

1960年代のベルリン音楽談義

メヒティルトさんがバイロイトに通い始めた1960年代前半、日本同様にドイツも経済成長期を迎え、ベルリンの音楽文化にも大きな変化が訪れていた。今回はメヒティルトさん所蔵の60年代のプログラムなどを見ながら、当時の音楽生活を振り返ってもらうことにした。

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メヒティルトさんの家から近く、個人的にも馴染みの深いシャルロッテンブルクのStädtische Operは、戦争で大きな被害を受けたため、戦後はカント通りの別の劇場で公演が行われていた。

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1961年9月には、ベルリン・ドイツオペラと名前を変えた新しいオペラハウスが杮落としを迎える。その時の演目がモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」だった。メヒティルトさんが聴いたのは1963年の公演で、指揮はオイゲン・ヨッフム。

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メヒティルト:この「ドン・ジョヴァンニ」は思い出深いのよ。ドン・ジョヴァンニを歌ったジョージ・ロンドンという歌手がとにかくすばらしくて、有名な「シャンパンの歌」の後で拍手が鳴り止まずに、その場でもう一度歌ったの。これはそのことを記した私のメモです(笑)。懐かしい!

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1963年10月、ハンス・シャロウン設計の斬新なフィルハーモニーが完成したことによって、ベルリンの音楽生活は大きな変化を迎えた。これ以降のプログラムには、カラヤン、ベーム、クーベリック、バルビローリなど、そうそうたる面々が並ぶ。どれか一つでいいから聴いてみたかったな、なんて個人的には思ったりもする。

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メヒティルト:ちょっとこれを見て。これはフィルハーモニーがオープンして最初の年のハンス・スワロフスキーのコンサートだけど(1963年11月)、上に小さく「病気のパウル・ヒンデミットに代わって」と書いてあるでしょう。

後で調べてみたところ、ヒンデミットが亡くなったのはそのわずか1ヶ月後の1963年12月28日のこと。まさに歴史の転換期だったわけだ。
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1964年2月23日。クーベリック指揮で、ドヴォルザークの「新世界」、チェロ協奏曲、スメタナの「モルダウ」というオーソドックスながら垂涎もののチェコ音楽プログラム^^;)。

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1969年10月19日。カラヤン指揮で、シューベルトの「未完成」とドヴォルザークの交響曲第8番のプログラム。これは青少年向けのコンサートで、メヒティルトさんはよくこのシリーズを聴いていたという。黄金期のカラヤン&ベルリン・フィルを普通に聴けた当時のベルリンの人々がうらやましい^^;)。
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Herbert von Karajan (1908-1989)

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メヒティルト:これは1965年5月に、ロンドン交響楽団がショルティの指揮で客演した時のものですが、印象に残っている出来事が一つあるんです。今では全く珍しくないことだけれど、オケの団員が舞台に上がってから、コンサートマスターが拍手に迎えられて一人で登場するでしょう。こういう舞台作法を私が見たのは、このコンサートが初めてでした。「さすが英国人は違う」と思ったものです(笑)。

夫と左翼運動

音楽の話になるとキリがないので話を先に進めましょう(笑)。ご主人のルートヴィヒさんの話を聞かせていただけますか?

メヒティルト:私がルートヴィヒと結婚したのは71年の2月のことです。その直後に長男のマルティンが生まれました。ルートヴィヒは田舎の出身で大学を出ていましたが、コンサートやオペラ、演劇などとは、どちらかというと無縁の生活を送っていました。一度カラヤンのコンサートにも連れて行ったことがあるけれど、どうも彼はあまりピンとこなかったみたい。それでも私たちは演劇の年間通し券を買ったりして、少なくともたまには劇場に一緒に行くようにしていました。ちょうどアイルランドの劇作品がシラー劇場などでよく上演されていた頃です。

当時ルートヴィヒは政治的にかなり左寄りで、大学でもさかんに政治活動をしていました。一度毛沢東思想についてトクトクと語られたこともあるわ(苦笑)。彼がデモに行っている間、私は子供たちとお留守番。私の両親も、「彼は今日、どこで何をしているんだい?」と聞いては、彼の政治活動を好ましく思っていませんでした。私もそうだった。ルートヴィヒの政治仲間に会ったことがありますが、考え方が一面的で狂信的というか、とにかく馴染めませんでしたね。

70年代の後半になってから、Alternative Listeという後の「緑の党」の前身となる党がベルリンに結成され、ルートヴィヒもそこに入りましたが、こちらの方ははるかにユーモアがあって好感が持てました。その後、私はよく彼に冗談でこう言ったものです。「ルートヴィヒ、メーデーのデモに私も参加するから、その代わりクリスマスは私と一緒に教会に行ってちょうだい!」と(笑)。

すると?

メヒティルト:ルートヴィヒは教会にも来てくれたわ。この地区にはとてもいいゲマインデがあって、長年アルゼンチンで暮らした牧師さんがいました。私はこの教会でいろいろな活動をしたけれど、印象に残っているものとしては、70年代中期にチリから大量の避難民がベルリンに押し寄せて、スペイン語が堪能な牧師さんがいるこの教区へ住みつくという出来事があったんです。私たち家族も彼らとの交流に参加して、例えば古着を集めてチリに贈ったりというような活動をしました。

そのルートヴィヒだけど、ここ数年来何とワーグナーを聴くようになったのよ(笑)。バイロイトにも何度か行ったし、「ワーグナーは音楽やストーリーがわかった方が楽しめる」と言っては、大学の研究室でもよくCDをかけっぱなしにしているみたいです(注:ルートヴィヒさんは植物学者)。私自身は家で音楽を聴くことはめったにないのですが。

(つづく)

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(メヒティルトさんへのインタビューは次回がいよいよ最終回です。よかったらワンクリックをお願いします)
by berlinHbf | 2007-03-18 01:43 | ベルリンの人々 | Comments(6)

KaDeWeが100周年!

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3月1日、ベルリンの老舗デパートKaDeWe(カーデーヴェー)が、記念すべき創業100周年を祝いました。ベルリンに来てこのデパートで買い物をされた方は多いのではないでしょうか?現在も1日平均5万人の利用客のうち約半数は観光客といいますから、ベルリン観光代名詞のひとつと言えるかもしれません。

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簡単に100年の歴史を振り返ってみると、 KaDeWeとは「西のデパート(Kaufhaus des Westens)」の頭文字、当時新興のベルリン西地区に建てられたことからこのように名付けられました。創業者のアドルフ・ヤンドルフはアメリカのデパートをモデルにし、建物には最新鋭の設備を、そして商品には高級志向を求めたことによって、KaDeWeはまたたく間にベルリンを代表するデパートに成長します。

その後ナチスによる買収、大戦を経て、東西分断時代は陸の孤島だった西ベルリンの繁栄の象徴となりました。まさにベルリンの激動の歴史と共に歩んで来たデパートと言えそうです。中でも有名なのが6階の食料品売り場です。世界中の高級食材が揃い、見て回るだけでも楽しめます。
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さて私もこの日、KaDeWeに行って来ました。普段と違うのは、入り口でお客さんにシャンパンが振舞われたこと。ほろ酔い気分になって100周年のロゴがきらびやかな中に入ると、今度は巨大なトルテが目に飛び込んできました。高さ6.5メートル、1.3トンのこの巨大トルテは、35人の菓子職人によって約2カ月かけて作られたというから驚きです。こちらも訪れた人全員に振舞われるというサービスぶりで、ベルリンでは珍しい長蛇の列ができていました。私が来る直前には、ヴォーヴェライトベルリン市長によるケーキカットが行われ、市民と共に100周年を華やかに祝ったそうです。
(ドイツニュースダイジェスト 2007年3月16日)

せっかくなので、写真をもう何枚かご覧いただきましょう。
おいしそうな雰囲気が伝わるでしょうか^^)。
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by berlinHbf | 2007-03-16 01:42 | ベルリンのいま | Comments(14)

壁のあった時代(中) - メヒティルトさんに聞く(6) -

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メヒティルトさん所蔵の絵葉書より。左よりジョン・F・ケネディ米大統領、ブラント西ベルリン市長、アデナウアー西独首相(1963年6月26日)

(前回のつづき)

西ベルリン→西ドイツ、手紙、電話

メヒティルト:西ベルリンから西ドイツへ入る際の検問も、年代によって変わったんです。50年代は、トランクを開けて厳密にチェックさせられました。それが徐々に厳しくなくなっていって、70年代のいつだったか、東西間でトランジットに関する協定が結ばれて以来、西ベルリンの人が厳しくチェックされることはなくなりました。もちろん疑いを持たれた人は別だけど、それだけでも私たちは気分的にとても楽になりましたね。

東に手紙を送る場合はどうだったんですか?

メヒティルト:全てではないけれど、やはり手紙もチェックされていました。普通の手紙よりも4日はかかったんじゃないかしら。もちろん東ベルリンには電話することもできませんでした。すでに50年代からそうで、ようやく電話ができるようになったのは壁が壊れてから。本当におかしな話でしょう?先ほどの叔母とも、電話で話すことはできなくなりました。

東ベルリンの叔母、その後・・・

その後、東ベルリンの叔母さんに会う機会はあったんですか?

メヒティルト:壁ができてから2回ほど会いましたが、その後叔母は亡くなりました。65年に死去した時、私たちは葬儀に参列することもできませんでした。それから長い月日が経って1990年、私はある日ふと思ったんです。
「そういえば、叔母のお墓はどこにあるんだろう?」と。
 
私はビースドルフにある墓地の場所を突き止め、そこに向かいました。しかし、叔母が亡くなってから既に25年が経っていて、墓地はすっかり荒れ果て、叔母の墓石もしっかり固定されていないという状態だったんです。私は一旦家に戻ってから、その墓地の管理人に電話して「墓石を持って帰ってもいいですか?」と聞いてみました。そしたら、「どうぞどうぞ!他の方もそうしてくれたらいいのですが」と言われたので、私は再度車でビースドルフに行って、叔母の重い墓石をひとりで持って帰ろうとしたんです。ビースドルフからシャルロッテンブルクのこの家がある場所までは、アレックスで一度方向を帰るのを除けばほぼ一直線の道のりです。帰りの車の中でふと思ったわ。「私はおかしいんじゃないかしら。こんなものを持ち帰って、一体どうしようというの」と(笑)。今、その墓石はアパートの裏庭に置いてあります。数年前うちの猫が死んだ時は、一緒にそこに埋めました。

壁に囲まれた街

メヒティルト:前にもお話したけれど、日曜日になると、私はよく両親に連れられてグルーネヴァルトやシュパンダウの森を散歩しました。両親はよく言っていた。「(壁を越えて)このもっと先に行けたら、どんなにいいだろう・・・」と。でも私は特にそう思わなかった。この先がどうなっているかよく知らなかったし、それが普通だと思っていたから。

西ベルリンは周りが壁に囲まれていたわけですが、生活に息苦しさのようなものはありましたか?

メヒティルト:いえ、特になかったわね。この地域はイギリス領だったから、家の裏手の大通りを戦車が通ったりして、それはあまり気分のいいものではなかったし、グルーネヴァルトの森では軍の演習が行われていたりもしたけれど、それ以外は全く普通の生活でした。

1960年代の西ベルリン

60年代でとりわけ印象的に残っている政治的な出来事を、いくつか挙げていただけませんか?

メヒティルト:それはなんといってもジョン・F・ケネディがベルリンに来た時のことね。1963年の6月だったかしら。その日は学校がお休みになったのよ。

ケネディが来るというだけで!?

メヒティルト:そう。とにかく、街のあらゆる人が外に出ているという感じでした。今でも当時の様子を写真で見られるけど、いったいどれだけの人が通りに立っていたか、全く想像もできないほどだった。

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(Photo: JFK Library & Museum)

有名な演説を残したシェーネベルク市庁舎前の様子は見たことがありますが。

メヒティルト:とにかく彼が行く先々がそんな感じでした。

その時メヒティルトさんはどこにいらっしゃったんですか?

メヒティルト:コングレス・ハレ(現「世界文化の家」)の前で学校の友達何人かとケネディが通り過ぎるのを待っていたわ。するとケネディ、ブラント、アデナウアーの3人を乗せたオープンカーが通り過ぎ、その様子を見ることができました。とてもうれしかった!

へぇー!

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メヒティルト:その数年後、今度はイギリスのエリザベス女王が初めて西ベルリンを訪れました。65年だったかしら。その時も街に繰り出しました。あとロバート・ケネディがベルリンを訪問した時も、見に行きましたね。もちろん、ジョン・F・ケネディの時ほどの騒ぎではなかったけれど。

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メヒティルト:それから私が特に感激したのは、プロテスタント教会主催のイベントにアメリカのキング牧師が参加して、ヴァルトビューネで口演した時のことね。64年頃だったかしら。私はとにかくキング牧師の話にとても感動して、その後彼の著作を買って読んだりもしました。

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メヒティルト:他にはそうね、モーリス・ベジャールと彼のバレエのカンパニーがベルリンで公演を行い、両親と一緒に観に行ったことがあります。ドイツ・ハレという6千人ぐらい収容できる大ホールでベートーヴェンの第9の生演奏に合わせて踊ったんですが、それはすばらしかったわ。


私が関心を示したのに気付いたのか、メヒティルトさんは部屋の奥から古い箱を持って来てくれた。そこには、60年代に彼女が体験したコンサートやオペラのプログラムやパンフレットなどがぎっしりつまっていた。

(つづく)

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by berlinHbf | 2007-03-14 16:32 | ベルリンの人々 | Comments(15)

壁のあった時代(上) - メヒティルトさんに聞く(5) -

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かつて東西の検問所があったオーバーバウム橋にて(3月12日)

いよいよ今回から、ベルリンが壁によって分断されていた時代のお話になります。あの時代のベルリンに少しでも興味のある方は必読です。

壁の建設と東ベルリンの叔母

メヒティルトさんが初めてバイロイトに行かれたのが1962年の夏。そのちょうど1年前の8月に壁の建設が始まったわけですが、当時のことは覚えていらっしゃいますか?

メヒティルト:壁ができた時、私は休暇で母と(南ドイツの)シュヴァルツヴァルト地方にいました。その時、母が頻繁にベルリンにいる父と電話で話していたのを覚えています。でもベルリンで一体何が起こっていたのか、私はよくわかりませんでした。とはいえ、西ドイツから西ベルリンに戻ることは問題ありませんでしたし、その途中で検問を受けることにも私はもう慣れていました。悲しかったのは、東ベルリンのビースドルフに住んでいた、当時すでに高齢の叔母に突然会えなくなってしまったことです。

叔母さんに会う機会はその後全くなかったのですか?

メヒティルト:いえ、63年か64年のクリスマスに1日だけ特例が出て、叔母に会うことができました。それから64年の聖霊降臨祭の日にももう一度ね。その時叔母は、パジャマを私に贈ってくれました。西ベルリンに戻る際、オーバーバウム橋(写真↓)の検問所でちょっとした関門がありました。当時、衣料などの繊維製品を西側に持ち出すことは認められていなかったんです。でも、私は両親と一緒だったこともあり、検問官と交渉してその大事なパジャマは持ち帰ることができました。

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今話したのは西ベルリンから東ベルリンへの移動に関することで、東ドイツの他の街に旅行することは許されていませんでした。それが可能になるのは70年代に入ってからです。その手続きがまた面倒で・・・

どういう手続きだったかというと、西ベルリンの何箇所かにオフィスがあって、東ベルリンからやって来た役人がそこに座っているんです。全員とてもセンスの悪いブルーの制服を着てね。そこで申込用紙に記入して、身分証明書を提示した後、3日後にビザを受け取ることになっていました。だから、「よし、今晩(東の)シュターツ・オーパーに行こう」ということはできなかったわけです。西ベルリン市民は、西ドイツ市民とは常に別に扱われていました。西ドイツの人々は、パスポートを持っていれば東ベルリンに入ることができたんです。西ベルリン市民、西ドイツ市民、外国人とでは、入り口の場所もそれぞれ違いました。あと、西ベルリンから東ベルリンに車で入るか徒歩で入るか、さらに車で入る場合同乗者に西ドイツの人がいるかいないかでも入国の仕方が異なっていたのよ。

2つの検問所

というと?

メヒティルト:例えば、西ベルリン市民の私が車で東に行く場合、大抵はインヴァリーデン・シュトラーセの検問所を利用していました。別に他の検問所からでもよかった。でも、その車の中に西ドイツの人、例えば私の義理の姉妹ルートを乗せて東ベルリンに入る場合は、ボルンホルマー・シュトラーセの検問所(写真↓)からしか入国できなかったんです。なぜなら、西ベルリン市民と西ドイツ市民は、それぞれ違うパスポートを持っているという事情があったから。とにかくいろいろややこしくて、そして理に適っていなかったわ。

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私は最近こういう話を本で読んで、思わず笑わずにはいられませんでした。その昔、モーゼス・メンデルスゾーン(作曲家メンデルスゾーンの祖父)が、14歳で南ドイツのデッサウからベルリンに徒歩でやって来た時のこと。彼は南のハレ門から市内に入ろうとしました。すると、門の役人に「ここはダメだ。ユダヤ人はローゼンタール門からしか入れない」と言われたため、市壁に沿ってぐるっと回って、その門から市内に入ったというんです。この話を聞いて、私はインヴァリーデン・シュトラーセとボルンホルマー・シュトラーセの2つの検問所のことを思い出しました。その話は18世紀の中頃の出来事だけど、ベルリンでは壁をめぐってすでにこういう現実があったということね。

東ベルリンに行く際は、毎回必ず25マルクを東のマルクに両替しなければならなかった。それは「高い遊び」だったわ。東ベルリンに住む知人や友人を訪ねる際、私は毎回彼らにお土産を持って行くのだけど、その他に「入場料」として25マルクも払わなければならなかったんですから。それに東ベルリンは物価が安かったから25マルクを1日で使い切るのは大変でした。かといって、東のマルクは西に持ち出すことは禁じられていて、見つかると大変な怒りを買うことになります。万が一東マルクを西に持ち出したとして、それを再び東に持ち込むことも禁止されていました。

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でも、余ったお金はDDR銀行と呼ばれる口座に預けて、オペラのチケットなどでお金が余分に必要な時はそこから引き出すことができました。長男のマルティンは東ベルリンによく楽譜を買いに行っていたし(紙質はよくなかったですが)、私もシュターツ・オーパーで何回もワーグナーを観ました。平土間の席が5ユーロとか10ユーロで買えたのよ。そちらの方は、毎回すばらしかったわね。

オペラが終わると、フリードリヒ・シュトラーセの「涙の宮殿」を通って再び西に戻られたんですか?

メヒティルト:そう。まさに「涙の宮殿」よ。でも「涙の宮殿」というのは俗称で、公式には"Ausreise(出国所)"といっただけではないかしら。オペラの帰りはいつも長い行列ができていて、税関と警察の2回のコントロールを受けることになっていました。

マルティンは友達とたまに東ベルリンに行っていましたが、一度アレクサンダー広場のデパート「ツェントルム」でDDRの国旗を買って来て私を驚かせたことがあります。

え、何のために?

メヒティルト:ただの冗談でよ(笑)。
その後、壁が崩壊してから90年の夏まで、西マルクと東マルクが併用されていて、私は友達とオペラを観に頻繁に東へ行きました。通貨の手続きはもちろんずっと楽になりました。

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(つづく)

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by berlinHbf | 2007-03-13 00:33 | ベルリンの人々 | Comments(17)

「善き人のためのソナタ」(2006)

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カール・マルクス大通りにあるカール・マルクス書店(2005年9月)

今週は風邪を引いてしまい、ここ数日間は比較的に安静にしていました。ちょっと暖かくなったからと自転車で街に繰り出してしまったのがいけなかったのかもしれません^^;)。この日曜日は久々に抜けるような青空が広がり、外に出て歩きたい気分だったんですが、やはりそれは控えることにして、代わりにある映画を見てきました。ベルリンについてあれこれ書いていながらこの映画を今初めて見るというのは、ちょっと気恥ずかしい気分だったんですが、アカデミー賞の受賞後ベルリンのいくつかの映画館で再上映されていることもあって、ようやく見てきたというわけです。そう、日本でも現在公開中の「善き人のためのソナタ」(原題:Das Leben der Anderen)です。

この映画については日本語でいくらでも情報が手に入るので、ここではあえてストーリーは書きません(公式サイトはこちら)。壁崩壊5年前の東ベルリンが舞台の物語です。

とてもいい映画でした。少なくとも、同じ東ベルリンを描いた「グッバイ・レーニン」よりはるかにいい映画だと思います。多くの人が絶賛するあのラストシーンでは、やはり涙が止まりませんでした。せっかくの機会ですから、日本の多くの方に見ていただきたいです。
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そして、この映画を見て思ったこと。
私はベルリンのことをいろいろ書いているわけですが、本質的にはベルリンという街に生きた「人間」に強い興味があるのだということを改めて実感しました。歴史の波にもまれたベルリンで、時にものすごい政治的・身体的圧力を受けながら(それが悲劇的な結末になることもありましたが)、人間性という灯火を失わなかった人々もいた。私はそこに救いを感じます。

さて、冒頭の写真ですが、この映画をご覧になった方ならどのシーンに登場する場所なのか、すぐにわかることでしょう。家に帰って、一目散にカール・マルクス・アレーの写真を探したら1枚だけ出てきたので載せてみました。このくらいなら「ネタバレ」ではないですよね(笑)?

メヒティルト・トレペルさんのインタビューは、次回からいよいよ東西分断時代のベルリンの話になります。メヒティルトさんの視点はあくまで西ベルリン側からではありますが、あの時代のベルリンを生きた人ならではの話をたくさん聞けたと思っています。またお読みいただけるとうれしいです。

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by berlinHbf | 2007-03-12 01:21 | ベルリンを「観る」 | Comments(32)

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