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ベルリン-東と西が出会う場所。ドイツにありながらドイツではない町。歴史の影に彩られた栄光と悲運の世界都市。そんなベルリンの奥深い魅力をリアルタイムでお届けするブログです。Since 1. August 2005


by berlinHbf


中村真人 (Masato)
神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。ベルリンの映像制作会社勤務を経て、現在はフリーのライター、ジャーナリスト。


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カテゴリ:ドイツから見た日本

  • 日独の大空襲の記憶を伝える
    [ 2012-03-30 16:13 ]
  • 2011年夏、関西への旅
    [ 2011-12-29 22:11 ]
  • ドイツの演劇人から東北の演劇人へ
    [ 2011-12-15 18:58 ]
  • チクチク応援団のチャリティーバザーのご案内 (9/11)
    [ 2011-09-07 23:19 ]
  • 清水陽一さんインタビュー - 北斎展への夢 -
    [ 2011-08-19 17:05 ]
  • 「ひとりの犠牲者、沈黙を破る」-ヒロシマ原爆の日に-(Tagesspiegel紙より)
    [ 2011-08-06 13:40 ]
  • 夏祭りの思い出&ベルリンに戻りました
    [ 2011-07-23 23:57 ]
  • 講演会が終わりました
    [ 2011-07-12 14:21 ]
  • 梅雨の日本に一時帰国中
    [ 2011-06-24 17:04 ]
  • 外林秀人氏インタビュー(ターゲスシュピーゲル紙日曜版より翻訳)
    [ 2011-06-15 03:00 ]

日独の大空襲の記憶を伝える

第2次世界大戦中、多くのユダヤ人が強制輸送されたベルリン・グルーネヴァルト駅17番線ホームで犠牲者に思いを寄せる二瓶治代さん

2月半ば、第2次世界大戦末期の東京大空襲など日本の空襲体験者がドレスデン、ベルリン、ハンブルクの3都市を訪れ、現地で空襲を体験した人々と交流しました。

今回ドイツを訪問したのは、1945年3月10日の東京大空襲を体験した二瓶治代さん(75)と、同年7月の鹿児島の空襲で左足を失った安野輝子さん(72) のほか、東京や大阪の空襲の遺族や研究者、弁護士ら約20人。ドレスデンでは 同年2月13日のドレスデン大空襲から67年目の追悼行事に参加し、二瓶さんは自らの戦争体験をドイツの聴衆の前で語りました。また、ドレスデン市民と一緒に「人間の鎖」にも加わったそうです。

ベルリンのマリア・レギーナ教会での交流会の様子 © Wa-PeaceRing

発起人の1人である市民グループ 「和・ピースリング」の山本唯人さんは、 今回の訪独の背景をこう語ります。「東京や大阪だけでなく、ドレスデン、ゲルニカ、重慶といったほかの空襲被災都市でも、これまでその現実はあまり知られていませんでした。冷戦期の政治事情の下では、個々の被災者の体験にまで光が当たらなかったのです。昨年2月にドレスデンで行われた日独の戦争体験者を記録した写真展がきっかけで、戦争体験から被害補償の問題まで、ともに語り合いたいという声が上がりました」

東京大空襲を体験した二瓶さんにお話を伺いました。江東区の亀戸駅近くに家族と住んでいた二瓶さんは当時8歳でしたが、その夜の出来事を克明に記憶されています。火の筒のような焼夷弾が絶え間なく落ちる真っ赤な空、人が燃えているのを目の当たりにしたこと、熱風に飛ばされ、親とはぐれたときの恐怖心、何人もの焼死体の下敷きになったために助かったこと……。

「数時間前まで生きていた人たちが、ごみくずのように至るところに転がっていました。どこの国がやっても、どんな武器を使っても、戦争は残酷なものです」。二瓶さんは江東区の東京大空襲・被災資料センターで、今も定期的に自らの体験を若い世代の人々に語っています。

「ここを訪れる小学生から、たまに『どうしたら戦争はなくなるの? こういう (被災資料センターのような)建物があればなくなるのかな?』と聞かれます。 私はそんなとき、こう答えます。『建物を造っただけでは戦争はなくならないの。こういう展示を見たり、人から話を聞いたりして、戦争が本当に嫌だと思ったらそれをほかの人に伝える。そういう人たちがいっぱい増えて、手をつなぎ、戦争を止めようという声が世界中に広まれば、そして戦争をやりたいと思っている人ができない状況を作れば、戦争はきっとなくなると思うよ』。実際に、少しずつですが(戦争を)食い止めることはできてきていますよね」

戦争の記憶が色濃く残るベルリンは、 二瓶さんの目にどう映ったのでしょう。

「激しい地上戦が行われた街を歩いて も、ユダヤ人の慰霊碑を見ても、私がまず感じたのは『子どもたちはどんなに恐い思いをしただろうか……』。本当に胸が詰まりました」

自らの体験を重ね合わせるように切々と語る二瓶さんの姿を、忘れることができません。
ドイツニュースダイジェスト 3月23日)

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by berlinHbf | 2012-03-30 16:13 | ドイツから見た日本 | Trackback | Comments(6)

2011年夏、関西への旅

今年のことをあれこれ振り返りたいなと思いつつ、あっという間にこんな時期になってしまいました。まずは、この夏の思い出として、6〜7月に一時帰国した際関西を旅した時のことを書いてみたくなりました。7月のある日、東海道新幹線でまず向かったのは京都。

11年ぶりの京都でした。一緒に行った母が四条にある杉本家の町家が公開されているというので見に行くことに。江戸時代に造られた邸宅が興味深いのはもちろん、そこに行くまでの京都の路地を歩く感覚が心地よかったです。

ちょうど祇園祭の期間で、祭りの気分を少し味わえました。次はいつ来られるかはわからないけれど、一度住む感覚で滞在してみたい街ですね。

手作りのちらしを配っていた地元の小学生。

鴨川の周りを少し散歩して、夕方京阪電車に乗って枚方へ。母の学生時代の旅仲間のお宅に泊めていただきました。

翌日は午前中、昨年度徳島大学でのベルリンをテーマにした授業でご一緒した弘田陽介先生にお会いし、中之島近辺の面白い建築を案内していただきました。大阪市中央公会堂(写真)や、特に見応えのあったネオ・バロック様式の中之島図書館など。洋館ではないですが、日本最古の幼稚園という愛珠幼稚園など、大阪の中心部(まさにミッテ)に意外に古い建築が多く残っていて新鮮な散策でした。

明治の大阪から今度は70年代の東ドイツへ??次にお邪魔したのは、尼崎でDDR PLANET 東ドイツ空間プラネットという、東ドイツの住空間をイメージしたギャラリーを開いている友人のイスクラさん。ここに飾られている雑貨類は、彼女が旧東独の街の蚤の市で集めて回ったもの(買うこともできるそうです)。大阪の住宅街の中の一室が見事にDDR調のノスタルジックな雰囲気に包まれていて、アイスコーヒーをいただきながらのオスト(東)談義は楽しいものでした。

基本的に週末しか開いていないそうですが、機会があったらぜひ訪ねてみてください。

その後、駆け足で兵庫芸術文化センターへ。佐渡裕さん指揮のオペレッタ「こうもり」の初日を聴きました。兵庫の芸文を訪れるのは初めてでしたが、とことん聴き手を楽しませる舞台。オペレッタ、落語、宝塚(?)の要素が混在し、オペラのこういう見せ方があるのかと笑いながらも感心することしきでした。終演後は佐渡さんにもご挨拶でき、関西まで行った甲斐がありました。

帰り際、新大阪駅で国鉄時代からの特急型電車が停まっていて思わず写真を撮ってしまいました。列車名が「こうのとり」というのも◎ とはいえ、来年3月にはブルートレインの「日本海」も廃止になるそうで、時代の流れを感じると共に、汽車旅の楽しさを味わわせてくれる長距離列車が消えていくことを寂しく思います。

今年の日本滞在で悲しかったのが、このブログでも何度かご紹介した実家のネコのモモちゃんが病気で死んでしまったこと。この写真を撮った頃はまだ動けていたのですが、日に日にやせ衰え、私が日本を発った数日後にあの世に旅立ったそうです。毛並みのきれいな、上品なネコちゃんでした。

もう2匹のミントくんとルナちゃんは元気に仲良くやっているそうです。そんなに一生懸命何を見ているの?

来年は少しでも穏やかで平和な1年になることを祈念して!

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by berlinHbf | 2011-12-29 22:11 | ドイツから見た日本 | Trackback | Comments(9)

ドイツの演劇人から東北の演劇人へ

被災地を巡る「夢トラック劇場」の上演から © ARC>T
 
 東日本大震災が世界を揺るがした2011年も終わろうとしています。ベルリンでも多数のチャリティー活動が行われましたが、今回はおそらくまだあまり知られていない、ドイツの演劇人・文化人の支援活動をご紹介したいと思います。
 少しずつ復興が進む被災地にあっても、どうしても手が届きにくいのが文化関連施設。そんな中、草の根的な運動を応援しようと、クロイツベルクにあるドイツ国際演劇協会(ITI Germany)が、この春いち早く東北演劇支援イニシアチブを結成。ドイツ中の劇場に呼び掛けました。自ら東北の被災地支援や世界の反原発に関する催しを行うほか、これまでに約4万ユーロを日本赤十字社に、またベルリン森鷗外記念館副館長のベアーテ・ヴォンデさんらが仲介役となって、約1万2000ユーロを仙台のARC>Tに送ったそうです。ARC>Tは、東北で活動する芸術家のプラットフォームとして震災後に立ち上がったグループ。「トラックの荷台を舞台にした夢トラック移動劇など、使える施設もままならなかった震災直後から、芸術家、文化人として今できることを精一杯続けています」(ヴォンデさん)。青少年向けのワークショップや老人ホームでのレクリエーション、知的障害者を対象とした工房でのダンス、美術活動を主催するほか、演劇人が多く在籍していることから、演劇公演の支援も彼らの強み。そんな彼らですが、7月以降、給料が出ていないそうです。それでも、同事務局長の鈴木拓さんはこう語ります。
 「東北の文化を途切れさせてはいけません。自分たちが今報われなくても、いつかまたいろいろな公演が戻って来た時に、彼らが活動しやすいようにするのが自分たちの務めですから」。

 一方、ベルリン民族学博物館は「Eine Brücke nach Japan 日本に架ける橋」というイベントを6~10月という長期間にわたって行い、写真展、講演会、ワークショップ、オークションなどで集めた約2000ユーロがARC>Tへ送られたそうです。
 「ドイツの人々が日本の状況を心配し、心から応援してくれているのが本当にありがたかったです。一方で、夏以降はチャリティーを企画の表に出しにくくなってきたのも事実。今後は、チャリティーとは少し違う形で被災地の人々を支援できないかと考えているところです」(民族学博物館でチャリティー公演を企画した長尾果林さん)。
 活動の内容は異なるものの、ヴォンデさんも長尾さんも、想いは共通しています。
 「ドイツの名立たる演劇・文化団体が日本の演劇と文化を応援しています。大変な時期だと思いますが、逆に言えば文化の新しい基盤を築ける可能性も秘めているはず。東北の文化復興のために頑張る人たちへの支援を、日本の方々にもぜひお願いしたいです」。
 被災地の今が伝わってくるARC>TのHPとブログはこちらより。http://arct.jp
ドイツニュースダイジェスト 12月16日)

ドイツの著名な演劇雑誌「Theater der Zeit」の10月号が東日本大震災以降の日本の演劇を特集。ここでもARC>Tの活動が紹介されています。

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by berlinHbf | 2011-12-15 18:58 | ドイツから見た日本 | Trackback | Comments(0)

チクチク応援団のチャリティーバザーのご案内 (9/11)

ベルリンの友達の小林麻衣子さんから、チャリティーバザーの案内が届いたので、ここでご紹介させていただきたいと思います。

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私たちは、夫の仕事で駐在していたさいたま市で震災に遭いました。

小さな子供がいることから、地震の4日後に関空からソウル、フランクフルトと飛行機を乗り継ぎ、夫の実家のあるベルリンに避難してきました。

ベルリンでは多くのクリエイティブなチャリティーイベントが行われていましたが、夏を過ぎるとその数もだいぶ減ってきました。ドイツでの日本に関する報道も減りました。

自分が出来るチャリティー活動はなんだろう?と考えたときに思い浮かんだのは、好きな手芸を活かしたものでした。べるりんねっと798さんでチャリティーワークショップを始め、3回行いました(今月中に4回目を予定しています)。

髪飾りやポーチの作り方を教えて、1人につき5ユーロの募金をして頂きました。

そこに集まったメンバーには、もっと被災地を応援したいと考えている人が多く、作ったものを蚤の市で売ってみようという計画が立ち上がりました。


震災から半年後となる9月11日(日)、地元の人や観光客の多く集まるマウアーパークの蚤の市で、手作りのものを販売します。

販売予定のものは、化粧ポーチ、かぎ編みで作ったお花のヘアゴム、リバティ生地で作ったヘアゴム、子供用の帽子、子供用のTシャツ、携帯バッグ、ラヴェンダーサシェ、コースター、クッションカバー、針刺しなどです。

販売収益はすべて、材料費や経費を差し引くことなく、JOICFPに寄付します。JOICFPは日本のNGOで、震災後、被災地の女性・妊産婦を支援するための活動をしています。
http://www.joicfp.or.jp/jp/tohoku_earth_quake/

この企画に賛同し、浴衣や着物の生地を提供してくれた方もおり、それらも販売する予定です。

また、今の日本の一般市民の声を聞いて頂きたく、北海道から沖縄、仙台や福島に住む友人・知人にひとことずつ今の思いを寄せて頂き、その独・英語版のフライヤーを作り配布します。

針と糸を使って活動しているため、チームの名前を
Nadel und Garn für Japan チクチク応援団!
と名付けました。現在のメンバーは5人ですが、今後も蚤の市などに出店して活動を続けていきたいと考えており、メンバーも引き続き募集中です。

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というわけで、お時間のある方は、今度の日曜日にマウアーパーク(壁公園)にぜひ足をお運びください。写真は、マウアーパークで販売予定の一部のものだそうです^^。

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by berlinHbf | 2011-09-07 23:19 | ドイツから見た日本 | Trackback | Comments(0)

清水陽一さんインタビュー - 北斎展への夢 -


8月26日から10月24日まで、日独交流150周年の1つのハイライトとも言うべき、北斎展(Hokusai - Retrospektive)がベルリンのマルティン・グロピウス・バウで開催される。計441作品という、海外では過去最大規模となる北斎展を約30年前から夢見て、実現に漕ぎ着けた人物がいる。ベルリン日独センターの清水陽一副事務総長その人だ。清水さんに、今回の展覧会に至るまでの経緯、そしてその見どころをたっぷり伺った。
ドイツニュースダイジェスト・独日なひと 8月19日) 

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清水 陽一 Yoichi Shimizu
ベルリン日独センター副事務総長

1943年北京生まれ。国際基督教大学(政治学)、マールブルク大学(ドイツ史)で学んだ後、1964年外務省入省。ケルン日本文化会館館長、在ミュンヘン日本国総領事などを経て2009年より現職。
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長年、日本とヨーロッパの文化交流に携わってこられた清水さんにとっても、今回の北斎展は特別思い入れが深い展覧会だそうですね。

私は、30代半ばで葛飾北斎の作品に魅せられて以来、北斎が日本のみならず世界で最も優れた画家の1人であると信じてきました。彼が生きた18世紀後半から19世紀前半にかけて、ヨーロッパのほかの画家と比較した場合、匹敵する人がいません。かろうじてゴヤが挙げられるかなというぐらい。それほどのインパクトと天才性を持っていて、70年に及ぶ画業であらゆる作風の作品を残している。

その北斎が、ドイツでは「富士山の北斎」、「漫画の北斎」としか受け止められていません。もちろん、すごい画家だと感じている人は多いと思いますが、例えば「富士山の北斎」というのは、彼が70歳を過ぎてからたった1年半ぐらいで描いた仕事です。私は、20代から90歳までの北斎の全貌をドイツ人にぜひ紹介したいと長年思っていました。

ただ、ドイツは連邦制ですから、イギリス(ロンドン)やフランス(パリ)のように大きな展覧会場がなく、潤沢な予算を持っている州も少ないんです。私の職場がケルン、日本、ミュンへンと移り変わる中、結局実現できないまま年金生活に入ったのですが、2008年秋に国際交流基金の本部からもう一度ベルリンに行ってほしいと依頼が入りました。正直、最初は乗り気ではなかったのですが、しばらく考えて、2011年が日独交流150周年だということ、そして30年来の友人であるマルティン・グロピウス・バウのジーバニッヒ館長の存在が頭に浮かび、「彼ならやってくれるかもしれない」と思いました。「よし、ベルリンで北斎展をやろう!」と決意したものの、その段階ではまだ夢ですよね。ベルリンに行くと返事をした後、日本の北斎研究の第一人者である永田生慈さんにお会いし、お力を貸していただけないかと相談しました。「私はオーガナイズと予算面の面倒を見るから、内容は永田さんに全部お任せしたい」と伝え、ご快諾いただいた次第です。2009年4月に私がベルリンに来てからは、予算の問題をクリアするのに時間が掛かりましたが、昨年6月に国際交流基金とマルティン・グロピウス・バウの関係者が集まって、開催が正式に決まりました。ただ、準備期間が1年しかなかったので、そこからがまた大変でした。これだけの規模の展覧会となると、通常は準備に4、5年掛かりますから。

まさに、清水さんの長年の思いが結実した展覧会なのですね。今回の北斎展の内容の特色は何でしょうか?

ジーバニッヒ館長と永田さんと話し合って決めたのは、すでによく知られ、それゆえ幾分手垢のついたヨーロッパのコレクションではなく、原則として日本から状態の良いものを持ってくるということです。今回出展する441点のうち、429点は日本から持って来ます。残り12点について申しますと、まず10点はベルリンのアジア美術館のコレクションです。昨年、永田さんと同美術館を訪れたところ、『北斎漫画』の初編から10編までの初版本に出会いました。何と美術館側は、それが初版本だということに気付いていなかったんです。日本でも珍しい初版本が、ベルリンにきれいそっくり残っていたという驚き。これをお借りすることができました。それから、北斎83歳の時の自画像。これはオランダ・ライデンの美術館が所蔵するもので、世界に1つしかありません。自画像というのは、ヨーロッパの人が非常に関心を持つジャンルですよね。あとは、ヨーロッパに初めて北斎を紹介したと言われるシーボルトの著書『日本』。これはボン大学からお借りします。これら12点はヨーロッパのコレクションで、残りはすべて日本からです。

清水さんからご覧になって、特に思い入れのある絵、じっくり観てほしいという作品は?

1つは、先ほど触れた83歳の自画像ですね。北斎は、「70歳までの自分の絵は取るに足りない。私は100歳まで生きて絵画の奥義を極める」と尋常ではない意気込みを持っていた人。そういう人が83歳の時にどんな顔をしていたのか、見ていただきたいです。それと並行して、北斎がやはり80歳ぐらいの時に書いた手紙が残っているのですが、そこからは彼のユーモアな人柄が偲ばれます。

富嶽三十六景 信州諏訪湖 墨田区蔵

それからやはり『富嶽三十六景』。36作品全部ではありませんが28点、私がこれはと思う絵は全部出していただいています。私が好きなのは、松の山の形が美しい「青山円座松」、礫川の雪の情景を描いた「礫川雪の旦」、桶で有名な「尾州不二見原」だとか、木が真ん中にある構図が面白い「甲州三島越」、「遠江山中」などですね。有名な「神奈川沖浪裏」など、北斎生誕の地である墨田区からお貸しいただく約50点の作品も、今回の目玉といえる素晴らしいものです。

また、これはあまり知られていませんが、滝沢馬琴の小説『鎮西八郎為朝外伝 椿説弓張月』で、北斎が挿絵を描いています。お岩さんなど、お化けの絵もあります。ほかにも、蘭学をもとに描いた骸骨の絵。カラフルな武者絵。水の表情を描いた『諸国滝廻り』。北斎自身はそれほどたくさん描いていませんが、美人画。それから、掛け軸など貴重な一点ものも。長さが7メートル近くの大きな『山水図巻』という肉筆画もあり、それに合わせて特別に展示ケースを作ってもらいました。

展示の仕方にも工夫を凝らしているそうですね。

ええ、『北斎漫画』を電子書籍のように読める「北斎漫画の部屋」を設けましたし、オーディオガイド(英語とドイツ語)にも面白い小話が盛り込まれているので、作品の理解を深めるのにご活用いただきたいです。

ほかにも、アダチ版画研究所の摺師の方がいらして「神奈川沖浪裏」の実演が行われたり(8月27、28日、9月3、4日)、永田生慈さんの講演会(8月26日)や子ども向けのプログラムなど、関連行事も充実しています。10月14、15日には、北斎とその時代に関するシンポジウムが日独センターで行われます。

本当に盛りだくさんですね。あとはオープニングを待つばかりとなりましたが、最後に読者の皆さんにメッセージをお願いします。

昨年、マルティン・グロピウス・バウで入場者数が一番多かったのがフリーダ・カーロ展(3カ月で約20万人)でしたが、今回の北斎展にジーバニッヒ館長は10万人、私は20万人入ると賭けをしているんです(笑)。私はそれだけの魅力が詰まった展覧会だと思っています。

ドイツにおける従来の北斎のイメージを打破して、18世紀後半から19世紀前半にこれだけすごい作家がいたこと、同時にその北斎を生んだ江戸という時代の面白さも存分にお見せしたいと思います。ドイツの方はもちろん、日本の皆さんにもたくさん来ていただいて、北斎を、そして日本を再発見していただきたいですね。


日独交流150周年記念 北斎展  Hokusai - Retrospektive
会期:2011年8月26日(金)〜 10月24日(月)
会場:Martin-Gropius-Bau
住所:Niederkirchnerstr.7, 10963 Berlin
開館時間:10:00〜20:00 ※火曜休館
入場料: 9ユーロ(割引6ユーロ)、
    団体(10人以上)6ユーロ、
    16歳以下無料
www.gropiusbau.de

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by berlinHbf | 2011-08-19 17:05 | ドイツから見た日本 | Trackback | Comments(3)

「ひとりの犠牲者、沈黙を破る」-ヒロシマ原爆の日に-(Tagesspiegel紙より)

外林秀人さん(2010年8月)

ヒロシマ原爆の日に、昨年翻訳したドイツの新聞記事をアップしたいと思います。これまで何度かご紹介してきたベルリン在住の科学者にしてヒロシマの被爆者、外林秀人さん。原爆投下から65年経った昨年8月、ターゲスシュピーゲル紙が紙面1面を使って外林さんを取り上げた記事の翻訳です。外林先生より直接依頼をいただき、通訳者の友人宇野将史さんに手伝ってもらいながら訳しました。1つのテーマを扱い、これほど重厚かつ長大な記事は日本の新聞ではそうそう読めないでしょう。難解な箇所も結構ありましたが、ドイツの新聞文化の厚みを感じながら訳しました。フクシマの原発事故が起こる半年前に書かれた記事ということも考慮して、ぜひ皆さんに読んでいただきたいと思います。


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ひとりの犠牲者、沈黙を破る
カーティア・ライマン

家族は彼に頼んだ。「黙っててくれよ、でないと一家の恥だ!」。それから60年もの間、彼は口をつぐんだ。しかし世界が何も学んでいないということに気付いた今、外林秀人はヒロシマの原爆投下について、口を開いた。


気温が30度、35度を超え、太陽が照っていると、平静を保てなくなる。外林にとって夏が問題なのではない。しかし暑さが記憶を呼び覚ますのだ。しのびよる熱気が肌に感じられると、汗ばみほてってくる。うすくて細いグレーの髪が生えた頭のてっぺんまで熱くなる。80歳になる体に暑さがじわりじわりと迫ってくる。暑さのせいで、彼がこれまでに整理してきたトラウマを克服しようとする考えは、かき乱されてしまうのだ。

外林は猛暑のその日、エアコンが効いている場所に座ることを望んだ。65年前に体験した8月6日のことを話すとき、彼は自分の記憶を冷静にコントロールしなければならない。彼はその時のことを、しっかり話せるように、きちんと並べてメモしていた。自分に起こったことを話す際、彼は自分の殻の中からあたかも抜け出さなければならないかのようだ。彼の中で何かがほころび、それを外に出そうと思うまで60年もの間、なぜ沈黙を保っていたのだろうか。

「あれから約150回の講演をしてきました」と外林は言った。講演の中で、彼はある日本のドキュメンタリー映画の一部分を見せた。そして、自分の日記を落ち着いた声で、ドイツ語で読み上げた。ベルリンに住んでほぼ50年になるが、決して流暢なドイツ語ではない。

ヒロシマの原爆投下を彼はどう生き延びたのか。


「1945年8月は暑い日々でした」と彼はクーラーの効いた涼しい中で話し始めた。第二次世界大戦がアジアにおいても終わりを迎えることになる夏。ドイツ降伏の後、日本もやがて降参するものだろうと思われていた。しかし結局は、アメリカの原子爆弾が日本を降伏へと追い込んだのだった。広島はそれまでアメリカの空爆による甚大な破壊を被ることのない、数少ない日本の都市のひとつだった。勤労奉仕の一環で、空襲の際、火の回りを遅らせるために、建物を壊して道路を拡張する作業が日中に行われていた。この都市は大部分が木造建築だったのである。

8月6日の早朝、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。が、その1時間後には解除された。そのため、当時エリート学校の生徒だった16歳の外林秀人は、8月6日も普段と同じように学校へ通った。教室は2階にあった。8時15分、化学の教師がベンゾールの分子の図を黒板に描いたその瞬間、閃光が上がった。「巨大な電球にスイッチが入ったような」明るさだったと外林は語る。轟音がとどろき、建物は倒壊。学校は爆心地よりわずか1.5キロほどの距離だった。

「日本語で、閃光はピカ、雷鳴はドンを意味します。ですから、広島の人は原爆の爆発をピカドンと呼ぶのです」。約14万人が即死、10万人もの人がそれから何年も病気に苛まれた。正確な数字は存在しない。

外林秀人はできることなら思い出したくない。長い間、彼は沈黙を続けた。それは1つに、日本の家族に苦労をかけたくなかったからだ。広島では、原爆の生存者は英雄ではなく、差別される者であり、人々は彼らからの伝染や奇形児を恐れている。外林はかつて弟からこのように頼まれたことがある。「被爆の話は自分の中に留めておいてほしい。そうでないと、僕の子供たちと結婚してくれる人がいなくなってしまう」。しかし、外林の目には、世界は破滅から何も学んでいないように写る。それゆえに彼は語らなければならないのである。

現在世界には2万3000の核弾頭が存在している。その威力はヒロシマの原爆の15万個分に相当する。バラク・オバマ米大統領は、2009年4月プラハでの演説で、それらを「冷戦のもっとも危険な遺産」と呼んだ。オバマは、テロリストによってこの「きたない爆弾」が製造される危険性と、核兵器なき世界である「グローバル・ゼロ」の必要性について言及した。「それは急務の問題です」と外林は語る。

原爆が落とされたのは、核分裂がエネルギー生産に使われる何年も前だった。世界は大量破壊兵器としての原子力と出会ったがゆえに、多くの人はそれを危険だと見なしている。にも関わらず、今日原子力はエネルギー需要の大部分を満たし、現在世界では439の原子力発電が稼働し、ドイツでは発電全体に対して核エネルギーが22%の割合を占めている。


意識を取り戻した時、外林は学校のがれきの下にいた。そこから抜け出し、友人の光明を助け出したが、彼は顔から耳が垂れ下がっていた。周りの全てが破壊され、燃え上がっているのを見た。「なぜ広島は攻撃を受けないのだろうかと、私たちはずっと不思議に思っていたんです」と外林は語る。川崎、東京、大阪、神戸といった日本中の大都市は爆撃を受けていた。ついにその時が来たのだと彼は思った。

原爆が広島中心部の上空約600メートルで爆発した時、爆心地の温度は、10億分の1秒の間に約6000万度にまで達した(これは太陽の地表の1万倍の熱さである)。地表では6000度以上の高熱が覆っていた。外林は講演の際、ある階段の写真を見せている。灰色の石の上に、黒い影がくっきりと浮き出ているが、これは爆発の際、そこに座っていた人の影だ。投下地点に留まっていたその犠牲者は、蒸発してしまったそうである。「それは完全には正しくありません」と外林は語る。「一種のレントゲン撮影です」。つまり、大量の放射線が一気に放射されたわけだ。「蒸発にはもっと時間がかかりますから」と彼は言う。

外林ならそれを科学的にも説明できるだろう。というのも、彼は物理化学の教授なのである。物理学者のリーゼ・マイトナーと化学者のオットー・ハーンが核分裂を発見したことで30年代後半に融合し、後の核兵器開発へとつながっていくこの分野こそが、外林の専門領域である。ひょっとしたら、外林は客観的な学問の知識があるために、自分の体験から距離を保てているのだろうか?彼は想像を絶するむごたらしさを、過度な感情を出さず自然科学的に説明することができる。


長崎に生まれた外林は、広島で育ち、京都大学で化学を専攻した。両親は彼が医者になることを望んでいた。「しかし、私は血を見ることができないのです」と語る外林は、広島の通りで血という血を見た後、それを気に留めなくなっていたことを、おかしいとさえ感じている。1957年、マックス・プランク協会のフリッツ・ハーバー研究所の2年間の奨学生としてベルリンにやって来た。学問のメッカであるダーレムは1つの夢だった。しかも、そのわずか20年足らず前、ハーンはベルリンで核分裂の実験を行った。全てはダーレムから始まったのだった。そのことが、あたかも彼をその場所に引き寄せたかのようだ。が、もちろんそうではない。あくまで学問的な興味でベルリンにやって来たのである。「ドイツといえば、メルセデス、バイエル、アスピリンでした」と外林は語る。

1965年にフリッツ・ハーバー研究所の助手として、再びベルリンへ。外林は、ベルリンの加速器Bessy Iで重合体やプラスチック層の研究、レントゲン放射を浴びた物質のテストに従事し、70年代前半に教授の資格を得た。科学者としては、人類が学問の成果について責任を負うということを、ただ望むしかない。外林秀人は、人間がいかに愚かになり得るかを知っているのだ。

日本は核エネルギーを気候変動の解決策として褒め称え、国は現在54の原子力発電所を稼働させ、さらに増やす計画もある。「それは、核エネルギーをもっぱら平和的に利用していると説明するトリックなのです」と外林は語る。では、一体その廃棄物はどこへ?日本はわからない。ドイツもわからない。

プルトニウムの半減期は約2万4000年にも及ぶ。その後ようやく、死の危険のある放射能の半分が崩壊する。外林の年齢の実に300倍もの長さである。


講演の際、外林はプロジェクタで壁に映し出される写真に背を向けて立つ。原爆投下を思い出させる博物館にも、足を運ぶことはない。「記憶が鮮明に蘇ってきて、あまりに感情的になってしまうのです」と語る。一瞬、彼はいつもの不安げなまなざしをこちらに向けて、微笑み、こう言った。「すると、夜眠れなくなってしまうのですよ」。

茶色の目には長くのびたまつ毛が重なり、年齢と暑さのためか、まぶたはやや重い。外林は「ヒロシマ広場をつくる会」と共に、1945年7月と8月のポツダム会談の期間中、ハリー・トルーマン米大統領が滞在したポツダムの邸宅の向かいに、記念碑を設立するための活動に従事していた。トルーマン大統領は、1945年7月25日にここで原爆の投下命令を下したのである。ちょうど65年後の同じ日、この会は追悼の場所の除幕式を行った。バーベルスベルクのこの広場では、いま広島と長崎からの2つのオリジナルの被爆石を見ることができる。「広島の魂が感じられます」と外林は語る。

2007年、外林はベルリン日独センターの大勢の聴衆の前で初めて語った。11月1日は彼の誕生日だった。また、広島に原爆を投下したアメリカ人パイロット、ポール・ティベッツが亡くなった日でもあった。それからというもの、外林は旅をしては学校にも行き、子供たちに話を聞かせている。講演の後、彼らから送られてくる手紙は、外林を喜ばせる。彼らの手紙からは、尊敬の念と、感銘を受けていろいろなことを考えるようになった様子が伝わってくる。「なぜ、人間がこんなことをするのでしょうか?」と彼らは問いかける。あるいは、「あなたの勇気はどこから来るのですか?」と。

行動する勇気。1945年のあの時、外林は怪我を負った友達を病院に運んだが、実家に戻った数日後に亡くなった。一方、学校の瓦礫の下から助けを求める声を無視するのも勇気がいることだった。というのも、ひょっとしたら自分が焼け死んでいたかもしれないのだから、そうせざるを得なかったのだ。

外林はそれらの光景を自分の中に抱え込んでいたが、もはやそれに耐えられなくなった。いまやそれについて語らずにはいられない。それまでは口をつぐんでいたのだが、今この歳になって、過ぎ去った人生の大部分をできるだけ早く整理し、まとまった形で残しておきたいという熱い思いが打ち勝ったのだ。1994年に彼は定年退職し、そこからようやく被爆者となった。自ら切り開いてきた人生について、外林は多くを語ろうとはしない。1965年にベルリンで出会い、1988年に結婚した妻のアストリッドは、仕事以外の私生活や思い出を分かち合える、外林のよき伴侶であり、彼を支え続けている。外林は自分が見たものをプロジェクタで壁に示すことはしない。しかし、何も見せなくても、その様子はありありと目に浮かんでくる。

外林の日記のメモから:爆心地に近づくにつれ、次第にそこはまさに地獄の様な光景になってきた。火傷で腕の皮が剥がれ、手の先から垂れ下がり、粉塵で真っ黒になり、幽霊のようにぶらぶらと歩いている人。子供の死体を抱えて、気が狂ったように叫んでいる人。

外林は父親と一緒に母親を捜しに赴くよりも先に、一家の知人を見つけねばならなかった。外林家に住んでいた沖増である。最初に客人を探すのが日本の礼儀なのだった。彼は近くの川で亡くなっていた。階段には人々が放射線状に倒れていた。

彼かどうかを確かめるため、人をより分けながら下の方に下りて行った。死んだように倒れている人が、みんな生きており、「水をくれ」と足を掴んでせがまれるが、どうすることも出来なかった。

外林はその時泣かなかった。「そんな時間はありませんでしたから」と彼は言う。しかし、川辺で死体だと思っていた人たちが、今でも夢の中で時々彼をつかもうと手を伸ばしてくる。

外林と父親は母親を見つけた。見たところ怪我はしていないようだったが、動くことはできなかった。リヤカーに乗せて、母親を家に連れて帰った。長崎に2発目の原爆が落とされた1945年8月9日、彼女は35歳で亡くなった。父と息子は、母のために棺を作り、火葬に付した。2人がそれについて話すことはその後なかった。

知人や親戚が、爆心地から約2キロの距離で、破壊されずに残った外林の家にやって来た。彼らは怪我をしていないように見えたが、数日後には髪が抜け、歯茎から出血し始め、全員が亡くなった。父と息子は必死に働き続けた。「お米を食べました」と彼は追想する。「でも、一体誰が炊いたのでしょうね?」。何はともあれ母親はもういなかった。

20年後、父親は癌で亡くなった。外林秀人も1945年以降、血液検査を受けており、腸に腫瘍ができたこともある。いつだったか?それは重要ではない。

外林秀人の話は、細部ではなく、大きな全体に向かっている。彼はこう語る。「私は日本人ではなく、ひとりの人間としてお話しているのです」。

ターゲスシュピーゲル紙 2010年8月5日。翻訳に際しては敬称略)

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by berlinHbf | 2011-08-06 13:40 | ドイツから見た日本 | Trackback | Comments(7)

夏祭りの思い出&ベルリンに戻りました

日本での最後の日、子供の頃住んでいた街の知人の家を久々に訪ねました。横須賀の野比という海に近い街。昔から知っているおじさんやおばあちゃん、幼なじみらと久々に話していたら、今日ちょうど夏祭りの日だということを教えてもらいました。

ちょうどこれからハイライトの神輿かつぎが行われるというので、居ても立ってもいられない気持ちになり、海から神社に続く道を歩いて行きました。すぐに向こうから、賑やかな声が聞こえてきました。

新しいカメラを肩に掛け、急いで神社の方に先回りし、神輿が近づいてくる様子をカメラに収めました。神社に近づくにつれ、山車から放たれる太鼓の音が増してきます。懐かしい太鼓の響き!この場所で聞くのは25年ぶりぐらいでしょうか。子供の頃は、毎年山車を引っ張ってお菓子をもらうのが楽しみでした。

白髭神社の境内に上って、下の様子を眺めました。男たちが「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声と共に、神輿を自在にまわし始めます。

やがて、彼らも境内に上ってきて、祭りのクライマックスへ。激しさを増す掛け声に飛び散る汗。いやはや、すごい迫力でした。日本での最後の日に思いがけずいいものが見れたなあ。

7歳の時まで、海からほど近いこの辺りに住んでいました。

その日の夜、初めて羽田経由でベルリンに戻ってきたのですが、テーゲル空港を出た瞬間、これが7月かと思うぐらいのあまりの涼しさにびっくり。いくつものトランクをかついで自宅の階段を上っても汗さえかかないほどで、日本のあの蒸し暑さは何だったんだろうと不思議な気分にもなります。快適なことはこの上ないけれど、ベルリンの夏も早く戻ってきてほしいものです。

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by berlinHbf | 2011-07-23 23:57 | ドイツから見た日本 | Trackback | Comments(2)

講演会が終わりました

梅雨が明けた三浦海岸にて(7月10日)

先週土曜日、横須賀三浦教育会館での私の講演会「『ベルリンの壁』とは何だったのか?」が無事終わりました。

今回の講演会は、私が中学1年生の時、地理の授業を教わった山田研一先生(私に東西ドイツやベルリンを最初に教えてくださった先生)が、定年後に横須賀三浦教育会館に勤務されているご縁から実現したものです。家族や義理の両親、幼い頃からお世話になっている方々や学校の恩師といった身近な人から、日頃このブログや私の書いたものを読んでくださっている方まで、100人を越える方々にお越し頂けたのは、大変うれしい驚きでした。

講演会の中でお話しした、1961年に壁を越えて西に亡命して来たゲルハルト・メシングさん(以前こちらでもご紹介しています)の息子のオラフさんがこの日埼玉から来てくださり、講演の最後にご紹介できたのもうれしい出来事でした。少し時間が余ったので、オラフさんと一緒に質疑応答の時間を作り、ここでもベルリンの歴史から日本の震災後のドイツの動きまで率直なご質問をいただきました。

講演会でお話しするというのは私にとって初めてで、家で練習をした時は全然うまくいかず、正直投げ出したい気持ちにも駆られていました(笑)。昨年自転車でヨーロッパを回り講演も経験した下の弟のアドバイスの甲斐もあって、何とか無事に講演が終わると、インターネットとはまた違う知識や経験を共有する面白さを味わい、機会があればまたやってみたいという考えに変わっています。今回の日本滞在の中でも思い出深い1日となりました。ほっと一息つくと共に、ご支援いただいた方々に心よりお礼を申し上げます。

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by berlinHbf | 2011-07-12 14:21 | ドイツから見た日本 | Trackback | Comments(10)

梅雨の日本に一時帰国中

お久しぶりです。先週後半から日本に一時帰国しています。梅雨の季節だし、震災後の影響などもあって、帰国を延期しようかと考えた時期もあったの思ったのですが、やっぱり帰って来てよかったなと思います。

成田に着いてすぐ、湿気を多く含んだ生暖かい空気に包まれると、不思議とどこか懐かしい気分になりました。ドイツに来て以来6月に帰るのは初めてで、日本の梅雨を味わうのも11年ぶりだったのです。空港駅でまずびっくりしたのが、新線開通によって京成線のホームが変わり、横須賀に帰るのにも2通りから選べるにようになっていたこと。「アクセス特急」なる電車に乗れば(運賃も京成線経由より若干高い)、北総鉄道経由で押上まで一本で行けて、そのまま京急にも接続。真新しい高架をひたすら直線的に走るので、さすがに早かったです。自宅の最寄り駅までは2時間20分ほど。これをどう見るか?従来の京成線経由より大分短縮されたのでしょうが、それでもやはり遠いなあと感じる時間感覚であることは確かです。ちなみに、7月にベルリンに戻る時は初めて羽田空港からなので、ちょっと楽しみ。ベルリンの新空港も開業予定までいよいよ1年を切ったので、羽田からベルリンまで1本で飛べたらどんなにいいものかとつい思ってしまいますね。

横須賀に戻った翌日、春に馬堀海岸にオープンしたばかりの横須賀温泉「湯楽の里」というところへ親に連れて行ってもらいました(冒頭の写真)。地下1800メートルから掘り起こした温泉だとかで、1階は岩盤浴、2階は浴室になっていて、結局4時間近くいたでしょうか、大いに楽しみました。中でも素晴らしかったのが、2階の露天風呂からの東京湾の眺めです。対岸に房総半島が見えるので、大海原というほどではないけれど、私にとってはあの震災後初めて目の前にする日本の海。鉄分を含むため黄土色の独特の湯につかり、時々のどかに行き交う船を眺めながらも、人々を襲った恐ろしい現実に思いを馳せずにはいられませんでした。

翌日曜は相模湾に浮かぶ佐島という港に行って、おいしいお魚を食べて来たのですが、趣のある小さな漁村を歩いていても、津波に襲われた後の東北沿岸部の映像がどこかで脳裏に重なってしまう始末。この場所だって、東海地震が起きたらどうなるかわからない。地震が津波が、そして原発事故をめぐる現実が、人々の日々の生活や思考に重くのしかかっているのを、じわじわと体感しているところです。

それだけに、変わらぬ日常のありがたさを、今回の一時帰国ほど身に沁みて感じたこともなかったのかもしれません。もちろん、自分も両親も周りの人々や建物も少しずつ歳を取っているわけですが、帰れる場所があって、周りが元気でいてくれるだけでもまずはありがたいと思います。

1年半ぶりぐらいに日本に帰ると、最初の2〜3日は日本にいるのがどこか半ば夢のような気分を味わいます(時差ボケも関係しているのかもしれないけど)。でもそれを過ぎると、時の感覚が急にテンポアップしてきます。ベルリンで残してきた原稿を書いたり、7月の講演会の準備を少しずつしたり、時々東京横浜方面に出たり、という感じで少しずつ忙しくなってきました。実家の重病のネコが気にもなって、今はあまり遠出はできないのですが、7月半ばまでの日本での時間を大事に過ごしたいと思います。

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by berlinHbf | 2011-06-24 17:04 | ドイツから見た日本 | Trackback | Comments(0)

外林秀人氏インタビュー(ターゲスシュピーゲル紙日曜版より翻訳)


昨年夏、ドイツニュースダイジェストにベルリン在住のヒロシマ被爆者、外林秀人さんにインタビューさせていただく機会がありました(Tags: Interviewにてご覧いただけます)。あの時は戦後65年という節目の夏だったのですが、今回の福島の原発事故の関係で、外林先生のお名前をドイツのメディアで目にする機会が再び増えたように思います。ドイツ人記者によるまとめ方は玉石混淆だったようですが、3月27日のターゲスシュピーゲル紙日曜版でのインタビューは、1面丸々が紙面に割かれ、内容も先生ご自身納得のいくものだったようで、以前から私に翻訳を依頼されていました。日本に帰る前に何とか訳し終えたので(ご協力いただいた友人の宇野将史さんに多謝!)、多くの方にじっくり読んでいただけたらと思います。それでは次は日本で!

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ヒロシマの生存者、外林秀人
「私は血を見るのがいやなのです」


外林秀人(82歳)は広島で生まれ、長崎で育った。1964年よりベルリン在住。ベルリン工科大学にて物理化学の教授となり、マックス・プランク協会で研究を重ねた。1988年にドイツ人のアストリッドと結婚し、ミッテ地区に暮らしている。広島に原爆が落とされた時、16歳の外林秀人は学校の教室に座っていた。彼はフクシマをどのように見ているか、そして若い人々に何を語るのだろうか。


外林教授、日本の大災害の動向をどのように追っておられますか?

インターネットや日本の新聞、もちろんテレビも見ています。放射線の測定を受ける子供の様子や、ガイガー・カウンターが高い測定値を示したため、衣服を脱がなければならない人々の写真を見た時、私は被災者の方々が自分や、当時の多くの人々と同じような目に遭うのではないかと危惧しました。すなわち、差別という問題です。

といいますと?

一度被曝すると、放射能が感染すると思っている人がたくさんいるのです。ですから社会のつまはじき者にされるのです。

ご自身もそのような状況に置かれたのでしょうか?

つい数年前まで、私が原爆投下時に広島にいたことは秘密にしてほしいと、弟は強く迫ってきました。でも彼は医者なので、そのような心配が理にかなっていないとわかっているはずです。子供たちが、私のようなおじのせいで、縁談に支障をきたすのではないかと心配していたのです。ですから、私たちの母の名前が広島の原爆記念碑に加えられるのも弟は望みませんでした。「少なくとも僕の子供たちが結婚するまで待ってほしい」と。そんな彼のために60年間、私は待ったのです。

日本では電力の35%を原子力発電に頼っています。日本は唯一核分裂の破壊力を経験した国であるのにも関わらず、エネルギー供給をなぜこれほど原子力に依存しているのか、説明することはできるでしょうか?

奇妙なことに、日本人は核の軍事使用と平和的利用とを分けて考えています。ですが、現在起こっていることを見ると、「平和的」というのは間違った考えだと思いますね。日本では原子爆弾の拡散を留めようという動きは強いですが、原子力を電力として利用することは、簡単に受け入れてしまうのです。例えば、私の妹は私と同様核兵器に反対していますが、彼女の夫は電力会社の監査役です。彼女が言うには「お兄さん、義弟の前で言うことには注意して。原発のことを悪く言うと、彼は嫌がるのよ」。

ご兄弟はまだ日本で生活されていますが、この大災害で被災されませんでしたか?

いえ、妹は広島に、弟は京都に住んでおり、どちらも危険地域からは遠く離れています。家族と東京に住んでいる私の甥の何人かは、まったく通常通り職場に通っています。すでに東京を離れた人々もいますが、そんなことが可能なのは、そもそも年金生活者の老人だけです。職場が東京にある人は、簡単に仕事をやめることなどできませんから。

外林教授は数年前から核兵器の廃絶のために力を注ぎ、日本とドイツの学校で講演をされています。原子力発電についても警告を発しておられるのですか?

原発は私の研究テーマではありませんでした。この数週間で初めて、私は原発への理解を本当に集中的に深めたのです。ある知人が、20年間原発で働いた後、癌で亡くなった日本のあるエンジニアのレポートを送ってくれました。原子力発電所は全てが円滑に機能しているとその近隣の人々は思い込まされていますが、全く健康の危険性にさらされていない、というわけではないのです。このエンジニアのレポートで一番興味深かったのは、福島の事故の前から、すでに原発周辺の住民が差別に遭っていたということです。東京で婚約をしたものの、婚約者の家族によって結婚を破談にされた若い女性のことをその方は伝えています。この家族は、彼女が健康な子供を産めないのではと恐れたのです。

この「差別」は日本特有のものなのでしょうか?

ドイツ人でも放射能と聞いて取り乱す人はいます。ポツダムには原爆投下の犠牲者追悼の記念碑が立っており、広島と長崎からの2つの石がそこにはめ込まれています。放射能で汚染された石だと言って怖がる人がいるから、取り除かなければならないという意見もありました。それ以前にその石は広島の大学で検査され、まったく危険はないとのことだったのですが。

原爆が広島に落ちた時、外林さんは16歳でしたね・・・

1945年8月6日の8時15分、でした。普通この年齢だと勤労奉仕をしなければならなかったのですが、私は試験に合格したのでエリート学校に通うことを許されたのです。その時間、私たちは教室で化学の授業を受けていました。夏の明るい日でした。なのに、突然明かりがついて、みんなの顔がぱっと光ったかのようでした。それから轟音がとどろきました。

キノコ雲はご覧になりましたか?

いえ、目の前が真っ暗になり、私はすぐに気絶しました。ようやく少しずつ再び意識を取り戻すと、上の方の穴から光が射し、自力で脱出することができたのです。私たちは爆心地から1.5キロほどの距離にいたのですが、学校中の建物は崩壊し、瓦礫の間から火が燃えていました。友人の光明君の助けを求める声が聞こえました。彼は瓦礫に挟まっていたものの、引っ張り出すことができました。が、顔から出血し、耳はほとんど引き裂かれ、一方から垂れ下がっていました。一緒に家へ帰ろうとしましたが、それは簡単なことではありませんでした。両親の家はそこから1キロほど離れていて、2つの川が流れています。全ての橋は崩壊していました。光明君は歩くことはできたものの、泳げません。私は小舟を見つけ、彼を乗せて押しながら川を渡りました。

爆発の時、ご両親はどちらにいらしたのでしょう?

私の父は幸い家にいました。そうでなかったら私たちの家も確実に焼失していたでしょう。いつもの朝のように窓から布団を干していたので、即座に火が回りました。父はすぐに消火することができたのです。

お友達はどうなったのですか?

彼はなんとか故郷に帰りました。後にそこで亡くなったと聞いています。私は父と一緒にすぐに家を出ました。

お母様を探すために?

そうしたかったのですが、ちょうど私たちの家に沖増君という私と同い年のお客さんが来ていました。お客さんへの責任があるので、まず客人の面倒を見なければならない。これが日本での流儀なのです。私たちは彼も見つけ出しました。爆心地からわずか600メートルほどの場所でした。

彼は生き延びたのですか?

そこにいた人たちは、ほぼ絶望的でした。私たちは、皮膚がずたずたに体からぶら下がった人々を見ました。ある橋では、階段が川へと下ってゆき、辺り一面人間が川岸に積み重なっていました。全員死んでいると私は思いました。ところが、近づいてみると、彼らは私の足をつかんだのです。水をくれと頼む人もいれば、自分が誰で、身内に(安否を)伝えてくれと私に話そうとするだけの人もいました。水辺に沖増君も見つけました。私たちは彼の遺体を家に持ち帰り、彼の両親に引き渡すことができました。

ではお母様は?

残念ながら、私たちはどこを探したらいいのかわかりませんでした。母は勤労奉仕に出ており、建物を壊して道路を拡張する作業に従事していました。空襲の際、火の回りを遅らせるためです。後に、私の妹は自分を強く責めていました。

そのことが妹さんとどういう関係があるのですか?

妹はまだ10歳で、他の大勢の子供たちと同様、田舎に疎開していました。そこを母が訪問しました。妹はまだとても幼かったので、「お願いだからもう1日だけいて!」と母に懇願しました。そのために、母は勤労奉仕の日を8月6日に変更してしまったのです。もしそうでなかったら、その日、母もまた家にいたでしょう。妹はいまでも時々自分自身を責めています。

お母様は見つからなかったのですか?

いえ、赤十字病院で見つけました。この混乱の中で見つかったのは、まったくの偶然でした。母は実際怪我をしてないように見え、表面上は無傷でした。しかし動くことができず、私たちはリヤカーに乗せて家に運びました。その3日後の8月9日、母は35歳で亡くなりました。長崎に原爆が落とされた日です。

お母様は、見た目は無傷だったとおっしゃいましたが、その3日間で病気の兆候が表れたのでしょうか?

まず髪の毛が抜け落ち、やがて歯茎が出血し始め、歯がぐらぐらになりました。私たちは棺を作り、仏教のしきたりに従って家の裏手の畑で火葬しました。母が見つかったのは不幸中の幸いといってもよいでしょう。津波が村全体を根こそぎ奪い去った今の仙台や福島と同じように、広島もあのように見渡す限り瓦礫の山でしたが、被災者の方々を思えば、家族や親類と最後のお別れができるのは、まだいい方なのです。

日本人は、このような最悪の災害でもストイックな姿勢を守るよう、教え込まれているのでしょうか?

ひょっとしたらこういうことかもしれません。ヨーロッパの人々は技術で自然を征服できると考えている。アジアでは自然が強大です。つまり、台風があれば、地震も津波もある。10メートルの津波が来たら、それは運命なのです。人は運命と折り合いを付けなければならないし、何もかも再建しなければならない。しかし、ヒロシマとフクシマは自然災害ではありません。ゆえに人間の側に責任があるのです。

お母様が亡くなった時、どのような種類の爆弾が頭上に落とされたのか、認識されていらっしゃいましたか?

いいえ、とてつもなく強力な爆弾に違いない、ということだけでした。私は最初に、「なんてことだ、このすぐ近くに落とされたに違いない」と考えました。広島のどこにいようが、誰もがただそう感じたのです。それからすぐに、あれやこれやと噂が流れました。髪の毛が抜け落ちた人がたくさんいました。私も歯茎から出血しました。当時、われわれは放射線のことをよく知らず、「ここを離れなければならない。今後75年間はもう広島には住めない」と言う人もかなりいました。それは公式の発表だったわけではありません。結局、今と状況はいくらか似通っていました。福島の周辺の人々も、これからどうなるかわからないように。

死者が出るのはどのくらい続きましたか?

大体8月の終わりまででした。が、その後も犠牲者はいました。父は20年後に胃がんで亡くなり、私はそれを放射線のせいだと考えています。私に関しては、何年か前に腸の腫瘍が見つかりました。幸い手遅れにならない時期の発見でした。他のあらゆるヒロシマの犠牲者同様、私は原爆手帳を持っていて、2年おきに広島で診察を受けることができます。

ヒロシマの犠牲者と認められたのはどういう人ですか?

コンパスで爆心地を中心として円を書き、その中にいる人は、この原爆手帳をもらえます。今日の福島を見ていても、私が間違いだと思うのは、簡単に円を書くことなどできないということです。放射能はそんなに均質に広がるわけではありません。その人が病気かそうでないかを決めるのは、距離だけでもないのです。

福島の原発周辺は、避難地域とされました。なぜ広島は同様に見限られ、居住不可と宣告されることはなかったのでしょう?

私は医師ではありませんが、それでも思うのは、両者を比較することはできないということです。福島周辺の地域では、この数週間来24時間常に、放射線が出ています。広島の爆発は巨大だったものの、ほんの一瞬でした。それに誰も広島の街から住民を避難させようとは思いませんでした。日本はアメリカの占領下に入り、むしろ広島に人がそのまま残ってくれた方がアメリカにとっては好都合だったのです。それは興味深い実験でした。私たちは採血されましたが、手当を受けるということはありませんでした。アメリカがビキニ環礁で原爆実験に着手した時、どのような爆弾が私たちの上に落とされたのか、初めて知ることとなったのです。しかし、アメリカ人が集めたデータは、日本で見つけることはできないでしょう。

今日、福島の消防士たちは自分たちがどのようなリスクを負っているか知っています。外林教授にとって、彼らは英雄ですか?

どうでしょう。彼らはひょっとしたら一種の洗脳を受け、強制されているのかもしれません。敵機に向かって自ら飛び込んだ神風特攻隊は英雄だったでしょうか?私はあの時代に育ち、日本の社会階級が厳格だった古い世代に属しますが、とてもそうは思えませんでした。ですから、われわれは若いうちに日本を飛び出し、私はドイツに、別の者はアメリカに渡りました。おかげで外国では人々がどんな暮らしを送っているのかがわかりました。今の日本の若い人たちは無精になり、ひきこもってしまって、容易には理解しがたいような人々がいるところに飛び込んで行かない、そんな印象を受けることが時々あります。

今日、外林教授は生徒たちに当時の自らの体験を話されています。若い世代の人たちは、原子力の危険について敏感に反応しますか?

日本の生徒たちは誰が悪いのかと問います。彼らの意見では、悪いのはアメリカ人です。ドイツの生徒は、もっとずっとエモーショナルに反応します。なぜ人間がそのようなことをすることができたのですか、と彼らは問うてきます。私が再び街に出て母親を探そうとした勇気はどこから来たのか、彼らは知ろうとします。私に勇気があったわけではありません。両親は私が医者になるのを望んでいましたが、それは叶いませんでした。これ以上血を見ることができなくなってしまったからです。血を見るのがいやなのです。それゆえに、私は化学者になりました。

外林教授の専門分野は物理化学です。

そもそも私はもう二度と放射線と関わりたくなかったのですが、でも、そうはいきませんでした。ダーレムの粒子加速器Bessyで仕事をした際に、エックス線と関わったからです。しかし、これは説明するのが本当に複雑です。新しい物質のための基礎研究でした。

オットー・ハーンが核分裂を研究したフリッツ・ハーバー研究所に勤務されていましたね。

ええ、1950年代、私はリーゼ・マイトナーと知り合う機会がありました。彼らのどちらも爆弾を作ろうなどとは考えず、基礎研究に従事していました。それは人間の好奇心と合致するものです。それをどう利用するかは、学問の問題ではなく、モラル、倫理、そして政治の問題なのです。

アメリカ人に原子爆弾の開発を要請したのは、アルベルト・アインシュタインでした。

ええ、ナチス・ドイツに対して効果的な武器を作ろうと考えたからです。しかし、アインシュタインは、その後はもう原爆の開発に関わることはありませんでした。彼は利用されたのです。

基礎研究に罪はないとお考えなのですね。

こう言うと矛盾して聞こえるのは承知の上です。それでもなお、私はそう信じているのです。


インタビュー:アンドレアス・アウスティラート、バーバラ・ノルテ
(ターゲスシュピーゲル紙日曜版 2011年3月27日。翻訳に際しては敬称略)

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by berlinHbf | 2011-06-15 03:00 | ドイツから見た日本 | Trackback | Comments(0)

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