ベルリン-東と西が出会う場所。ドイツにありながらドイツではない町。歴史の影に彩られた栄光と悲運の世界都市。そんなベルリンの奥深い魅力をリアルタイムでお届けするブログです。Since 1. August 2005
by berlinHbf
中村真人 (Masato)
神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。ベルリンの映像制作会社勤務を経て、現在はフリーのライター、ジャーナリスト。

『素顔のベルリン 過去と未来が交錯する12のエリアガイド 』
¥1,575
ダイヤモンド・ビッグ社
(Amazon、全国各書店にて発売中)
地球の歩き方シリーズ初、待望のベルリンガイドブック誕生!比類なき歴史を抱えつつ、明日へ向かって日々進化し続ける首都ベルリン。「ドイツで最もドイツらしくない」といわれるこの町の知られざる魅力を、現地在住著者が12のエリアにわけて徹底紹介。
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『街歩きのドイツ語 』
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三修社
豊富なビジュアルとドイツ語フレーズを楽しめる1冊。基本のあいさつ表現から、街にまつわるドイツ語豆知識まで、ガイドブックとともに旅に役立つ会話集です。

NHK「テレビでドイツ語」テキスト
¥380(毎月18日発売)
NHK出版
前期(4〜9月)は水と緑の美しいドイツ第2の都市ハンブルクが舞台。テキストの読み物で「ハンザ都市を巡る」を連載中。5月号ではハンブルク(後編)を取り上げています。
ベルリン更新情報
2011/10/1 up!
ベルリン個人ガイドのご案内
執筆、ガイド、コーディネートなどのご依頼、お問い合わせはこちらまで(これまでの出版・寄稿実績)→
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Berlin no kaze
1/28 up!「Mein erstes Buch」
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当ブログの写真や文章に関する、無断での転写・転用を禁じます。
© Copyright 2005-2012 Masato Nakamura. All Rights Reserved



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カテゴリ:ベルリンの人々
- 写真家 橋口譲二氏の講演会[ 2012-05-23 16:50 ]
- 橋口譲二氏講演会のご案内@ベルリン写真美術館[ 2012-04-18 00:13 ]
- 追悼・外林秀人先生[ 2012-01-07 14:45 ]
- ドイツ人家庭で味わうクリスマス[ 2011-12-18 13:50 ]
- 10年目の出会いと別れ[ 2011-10-22 23:57 ]
- 眞峯紀一郎さんインタビュー - 9/9のチャリティーコンサート -[ 2011-09-01 14:18 ]
- マルティン・レーアさんの授章式@日本大使館[ 2010-12-26 16:32 ]
- 外林秀人さんインタビュー(3) -核をめぐる2つの場所-[ 2010-10-08 18:04 ]
- 外林秀人さんインタビュー(2) -なぜ被爆体験を封印してきたか-[ 2010-10-06 00:59 ]
- 外林秀人さんインタビュー(1) -ベルリンほど原爆に安全な場所はなかった-[ 2010-10-03 14:09 ]
写真家 橋口譲二氏の講演会

現在、ツォー駅裏手のベルリン写真美術館Museum für Photografieにて、「戦後日本の変容」展が開催されています(6月17日まで)。1945~64年という激動の時代を背景に、木村伊兵衛や土門拳、細江英公ら、戦後日本の写真界を代表する11名の写真家によるモノクロ写真123点で構成された興味深い展覧会です。
この展覧会の関連プログラムとして、日本の写真関係者による講演会が何回か開催され、私は4月末に行われた写真家・橋口譲二さんの講演会「カメラがとらえた、日本が幸福だった時代と17歳の今」を聴きに行きました。橋口さんは、80年代からベルリンとの縁が深く、昨年は旧東ベルリンのホーフ(中庭)をテーマにした写真集『Hof ベルリンの記憶』を発表しています。
展覧会のテーマに合わせて、講演会の前半は1949年生まれの橋口さんが自分の子ども時代を振り返るところから始まりました。鹿児島での小学校時代、生徒の半数は裸足で学校に通っていたこと、中学卒業後は大都市に集団就職するのが当たり前だった風潮などに触れ、「日本と言うとお金持ちの国というイメージがあるかもしれませんが、それはここ30年ぐらいのことです。当時の人々は自転車やテレビ、洗濯機など、皆小さな夢を持って生きていました。それがいつの間にか、『欲望』に変わっていったのです」と聴衆に語ります。
そして、日本全国多くの人のポートレートを撮影してきた橋口さんが、東北に住む2人の女性の写真を見せながら、庶民のささやかな生活を紹介します。「日本と言うとお米の国という印象をお持ちかもしれませんが、それもここ40年ぐらいのことです。米はもともと南の穀物。努力と改良を重ねて、東北や北海道でもお米が作れるようになったんです」と聞いて、私ははっとしました。橋口さんは静かに、しかし揺るぎない姿勢で戦後日本の文明について問うているように感じたのです。

© Hashiguchi Joji & JDZB
後半は、橋口さんが2000年代に撮った17歳の若者のポートレートを見せながら、彼らの声を朗読。子どもと大人の狭間で悩みながらも生きる、ごく普通の若者の姿が立ち上がります。最後にこんなことを話しました。「今の朗読を聞いて、皆さんの中には良くも悪くもいろいろな感情がわき起こったはずです。僕はその感情こそがアートだと考えています。お金がたくさんあれば、この美術館に飾られているヘルムート・ニュートンさんの写真を買うことができるでしょう。でも、皆さんのその感情は誰も買うことができません」
質疑応答では、橋口さんの写真家としての制作姿勢が、こんな言葉で明かされました。「今までに900人ぐらいのポートレートを撮ってきましたが、自分が撮った人はすべて作品に登場させています。人の存在は、比較できないからです。この世に生きる価値のない人はいません。人を選んでこなかったということを僕は誇りにしています」
「人の存在は比較できない」。口で言うのは簡単ですが、制作を通してその信念を実践し続けてきた橋口さんに、私は敬意の念を感じました。最後は拍手がなかなか鳴り止まず、会場が温かい雰囲気で満たされていました。
(ドイツニュースダイジェスト 5月18日)
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Tags:#アート(Kunst)
橋口譲二氏講演会のご案内@ベルリン写真美術館

4月26日にベルリン写真美術館で写真家橋口譲二さんの講演会が開催されます。素晴らしい機会なので、この場でもぜひ紹介させていただきたいと思いました。橋口さんのHP内にある橋口日記を見ると、この講演会の準備の様子も綴られており、私自身とても楽しみにしています。特に講演会のタイトルにもなっている「日本が幸福だった時代」について、橋口さんがどのように語られるのだろうかと。知人友人もお誘い合わせの上、ぜひお越しください!
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写真家 橋口譲二 氏 講演会のお知らせ
日時:2012年4月26日(木) 19時開始
会場:Museum für Fotografie 2階
Jebensstraße 2, 10623 Berlin
地下鉄Zoologischer Garten駅
内容:カメラがとらえた日本が幸福だった時代と17歳の今
入場料:無料
逐次通訳付き
現在、ベルリン写真美術館では「戦後日本の変容」と題した
写真展が開催されています。
今回、ベルリン日独センターでは、ベルリン写真美術館との共催で
ベルリンに大変縁が深く、日本でも著名な写真家、橋口譲二氏に
よる講演会を、写真美術館にて開催します。
講演会では、橋口さんが撮影された、日本の17歳たちの
写真を元に彼らの目から見た現在の日本と、
戦後、日本が幸福だった時代やその背景、
また、東北がもつ文化、生活、東北地方が文化人に与えた
影響等をお話しいただきます。
写真美術館サイト
http://www.smb.museum/smb/kalender/details.php?objID=37754&typeId=11&datum=26.04.2012
橋口譲二氏サイト
http://www.apocc.org/hashiguchi-profile.htm
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Thema: "Japans glückliche Zeit und das Leben
der 17-jährigen von heute mit der Kamera eingefangen"
Referent: Herr HASHIGUCHI Jôji
Zeit: Donnerstag, den 26. April 2012 (19:00 Uhr - 21:00 Uhr)
Ort: Museum für Fotografie, Vortragsraum, 2.OG
Jebensstraße 2, 10623 Berlin (S/U Zoologischer Garten)
Eintritt: frei
Der Vortrag findet im Rahmen der Fotografieausstellung
"Metamorphose Japans nach dem Krieg. Fotografie 1945-1964"
statt und ist eine Veranstaltung
der Sammlung Fotografie der Kunstbibiliothek-
Staatliche Museen zu Berlin und der Japan Foundation
mit Unterstützung durch das JDZB.
Die gesamte Veranstaltung wird deutsch-japanisch
konsekutiv gedolmetscht.
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追悼・外林秀人先生

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2011年12月30日の夜、外林秀人先生の訃報の知らせを受け取った。ここ数ヶ月、ご無沙汰していたとはいえ、「先生のメッセージはこの時代においてますます重要な意義を持つものと思います」と書いてご自宅にクリスマスカードをお送りしたばかりだった。私は愕然とした。
外林秀人さんという方の存在を知ったのは、確か2006年だったと思う。「ベルリン在住の日本人科学者が、半世紀以上の沈黙を経て、ヒロシマでの被爆体験を語り始めた」というニュースはドイツのメディアでも話題となり、私もいくつかの新聞記事を読んでいた。また、トルーマン大統領が原爆投下を決定したと言われるポツダム・バーベルスベルクの邸宅前の広場に「ヒロシマ広場」をつくる活動に外林先生が関わられていることも知った。私は、子供の頃から原爆の問題にはどちらかといえば強い関心を持っていたので、いつか直接お話を伺ってみたいという思いを漠然と抱いていた。
2010年の7月末、日本食レストラン「よしおか」に食事に行った時のこと。店主の吉岡さんと話していて、ふと外林先生の話題になった。先生は毎週土曜日の夕方、奥様と「よしおか」に来られるという。吉岡さんは私がドイツニュースダイジェストに寄稿している記事を毎回読んでくださっており、「一度外林先生にインタビューしてみるといいですよ。よかったらご紹介しましょうか?もうご高齢だし、いつまでお元気でおられるかは誰にもわからないから」と言ってくださった。ちょうどヒロシマ広場の記念碑が除幕したばかりで、原爆投下から65年目の日が目前に迫っていた。私にとって願ってもない機会だった。
8月10日の午後、ヒルトン・ホテルのカフェでゆっくりお話を伺った。まぶたに刻まれた深いしわと時折見せる寂し気な表情が印象的だった。それでいて、(こんなことを言うのは失礼かもしれないが)どこかチャーミングな魅力のある方だった。半世紀以上住んでおられるベルリンの話から始まったのだが、「ベルリンに長く住んでいる理由は、ベルリンほど原子爆弾に対して安全な場所は世界になかったからです。ここにいれば二度と原爆には遭遇しないだろうと信じていました」と真顔でおっしゃった時には体に衝撃が走った。50年以上被爆体験を胸の奥に秘めてきた理由、原発のこと、問われる政治家と科学者のモラル、等々。ゆっくりとそして思いを込めて語ってくださった。
(この日のインタビューはドイツニュースダイジェストおよび拙ブログにも掲載)
それから1年数ヶ月という決して長い時間ではなかったものの、外林先生は私に対して随分懇意にしてくださった。時々電話もいただくようになった。2010年8月にターゲスシュピーゲル紙に掲載されたロングインタビューは、「今までドイツのメディアに書いてもらった記事で一番内容がいいので、日本語に訳してもらえないだろうか」と言って、翻訳を依頼してくださった。
ある日、バスの2階席で偶然お会いした時は、「ドイツや他の国でしてきた講演の記録が大分たまってきたので、いつかまとめられないかと思っている。その時は中村さんにもぜひ協力して欲しい」とおっしゃった。ベルリンのフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ学校で中学生ぐらいの子供たちに話をされる時にはご招待くださり、聞きに伺ったこともあった。あの福島第一原発の事故が起きてからは、ドイツの新聞やテレビで先生のお顔を見る機会が増えた。あまり体調がよくない中、各地で講演会を精力的にされていることも聞いていた。
印象に残っているのが、昨年4月初頭、日本のあるメディアに「こういう記事が載っていた」と電話をかけてこられた時のことだった。ドイツの南部の州の総選挙で緑の党が大躍進した直後で、「ドイツの原発は予定より早く廃止されるだろう。だが、選挙の結果が、日本の震災を起爆剤にしてもたらされたものであるように思え、日本人としては複雑な気持ちだ」というような内容の記事だった。正直、最初に私が読んだ時は特に違和感を感じなかった。当時、ドイツメディアのフクシマの報道の仕方は過剰にセンセーショナルな部分があったし、その波に後押しされた形で脱原発を求める声が一気に加速したのも事実だと思ったからだ。しかし、外林先生の捉え方は違っていた。
「どうしてこんな記事を書くのだろう。原発がなくなることのどこが悪いのか。それに、ドイツの人々は日本人に対して心から追悼の気持ちを示してくれているではないか」。
外林先生のこれほど怒った声を聞くのは、この時が最初で最後だった。
先生の核についての考えは一貫していた。「左か右かとか、勝つか負けるかとか、アメリカに責任があるかないかとか、つまり誰がどういう立場かという問題ではない。核兵器も原発も、『人類全体』を考えるとよくない。だから私たちはそれらを早く捨てるべきだ」。これまで先生から伺ってきたお話を集約すると、結局こういうことではないかと思う。
50年以上、外林先生が被爆体験をひたすら内に秘めてこられたのは、放射能をめぐる差別の問題が過去も今も根強く存在するからだ。そのことも私たちは忘れてはならないだろう。

外林先生に最後にお会いしたのは、昨年の8月6日だった。この日、ポツダム市の名誉市民の称号が贈られることになり、ヒロシマ広場での式典に伺った。先生は手術をされた直後で、すっかりお痩せになったことに驚いた。それでも私の顔を見つけると、笑顔を見せて手を差し出してくださった。その時のことが忘れられない。
ポツダム市長も臨席した式典の挨拶で、外林先生は「長崎にも原爆が落とされたのだから、この広場の名称に『ナガサキ』も加えて欲しい」という希望をおっしゃっていた。
12月7日、ポツダム市の市議会は、「ヒロシマ広場」を「ヒロシマ・ナガサキ広場」に改称する決議を賛成多数で可決した。「ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会」の副会長で、外林先生と長く一緒に活動されてこられた福本榮雄さんから、数日前こんなメールをいただいた。
「(外林先生との最後の電話で)広場の名称をヒロシマ・ナガサキ広場と改名することが市議会で決議されましたとお伝えできたことが救いです。念願のベンチが設置されたことも。一度も座っていただくことはできませんでしたが」。
「ベンチ?」と思った。だが、外林先生に最初にインタビューした際の録音を聞き直してみたら、最後の方で確かにこうおっしゃっていた。「ヒロシマ広場にベンチを置いたらどうかと思っているんです。記念碑を前にして、そこに座ってゆっくり考えられるようにね」。
外林秀人先生、短い間でしたが、大切なことをたくさん教えてくださり、どうもありがとうございました。今度ヒロシマ・ナガサキ広場に行く時は、そのベンチに座りながら、先生が残されたメッセージの意味をじっくり考えたいと思います。どうか安らかにお眠りください。

関連記事:
外林秀人氏死去(ドイツ在住の被爆語り部)
外林 秀人氏(そとばやし・ひでと=ドイツ在住の被爆語り部)12月28日、ベルリンの病院で死去、82歳。長い闘病生活を送っていた。
29年11月長崎生まれ。45年8月に広島で被爆した。留学生としてベルリンに渡り、ベルリン工科大で教授を務めた。原爆投下命令が出された地とされるドイツ東部ポツダムに、「ヒロシマ・ナガサキ広場」や原爆碑を設置する活動に尽力。ドイツ各地で被爆体験を伝えながら寄付を呼び掛けた。(ベルリン時事)(2012/01/02-19:55)
NACHRUF: Hiroshima-Opfer gestorben - Jakobs würdigt Hideto Sotobayashi
(2011-12-31, Märkische Allgemeine)
Letzter Wunsch - Sotobayashi wird in Potsdam beerdigt
(2012-01-06, Märkische Allgemeine)
この記事によると、外林先生の葬儀は1月23日に行われることになったそうです。
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ドイツ人家庭で味わうクリスマス

関連記事:
ドイツのクリスマス用ケーキ種々 (2007-11-27)
10年目の出会いと別れ (2011-10-22)








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10年目の出会いと別れ

この日、フレンツェルさんのお宅にお邪魔したら、テーブルの上はご覧のようにセッティングされていました。わざわざシェーネベルクのパーティー用品店でこの旗を買ってきてくださったらしく、愉快な配慮にうれしくなりました。この時は、私たちの方からの感謝の気持ちを込めて、日本料理と韓国料理をごちそうしました。


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眞峯紀一郎さんインタビュー - 9/9のチャリティーコンサート -

(ドイツニュースダイジェスト・独日なひと 9月2日)
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眞峯紀一郎 まみね・きいちろう
ヴァイオリニスト
1941年東京生まれ。5歳の時から長野県松本市にて鈴木鎮一に師事(才能教育第一期生)。国立音大卒業後、69年旧西ベルリンに留学、翌年ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団に入団し、73年よりバイロイト祝祭管弦楽団のメンバーにもなる。82年以来、ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム記念教会のバッハ合唱団の理事、バッハ・コレギウムの責任者を務めている。
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ベルリンのプロオーケストラに在籍する日本人音楽家のほぼ全員が集まって、1つのコンサートをするというのは初めてのことだそうですね。どういう経緯で実現することになったのでしょう?
事の発端は全くの偶然でした。今年5月、路上で久し振りにヴァイオリニストの知人に会いました。彼女の子どもが通っているベルリン日本語補習校の父兄の間で、ベルリンのオーケストラに在籍する日本人音楽家が集まって、何かできないだろうかという話が出たそうです。どなたかまとめてくれる人がいないだろうかと、その役に私の名前が挙がっていたところで、ちょうど私にばったり会ったというのです。正直言いまして、最初は無理だろうと思いました。こういうことは今までベルリンで実現したことがないし、私の時代に比べたら日本人音楽家の数もずっと増えている。1つにまとめ上げるのは大変でしょう。
そこでまず、ヴァイオリニストの町田琴和さん(ベルリン・フィル)と日下紗矢子さん(コンツェルトハウス管)に御相談したところ、大変協力的で、そこからすうっと決まっていきました。会場に関しても、長年お付き合いのあるカイザー・ヴィルヘルム記念教会に問い合わせてみると、候補の9月9日が運良く空いていました。ベルリン・フィルの樫本大進さんにもお尋ねしてみたら、「この日に予定されていたコンサートがキャンセルになりそうなので、その場合は喜んで出演します」と言ってくださいました。皆さんがとても意欲的なことに加え、いくつもの幸運が重なって実現できることになりました。
「なぜ日本人じゃないといけないのか」「なぜオーケストラの団員でないといけないのか」と叱責も受けました。多くの仲間たちに声を掛けられず、残念に思っていますが、決して国粋主義でもエリート主義でもありません。今回が初めてですし、20人以上をまとめるだけでも大変。もちろん皆さんに手 伝っていただいていますが、これ以上増えると私1人では難しい。そこでベルリンのオーケストラのメンバーで固めて、足りないパートは補うというやり方にしました。間口を広げ過ぎるとキリがありません。アンサンブルの特徴も大切です。ベルリンのオーケストラの日本人メンバーが集まって何かをやるということで、対外的にアピールできるのではないかと思ったのです。
今回のコンサートのプログラム構成について教えていただけますか。
練習時間が限られているので、プログラム構成には吟味を重ねました。皆で演奏するのは、まずエルガーとアイヴズの曲。4年ほど前、ヴォルフガング・ヴァーグナーのグドルン夫人が亡くなった際、追悼式典でバイロイトの仲間がアイヴズ作曲の『答えのない質問』という曲を演奏しました。地震、津波に加えて原発問題と、どうやって対処するべきなのか、解決策が見えていない(まさに「答えのない」)状況の中、ふとこの曲のことを思い出しまして、今回絶対入れたいと思いました。この曲には管楽器が必要なのですが、これもうまい具合に編成に合うメンバーが見付かりました。
それから、親交のあるスロヴァキア人の作曲家、ラディスラフ・クプコヴィチ教授が、私たちの編成に合わせて『2011年3月11日の犠牲者のために』という新曲を書いてくださいました。彼は一時期、前衛作曲家のシュトックハウゼンとも仕事をしていましたが、「こういう音楽に将来はない」と考え、調性音楽に戻った作曲家なので、どんな曲になるのか楽しみにしています。
それ以外に、ベルリン在住の作曲家、番場俊之さん作の < Odor of Time > というヴァイオリンのデュオ、モーツァルトのオーボエ四重奏曲、ドヴォルザー クの弦楽三重奏曲、バッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲を演奏します。指揮はベルリン在住歴の長い沼尻竜典さんにお願いしました。今回のライブ録音をCDにして、売り上げを寄付する計画も決まりました。
集まった募金は仙台フィルに届けられるそうですね。
せっかくこれだけのメンバーが集まるのだから、募金の目的や送り先を明確にしたいと考えました。私たちはオーケストラプレーヤーなので、仙台フィルには知っている仲間もいるし、指揮者の山下一史さんや小泉和裕さんは昔ベルリンで学んだ人たち。オーケストラ同士で励まし合いたいと思ったのです。ありがたいことに、日本大使館をはじめ、ベルリン日本商工会や日独センター、独日協会、日本語補習校も全面的に後援してくださることになりました。
震災直後は、「こんな時、音楽は何の役にも立たないのでは」と感じている音楽家も私の周りにはいました。今、日本は大きな危機に直面していますが、こういう困難な時期において音楽が果たせる役割は何でしょうか。
終戦直後、私は疎開先の松本(長野県)で鈴木鎮一先生にヴァイオリンを習い始めました。「日本が戦争に負けて貧しい時に、男の子にヴァイオリンなんかやらせて何の役に立つのか」と言って石を投げる人もいたので、母は目立たぬよう、風呂敷に包んでヴァイオリンを運んだそうです。
私は30年近くベルリンのバッハ・コレギウムのコーディネートを仰せつかっているのですが、先輩の話では、戦後間もない頃にバッハのカンタータを演奏した時、オーケストラのメンバーのギャラは(燃料の)コークス1本だけだったそうです。そういう時代でも聴衆はいっぱいだったそうで、音楽を求める心は、生きているんですよ。
心を潤す、豊かにする。動物と人間との違いはそこにあるように思います。心の豊かさというのは、私たちが人間として誇りに思っていいこと。音楽が人間の活力に、と言わないまでも、何か心に温かさや喜びを与えるものであれば、それで良いのではないでしょうか。それは、秤にかけてプラスマイナスで計算できるものではありませんよね。
日本では、有名な曲をやらないとコンサートにお客さんが入らないとよく言われます。でも、皆さんの心に安らぎを与えられるのならば、それでもいいじゃないですか。音楽や芸術というのは、目に見えないところで人々にとってプラスになると私は信じています。今度の僕らのコンサートは、ポピュラーな曲ばかりではありません。でも、新作だからといって耳をふさがなくてはならない曲はないと思います。ですから、1人でも多くの方に聴きにいらしていただきたいです。

カイザー・ヴィルヘルム記念教会
2011年9月9日(金)20時〜
入場無料
Kaiser-Wilhelm-Gedächtniskirche
Breitscheidplatz, 10789 Berlin
gedaechtniskirche-berlin.de
Programm:
Edward Elgar: Serenade e-Moll für Streichorchester Op.20
Wolfgang Amadeus Mozart: Oboequartett F-Dur KV 370
Ryoichi Masaka Oboe, Mika Yonezawa Violine,
Masae Kobayashi Viola, Kleif Canarius Violonvello
Toshiyuki Bamba: Odor of Time for two Violins 1986/1990
Mika Bamba, Keiko Kido Violinen
AntoninDvorak* : Terzett C-Dur Op.74 für zwei Violinen und Viola
Daishin Kashimoto, Kotowa Machida Violinen, Naoko Shimizu Viola
Charles Ives: The Unanswered Question
Johann Sebastian Bach: Konzert d-Moll für zwei Violinen BWV 1043
Sayako Kusaka, Kotowa Machida Violinen
Ladislav Kupkovic: Für die Opfer des 11. März 2011
樫本大進氏が演奏出来ない場合は、A.Dvorak のTerzettoの代りにP.Hindemithの Trauermusikを清水直子氏がソリストとして演奏。
指揮: 沼尻竜典(びわ湖ホール芸術監督)
出演:
ヴァイオリン/樫本大進、町田琴和、伊藤マレーネ (ベルリン・フィル)、日下紗矢子 (ベルリン・コンツェルトハウス・オーケストラ)、米沢美佳 (ベルリン・コミッシェオパー)、番場美佳 (ベルリン・ドイツ交響楽団)、矢袋美沙 (ベルリン放送交響楽団)、木戸恵子 (ベルリン・ドイツオペラ)、星秀圃、眞峯紀一郎
ヴィオラ/清水直子 (ベルリン・フィル)、小林雅恵 (ベルリン・コミッシェオパー)、今津文恵、クリストあずさ
チェロ/クライフ・カナリウス (ベルリン・コミッシェオパー), 峰本更 (ベルリン・ドイツ交響楽団)
コントラバス/青江宏明 (ベルリン・コミッシェオパー)
フルート/ロベルト・レルヒ (ベルリン・ドイツオペラ) 他
オーボエ/真坂亮一 (ベルリン・コミッシェオパー)
クラリネット/リヒアルト・オーベルマイヤー (ベルリン・ドイツ交響楽団)
トランペット/四本喜一
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マルティン・レーアさんの授章式@日本大使館

関連記事:
マルティン・レーアさんインタビュー(1) (2010-05-08)
マルティン・レーアさんインタビュー(2) (2010-05-09)
日本大使館から授章式招待の電話をいただいたのが11月の末。ただ、レーアさんが一体何を授章されたのか、授章式がどういう内容なのかも詳しくわからないまま、先週月曜日、ティーアガルテンの日本大使館に妻と足を運んだ。(普段の領事窓口の入り口とは違う)正門から中に入ったこと、入り口で名前の書かれた席札を受け取ったことで、本格的なディナー付きの会であるとこの時ようやくわかった。とりあえず、スーツを着てきてよかったと少々安堵(笑)。
大広間に通され、久々に会った知人と立ち話をしたり、東山魁夷の日本画を眺めていたら、やがて神余隆博大使とレーアさんら賓客が現れ、授章式が始まった。最初に大使の挨拶、続いてレーアさんがブランデンブルク州の儀典長だった当時、州首相だったマンフレート・シュトルペ氏の挨拶、そして最後にレーアさんが挨拶。ヨハネス・ラウ元大統領の未亡人クリスティーナさんも見えていて、華やかでなごやかなムードの中、式は進んだ。その後、神余大使から賞状と勲章が授与。今回レーアさんが授章したのは「旭日小綬章」で、 授章理由は「我が国要人の接遇及び日本・ドイツ友好親善に寄与」とのこと。最後に、ベルリンの音楽大学の学生さんによってシューマンのピアノ四重奏曲が奏でられて(その中に友達の顔を偶然見つけてびっくり)、授章式は終了。
その後、シャンデリアのきらめく別室に通されて夕食が始まった。和洋を絶妙に配した食事はどれも美味で、夢のような時間だった。食事の後、コーヒーを飲みながらレーアさんと話していたら、「(日本に縁の深い)両親がこの場にいたら、さぞ喜んでくれただろう」と感慨深そうに語っておられたのが印象的で、私たちも本当にうれしかった。
レーアさんに出会ったのは2003年の2月だったと思う。あるチェリスト宅のパーティーでだった。たまたまそばにいた紳士と立ち話をしたら、それがレーアさんで「今日、ラウ大統領が、ベルリンを訪問中のプーチン大統領と食事をする場に同席しました」と何気なく話されたのでびっくりした。その時は「プロトコール」という彼の仕事の内容はまだわからなかったのだが、その2週間後、ベルビュー宮殿の内部を案内していただき、レーアさんが大統領府の中でどういう要職にあるのかをようやく理解した。ちょうどベルリンでは小津安二郎の生誕100周年の特集が組まれており、ポツダム広場の映画館に『晩春』を一緒に観に行くことになった。上映まで少し時間があったので、夕食をご一緒し、そこで、父親の仕事の関係で幼少期に6年間日本に住んだこと、その体験がその後の自分に少なからず影響を及ぼしたことなどを話してくださった(小津映画の何本かも、50年代当時リアルタイムで観たという)。レーアさんと話していて感じたのは、その物腰の柔らかさ。わかりやすい言葉を選んでゆっくり話し、私のつたないドイツ語にも真摯に耳を傾けてくださる。そして、周囲へのさりげない気配り。育った環境も歳もまるで違うのに、この方とは心を通わせられると感じた。音楽という共通の趣味があったことも大きかったと思う。レーアさんとはいろいろな思い出があるが、いつお会いしても「こういう大人になりたい」と思わせてくれる方である。
いつの間にか夜も12時近くになっていて、周りの方はもうほとんど帰途についていた。帰り際、神余大使ご夫妻に少しお話しすることができた。ドイツニュースダイジェストに書いている私の記事は折に触れてご覧くださっているそうで、「これからも積極的に日独の交流に務めてくださいね。応援しています」と激励のお言葉までいただき、これにも感激。妻も大変楽しかったようで、行く前は緊張気味だったのだが、「みなさん、おエラい方というか、、、すごい方ばかりの堅いパーティーを想像してたけど、気さくに話したり挨拶を交わしてくださるし、私のつたないドイツ語でもちゃんと聞いて返事をしていただけたのが、うれしかった」と話していた。2010年がそろそろ終わるという時期、来る年に向けても、大きな刺激と活力をもらった一夜でした。
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外林秀人さんインタビュー(3) -核をめぐる2つの場所-

外林さんが長年勤めたマックス・プランク協会のフリッツ・ハーバー研究所は、奇しくも核をめぐるもう1 つの原点の場所と向かい合っていた。問われる政治家と科学者のモラル。
私のダーレムの研究所の近くに、旧カイザー・ヴィルヘルム化学研究所(現Otto-Hahn-Bau)があって、1938 年にオットー・ハーン、フリッツ・ストラスマン、リーゼ・マイトナーたちはそこでウランの核分裂を発見しました。原子核のエネルギー利用が人間の手に渡ったのです。その7年後の1945 年7月16 日、トルーマンがポツダム滞在中、原爆完成の報告を受け、25日に原爆投下の命令が出されました。そこから言えるのは、科学者の彼らは、原爆のことなどもちろん頭になく、ただ科学的な好奇心から研究を突き進めたわけです。ところが7 年経って、その成果が爆弾という形になって現れてしまった。ここです。面白いと思ったら何をやっても良いのだろうか? 例えば、アインシュタインは最初原爆開発の提案をしましたが、その破壊力に恐ろしくなり、実際の開発には関わりませんでしたよね。そういう人間的なところがある。ところが、原爆は実際に生まれ、実行へと移されてしまった。私はここに科学者と政治家の道徳や倫理の不足を感じます。
それゆえ、私はこの記念碑の最後の文章にこう付け加えたかったのです。「われわれはよく考えなければならない。政治的、科学的な好奇心には限界がないのか? そこに道徳的、倫理的な障害物があるべきではないだろうか?」と。ベルリンのダーレムで核分裂が発見され、紆余曲折を経て7 年後、ポツダムのこの館での命令によって原爆投下が実行に移された。両者は20 キロと離れていません。原子爆弾の歴史でこれほど意義のある場所はないと思うのです。私が提案した一節は、ポツダムの州議会での議論の末、残念ながら削除されてしまいましたが、この記念碑はそのような問いかけ、思索の場所になればと願っています。
子供を試験管で作ってもいいのか、あるいは広島・長崎の何千倍もの威力を持つ原爆を作ることにどんな意義があるのか。そういったことの限度を人間の文化の程度によって定める必要があるのではないだろうか。他に重要なのは原子力エネルギーの利用の問題です。プルトニウムというのは、元来自然界には存在しませんでした。核の開発の過程で人間が偶然作り出し、今その処理に困っている。アメリカの原子力委員会は、「(プルトニウムは)100万年管理せよ」ということを言っています。放射能が消えるまでそのぐらいかかるというのです。一体どれくらいの年月なのか想像してみてください。このプルトニウムを今どんどん作っていて、後の世代に管理を任せようとしている。これが原子力エネルギーの根本です。原発が世界中で稼働している現実を皆さんに考えていただきたい。自然界になかったものを人間が勝手に作り出し、それを100万年管理してくださいだなんて子孫に言えますか?CO2の問題とは根本的に違うんです。そういうことを結局政府は伝えようとしない。

倫理なき科学の進歩、そして原子力エネルギーの利用にも警告を唱える一方、核廃絶を目指すオバマ大統領の存在や、この夏米国駐日大使が広島の追悼式典に初めて参列したことなどは、希望と感じている。最後にこんなことを語ってくれた。
この前、完成した原爆記念碑を改めて1人で見に行ったのですが、ノルウェーから運ばれて来た大きな石が、太陽を浴びてぴかぴか光っていたのです。私にはその光がどこか精霊のように見えてきました。ひょっとしたらほかにもいらっしゃるのかもしれませんが、このベルリン・ブランデンブルク周辺の被爆者といえば、長い間私1 人でした。でも、この慰霊碑ができてからは、何となくたくさんの慰霊が来てくれたような気がするんです。ずっと1 人で叫んでいたのが、今は多くの人が後ろに付いて立ってくれている。とても心強い思いがします。
(ドイツニュースダイジェスト 10月1日)

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外林秀人さんインタビュー(2) -なぜ被爆体験を封印してきたか-

「見ません、聞きません、しゃべりません」という猿のことわざではないですが、言い出すと思い出すし、思い出すと嫌になる。別にそれで何か得があるわけでもない。もちろん原爆について何かを伝えなければという思いはあります。ただ、被爆者ということで疎外される現実があるのです。例えば、今回のヒロシマ広場の原爆記念碑に広島と長崎からの被爆石が埋め込まれましたが、「被爆した石というと、ドイツ人が嫌がるからあえて書かない方が良いのではないか」という反応がありました。冗談ではないと。被爆者の悲劇が疎外されている。「触らない方が良いだろう。何が起こるかわからないから」ということですが、こういったことは被爆者に対しても当てはまります。科学的には全く意味のないことですが、かといって科学的には意味がないと言って削るわけにもいかないんです。実際わからないですから。被爆した人に何らかの影響が出るのは、10年後なのか20 年後なのか、あるいは次の世代なのか。恐いのはそこです。原爆というのは実験なんです。そして、その実験はまだ完了していない。
例えば、私の弟に息子と娘がいるのですが、「縁談に影響するから、(被爆のことは)あまり大っぴらに話さないでほしい」と言われたことがあります。エイズのように、いろいろな噂が流れ、それが疎外につながっていく。また、私は亡くなった母の慰霊を広島の国立の記念碑に登録したかったのですが、それも「ちょっと待ってほしい」と周りから止められました。自分の親族が原爆の被害者だということを知られるのを嫌がるのですね。被爆者への疎外というのは、広島の中でも外でも、いまだに根強くあるんです。そういうことがあるから私も口を控えて、人が嫌がることを敢えてやる必要もないだろうと思っていました。

転機は2006年に訪れた。愛知万博の最終日に、『ドイツの原子力物語』(総合工学出版社)の共著者である科学者の外山茂樹氏、そして仁科浩二郎氏に後押しされ、3人で講演会を名古屋で行った。日本で被爆体験を語った最初の機会だったという。
反響は大きく、同じことをドイツでもやったらどうかということになったんです。特にその後押しをしたのが、私の妹でした。終戦の年、当時10歳以下だった妹は広島の郊外に強制疎開しており、母がその様子を定期的に見に行っていました。子どもたちにとっては母親と一緒に寝るのが楽しみだったのですね。8月の初頭、恋しがる妹の希望で、母は滞在を少し延ばしました。ところが、そのために、8月6日が勤労奉仕(空襲の際、火の回りを遅らせるために、建物を壊して道路を拡張する作業。町内ごとに分担が決まっていた)の分担の日に当たってしまった・・・・・・。もし母がそのまま帰って、前の日に勤労奉仕をしていたら、助かっていたかもしれない。妹はそのことに対して責任を感じていて、原爆の反対運動に対して熱心でした。それだけに、私が名古屋で話したことも喜んでくれて、「お兄さん、しっかりね」とドイツでの講演も応援してくれたのです。
2007年にベルリンの日独センターで講演を行って以来、ドイツはもちろん、ヨーロッパの諸都市で原爆の体験を語り続けてきた。そこで集まった募金は、記念碑設立の資金に回された。現地の人々の反応はどうだったのだろうか。
反応はとても良いです。私が原爆を受けた時と同じ、15、6歳ぐらいの若い皆さんの前で話す機会もありますが、後でいただいた手紙を読むと、アメリカを憎むとか、責任者は誰々だとか、そういうことではなくて、「人間が、こんなことをして良いのですか?」という純真な反応を示してくれます。

今回のポツダムの原爆記念碑に関して、現地在住のアメリカ人による投稿が地元紙に掲載された。「この記念碑を作ることによって日本人は被害者の立場に立ち、戦争責任から目を反らそうとしている」という趣旨の投稿に対して紙面上で議論が交わされ、ちょっとした話題となった。
広島と長崎に原爆が落とされて、被害を受けたのはもちろん日本人です。でも私は、原爆というのは神が人類全体に対して行った行為だと思っています。私がいろいろ意見を言っているのも、日本人としてではなく、こういう悲劇は二度と人類に起きてはいけないという意味で、多くの人間の1人としてお話ししています。核の危険性が増す中で、ボタン1つ押せば原子爆弾は飛ぶんですから。すると、相手も自動的にボタンを押すでしょう。それによって人類は滅亡するんです。最後なんです。人類全体の問題として私は話をしているのに、議論の程度が低くなると、誰々が殺した、だからこちらも誰々を殺した、ということになってしまう。原爆の悲劇はわれわれだけでいい。その望みをこれからの人々に託したいという思いから、私は今いろいろな場所でお話ししているのです。
(つづく)
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外林秀人さんインタビュー(1) -ベルリンほど原爆に安全な場所はなかった-

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外林 秀人
そとばやし・ひでと
工学博士
1929年長崎市生まれ。16歳の時に広島で被爆。京都大学工学部を経て、マックス・プランク研究所教授、ベルリン工科大学非常勤教授(高分子物理化学)を歴任。1994年定年退職、ベルリン在住。
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ポツダム会談の会期中の1945年7月25日、トルーマン米大統領は、当時滞在していたポツダム市郊外のグリープニッツ湖畔の邸宅で、日本への原爆投下命令を下したと言われている。あれから65年が経った今年7月25日、歴史的な邸宅の前の「ヒロシマ広場」にて、新しい記念碑の除幕式が行われた。この「ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会」の中心メンバーの1人として記念碑設立に尽力してきたのが、外林さんである。
外林さんは、1957年にフンボルト財団の奨学生として海を渡って以来、科学者としてほぼ途切れることなくベルリンに住んでいる。壁の建設、東西冷戦の実情、そして壁の崩壊に至るまで、直に体験してきたベルリンの昔の話からインタビューは始まった。
1957年、28歳の時にフンボルト財団の奨学生としてベルリンにやって来ました。当時すでにヨーロッパへ飛行機が飛び始めていましたが、京都大学の高分子学科の桜田先生は、「お前はまだ時間があるのだから、船で行きなさい」とおっしゃるので、神戸からジェノヴァまで貨物船に乗って約4週間かけてヨーロッパにやって来ました。
1961年8月13日は、車でイタリアを旅行していました。現地の新聞が盛んにベルリーノと報道していて、そこで壁ができたことを知ったんです。もちろんびっくりしましたが、自分にとって一番大事な所有物である車は持って出ていたので、急いで戻る必要もないなと。その約1週間後、ベルリンに帰る時に、ちょうどハノーヴァーからアメリカ軍の戦車が西ベルリンに入るのにぶつかって、一緒に走ってきました。西ベルリンの市民は大喜びしていましたよ。もちろん私に対してではなく、アメリカ軍に対してでしたけれども。ジョンソン副大統領が西ベルリンを訪れたのもちょうどその時だったと思います。よく覚えているのは、(西ベルリンに入ってすぐの)ヴァンゼーで市民から花束をたくさんもらったことですね。当時は西ベルリンを出て行く人ばかりだったから、ベルリンナンバーの車がわざわざ戻って来て、しかもそれが外国人だったから、「よく帰って来てくれた!」と歓迎されたのです。
いろいろな経験をしたのは、東ドイツと西ドイツ、表面上は喧嘩しているように見えても、下では手を握っているようでしたね。アメリカやソ連の援助を引き出すために、時々危ない場面も作り出すわけです。そういう政治の裏事情はよく感じられました。何か突拍子もない事件が起きても、「これは本当に喧嘩しているのか?どこまで本気なのか?」と思ってよく見ると、予め下の方で仕組まれていて、経済援助を引き出すためにわざとやったのではないかと思うことがよくありました。政治というのは作り事ですよ。壁を作って、(意図的に)緊張を生み出す。東独では車を運転する際に嫌がらせも受けましたね。検問所で丹念に検査をすれば、20〜30キロの渋滞はすぐにできます。車を追い越す時にウインカーを出したとか出さなかったとかで嫌がらせを受けましたし、ドレスデンにオペラの招待を受けて出かけた時は、ビザの関係でその日のうちに帰って来なければならなかったのですが、なにせ道路状態が悪いでしょう。10分ぐらい遅れただけなのに、もう大変。検問所で車の中のありとあらゆる場所を調べられました。
これだけ長く住んでいますから、やはりベルリンが好きなのでしょうね。フリッツ・ハーバー研究室の雰囲気も大好きで、昔からの伝統があり、やりたいことが自由にできる最高の環境でした。もう1 つ、ベルリンに長く住んでいる理由は、ベルリンほど原子爆弾に対して安全な場所は世界になかったからです。アメリカもソ連もここには決して原爆を落とせなかったでしょう。ソ連が西ベルリンに攻めて来るなんて言われていましたが、進撃にだって時間は掛かる。一番恐いのは原爆ですよ。ここにいれば二度と原爆には遭遇しないだろうと信じていましたから。
(つづく)
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