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ベルリン-東と西が出会う場所。ドイツにありながらドイツではない町。歴史の影に彩られた栄光と悲運の世界都市。そんなベルリンの奥深い魅力をリアルタイムでお届けするブログです。Since 1. August 2005


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中村真人 (Masato)
神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。ベルリンの映像制作会社勤務を経て、現在はフリーのライター、ジャーナリスト。


ベルリンガイドブック
「素顔のベルリン」増補改訂版
¥1,680
ダイヤモンド社
(Amazon、全国各書店にて発売中)

本書は2009年10月発行「素顔のベルリン」の増補改訂版です。2013年に改めて新規取材を行い、データを更新。レストランやショッピング、コラムなどのページも増量し、より充実したガイドブックに生まれ変わりました。

Amazonにてネット購入ができます。



『街歩きのドイツ語 』
¥1,575
三修社

豊富なビジュアルとドイツ語フレーズを楽しめる1冊。基本のあいさつ表現から、街にまつわるドイツ語豆知識まで、ガイドブックとともに旅に役立つ会話集です。




『素顔のベルリン 過去と未来が交錯する12のエリアガイド 』
¥1,575
ダイヤモンド社
(2009年発売)

地球の歩き方シリーズ初、待望のベルリンガイドブック誕生!比類なき歴史を抱えつつ、明日へ向かって日々進化し続ける首都ベルリン。「ドイツで最もドイツらしくない」といわれるこの町の知られざる魅力を、現地在住著者が12のエリアにわけて徹底紹介。


現在のトップ画像は、ベルリン在住のイラストレーター、高田美穂子さんによるオリジナル作品です(詳しくはこちらより)

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カテゴリ:ベルリン思い出話( 10 )

1978年9月、西ベルリンにて(2)

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Kさんからお借りした写真の中には、ベルリンの壁を写したものが何枚か含まれていた。その中でも私が気になったのはこの1枚。手前から奥に続く、建物の廃墟が何かの遺跡のように見え、興味を引かれた。「ブランデンブルク門からそう遠くない場所だったと思います」というようなことをKさんはおっしゃっていたが、あの近くにこんな場所があっただろうか。実は、この写真をお借りしたのは、ここにアップすればベルリンに詳しい読者のどなたかがひょっとしたら何か教えてくれるかもしれない、という期待があったからだった。

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結局決め手になったのはこの1枚だった。この場所には見覚えがある。手元にある「Wo die Mauer war」という写真集から見当をつけてめくってみたら、案の定同じ場所からの風景がでてきた。ここは、ベルナウアー通りとエバースヴァルダー通りの境にある見晴し台である。左上の店の看板「Klub der Volkssolidarität」(人民連帯組織クラブ)も本の写真と同じだ。よって、右手に続く通りは、いまはおしゃれな通りとして知られるオーダーベルガー通りということになる。

関連記事:
アルコーナ広場周辺を歩く(3) (2006-02-25)

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だとすれば、同じ見晴し台からのこの風景は、シュヴェーター通りに違いない。ここは中心部からは少し離れるし、ブランデンブルク門から普通は歩く距離ではない。Kさんらはバスのツアーで行かれたのかもしれない。

関連記事:(東側から見たこの見張り台の様子)
壁とタイムカプセル (2007-10-04)

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こんな写真も見せてくださった。Deutsche Postの仮設の郵便局が面白い。これも中心部らしいのだが、どなたかこの場所をご存知の方、いるでしょうか。

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コンサートマスターの隣で弾いているのがKさん。早稲田大学交響楽団がカラヤンコンクールで優勝した後、受賞したオーケストラのメンバーから成る特別編成のオケが組まれ、その本番に向けたリハーサルの様子だという(Kさんによると、後ろで弾いているのは音大の上手な学生ばかりで、恐縮したそうだ)。このコンサートは、カラヤンが振ることになっていたのだが、急病のためそれは実現しなかった。だが、カラヤンはその翌年来日した際、ワセオケのために公開リハーサルをしてくれ、コンクール優勝を機に海外への演奏旅行が実現するようになった。私が1998年に初めてベルリンに来たのもその演奏旅行だったし、その時の強烈な体験が今ベルリンに住んでいることへつながっていると思うと、32年前のKさんたちの活躍に感謝したくなる。

関連記事:
早稲田大学でのカラヤン (la_vera_storiaさんの回想録)
1986年3月東ベルリンにて - ある日本人の回想 - (2007-08-27)

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by berlinHbf | 2010-06-09 17:58 | ベルリン思い出話 | Comments(14)

1978年9月、西ベルリンにて(1)

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今年の2月初頭、クーダムから一歩入ったカフェで、ミュンヘンからやって来たあるお客さんに会う機会がありました(仮にKさんとさせていただきます)。Kさんは、その昔早稲田大学のオーケストラでヴァイオリンを弾いていたという、私の大先輩にあたる方。現在は日本の精密機器メーカーに勤務されています。それまで面識はありませんでしたが、昨年ミュンヘンに赴任するに際し、別の方を通して私の存在を知り、直接コンタクトを取ってきてくださったというわけです。

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Kさんがオーケストラのメンバーの一員としてベルリンにやって来たのは、1978年の9月。カラヤン財団が主催する国際青少年オーケストラ大会に出場するためでした。結果的に、早稲田大学交響楽団はこのコンクールで優勝することになったのですが、Kさんのベルリン訪問はそれ以来とのことで、コーヒーを飲みながら大変感慨深そうにされていました。

「動物園駅で降りて、駅前の広場を見た瞬間に32年前の記憶がよみがえりました。コンクール優勝が決まった日の夜、そこで『都の西北』をみんなで歌ったんです」。

当時のお話をいろいろと伺った後、長い間実家に眠っていたという写真を見せてくれました。「ここはどこだろう?」と思わせる写真も中にはあり、私が興味を示したところ、「よかったらお貸ししますので、好きなだけ持って帰ってください。使い道はお任せしますから」とおっしゃってくださいました。ご好意に甘えて、ここでアップさせていただくことにしました。

(1枚目は、「カラヤンコンクール」のポスター。2枚目は、78年のベルリン芸術週間のポスター)

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当時は西ベルリンの果てに位置したフィルハーモニー。現在のKemperplatz付近から撮った写真と思われます。

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そこからほど近い、ポツダム広場の見晴し台から撮ったと思われる写真。80年代の写真を見ると、この付近の壁は一面グラフィティで満たされていますが、78年の時点では、まだごくわずかな(政治的な)落書きしかなかったことがわかります。正面やや右の建物には、Staatsverlag der DDR(DDR国立出版)の文字が見えます。右手の小高い丘の存在も気になるところです。

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西側から見たブランデンブルク門。これも見晴し台からの1枚でしょうか。せっかくの機会なので、Kさんからお借りした写真をあと何枚か、ここにアップさせていただこうと思います。

(つづく)

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by berlinHbf | 2010-06-07 18:51 | ベルリン思い出話 | Comments(1)

山根寿代さんが見た1989年10月の東ベルリン

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The Westin Grand(8月31日)

秋に日本に一時帰国した際、このブログで以前数回に分けてご紹介した山根寿代さんに再会する機会がありました。変わらずお元気そうだったことにまず安心し、今回もまたいろいろと興味深い話を伺いました。世界中を旅行されている山根さんですが、その中でもとりわけ私にとって印象深かった、1989年10月に団体ツアーで東ベルリンを訪れた時の話をご紹介したいと思います。夏にいただいた手紙の中から大部分を引用し、実際に聞いた内容も加えて構成しました。

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最後の訪問地ベルリンへ行く朝、確かライプチヒだったと思いますが、泊まっていた駅前のホテルの窓を開けて外を眺めましたら、朝早いにも関わらず沢山の若者が集まって居りました。後で知ったところによると、東ドイツの建国40周年記念が行われるベルリンでのパレードに参加する為でした。私達はバスで東ベルリンの町へ入りましたが、余りの人でバスが動かず途中下車となり、グランドホテル迄荷物を持って歩きました。ホテルの前も人で溢れ、今も目に浮かびます。

夜も松明行列で壮観でした。今思えば東ドイツ最後の年だった訳です。私達は15人のツアー。ホテルでは、我々を見たピアニストが突然『上を向いて歩こう』を弾きはじめ、歓迎してくれました。その後、駅名は忘れましたが、二駅ほど電車に乗ってパレードの見える広場へ行き、殆どがソ連の戦車や大砲の行列を眺めました。

背伸びしないと見えない程の人垣でしたが、そこに何の為かコンクリートの四角い塊があり、その上に若い親子が乗っていて、狭いところなのに私にも乗れと引っ張り上げてくれました。その時私が“Can you speak English?“とききましたら、“No“とのことでしたが、すぐ彼が“I am Berlin“と云ったので私も“I am Tokyo“と答え、この単純な面白い会話を今も覚えて居ります。(その短いフレーズだけで)東ベルリンに住むドイツ人とわかったのですから、何でも声を出してみるものですね。私のことも日本人と思ったことでしょう。因みに世界中とは少々大袈裟ですが、殆どの国の人が“Tokyo“は知って居りました。

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翌日帰国するという前夜、隣が劇場でしたので、お芝居を観に行きました。ところが出演者が風邪をひいたので病気で中止と言われました。日本語が流暢な現地のロシア人ガイドさんが、それでは劇場内が美しいから見学しようという事になりましたが、それも断られました。翌日帰国だし、鞄の整理の事もあるからと諦めて部屋に戻ったのでした。

帰りの飛行機の中で知ったのですが、その時劇場内では集会が開かれて居り、出演者云々の事は口実だったそうです。恐らく壁の崩壊の1ヶ月前ですから、各地で集まっていたことでしょう。ホテルに戻ります時、警官が多いなとは思いましたが、帰国後きっかり1ヶ月目のあの壁のTVを観ました時は、涙で霞む程の感動でございました。誰も怪我をすることなく、ベルリンが一つになったのですから。あの夜は本当に静かなクーデターのようでした。チャーリーポイントを通った時のことも忘れられないことでございます。


(注)
山根さんが宿泊された「グランドホテル」は、その2年前フリードリヒ通りにオープンした当時東ベルリンの高級ホテル(現The Westin Grand。上の写真)。「2駅ほど電車に乗って行った」のは、アレクサンダー広場。「ホテルの隣の劇場」とは、コーミッシェ・オーパーに間違いない。

山根寿代さんについては、この夏に書いた以下の記事もぜひご覧ください。
- ベルリンで出会った一枚の写真 - (2008.08)
- 祖父山根正次 -
- 森鴎外からの手紙 -
- ベルリンの恩師との再会 -
- 仕事、旅、そして人生 -

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by berlinHbf | 2008-11-13 13:18 | ベルリン思い出話 | Comments(6)

私とベルリンとの出会い 1988-2006

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ポツダム広場にて。手前はかつての壁の一部(2006年1月9日)。

今回は非常に長い内容になってしまいましたが、私がいかにしてベルリンという町を知り、興味を持つようになったのか、その一部について書いてみたいと思います。自分がなぜここにいるのかを問い直す上でも、一度書いてみたいことでした。大変長いですが読んでいただけると幸いです。



私がベルリンという町の存在を知り、漠然とした興味を抱いたのはいつかと考えると、まず思い至るのは1988年という年だ。私はこの年の春に中学校に進学したのだが(完全に歳がバレる^^;)、その中学時代最も楽しかった授業の一つに、1年生の地理の授業がある。私はもともと地図を眺めるのが好きで、日本地図を眺めては見知らぬ土地に思いを馳せていた。思いが高じて、この年の夏には九州を一人で旅して回ったほどだった。だが日本だけでなく、世界にも興味を持つようになったのは、この地理の授業がきっかけだったかもしれない。

社会科の山田先生は世界中を回られているという方ではなかったが、とても誠実な人柄の先生で、毎回世界のいろいろなことを教えてくださった。ご自身が訪れた国の写真を持って来て授業中に見せてくれることもあったし、地図帳や写真の豊富な資料集も折々参照しながら、ちょっとした旅行気分も味わえる楽しい授業だった(少し前に聞いた話によると、山田先生は横須賀市内のある中学校で、現在は校長先生として活躍されているらしい)。

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授業はアジアから中東、アフリカの順で進み、ヨーロッパに入ったのはその年の10月ではなかったかと思う。「ドイツ連邦共和国(首都ボン)」と「ドイツ民主共和国(首都ベルリン)」をセットにして覚えた。そして、「ヨーロッパ共同体(EC)」と「経済相互援助会議(コメコン)」のセット、また「北大西洋条約機構」と「ワルシャワ条約機構」の組み合わせもよく覚えている。国際河川ライン川については、山田先生がコブレンツ(ライン川とモーゼル川がここでぶつかる)を訪れた時の写真を見せてくれた。いずれも教科書では太文字になっていたと記憶している。教科書の太文字の項目というのは、まず重要だからそうなっているのであり、そしてそれはずっと続くものなのだと当時の私は漠然と思っていた。

学校で習った時期とどれぐらい前後しているかは定かでないが、私は母親からソ連の話を聞いたことがあった。母は70年代前半にソ連を旅したことがある。スーパーにいかにものがなかった話とか、それに関連してだったかベルリンの壁の話もしてくれた。詳しい内容はもう覚えていないが、こういうことを言ったのだけは覚えている。
「ベルリンの壁は私が死ぬ頃までなくならないだろうね」

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ベルリンに漠然と興味を抱くようになったきっかけとしてもう一つ、私が横須賀という基地のある町で生まれ育ったということと、どこかで関係している気がする。80年代の冷戦の最中、米軍の基地という特殊な環境下の横須賀では平和運動が盛んだった。親に連れられて、原爆や核の脅威が一体どれほどのものなのかを示した展示会や映画を結構いろいろ見せられた。厚木基地や横須賀基地にソ連からの核ミサイル「トマホーク」が落とされたら、どのくらいの被害を受けるのかをリアルにシミュレーションした映像も見たことがある。そういうことが大真面目に語られていた時代だったのである。それらの映像は、小学生の私には夢にまで出てきそうなくらい、恐ろしいものだった。

今にして思えば、横須賀という基地の町に住む自分、米ソの冷戦、そしてその最前線にあるベルリンという町、その3つの現実が私の中で徐々に重なり合っていたような気がしてならない。

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現実のベルリンの映像を初めて見たのは、同じ年の12月だったと思う。1988年の秋、オリエント急行が日本にやって来た。フジテレビの開局何10周年かの記念企画の一環で、かの豪華列車がパリから、東ヨーロッパ、シベリア鉄道を経由して、ユーラシア大陸の果ての北京へ。そして最後は上海から船に運ばれて日本にやって来たのである。当時の政治の状況下で、よくこのような壮大な計画が実現したものだと思う。そのオリエント急行が日本に来るまでの様子を追ったドキュメンタリー番組が、12月にフジテレビで放映されたのだった。

パリでの華やかな出発の様子、番組の最後でオリエント急行が広大な黄河を渡る場面など、見どころは少なくなかったと思うが、私が一番印象に残っているのは列車が東ベルリンに入るシーンだった。駅(フリードリヒ・シュトラーセの駅かな?)に到着すると、物々しいDDRの警備隊が車内に乗り込んでくる。「列車に緊張が走ります」というナレーター氏の一言。短いシーンだったが、東西に分断されたベルリンの様子がリアルに伝わってきて、私は食い入るようにして画面を見つめた(その番組はビデオに録画したのだが、直後壊れてしまい、残念ながら再び見直すことはできなくなってしまった)。

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昭和天皇が亡くなり重い空気の中で始まった1989年、その3学期最初の登校日の授業で、なぜか横須賀の核脅威に関するビデオを見せられたのはよく覚えている。市の教育委員会が作ったのか、ちゃちな再現VTRが入った映像だったが、横須賀は依然ソ連からの核の脅威にさらされている現実に対して、改めて念を押されているような感じがした。

ゴルバチョフがテレビのニュースによく登場するようになって、何かが少しづつ変化しているのに気付いていたと思うが、私は学校と部活動に追われていて、その年の世界の出来事については天安門事件を除いてあまり覚えていない。あの11月9日までは。

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ベルリンの壁崩壊のニュースは、夜の「ニュースステーション」で私は知った。いきなり目の前に飛び込んでくる映像を見て、全く信じられない思いだった。大勢のベルリンの人々が抱き合い、人目を憚ることなくみんな泣いている。そして、トラバントに乗った東の人々を西の人が拍手で迎える。あれはまさに歓喜というにふさわしいものだった。私はテレビの前で呆然となった。物が溢れ、バブル期の絶頂だった日本のテレビで目にするのは、大学生がコンパでバカ騒ぎしている映像とか、そういうものが多かったように思う。人間がああいう風に喜びと感動を表しているシーンを私はそれまで見たことがなかったのかもしれない。

画面のベルリンの人々の様子を見て全く興奮が抑えられなくなった私は、次に何をしたかといえば、2階で寝ていた母親をたたき起こしに行くことだった。「ベルリンの壁が壊れたよ!」と。

「壁は自分が死ぬ頃までなくならない」と私に言っていた母親に、「それ見たことか」と言ってやりたい気持ちも働いていたのだと思う。80年代の重苦しい現実と、あのベルリンの人々の歓喜との対照は実に鮮やかだった。世界がこうもひっくり返るなんてことがあるんだ。横須賀にトマホークが撃たれる危険もとりあえずはなくなったのだった(ほっ)。

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激動の1989年も年の瀬を迎えたが、その月で印象に残っているシーンが2つある。まず冷戦の終結を告げるマルタ会談でゴルバチョフ書記長とブッシュ(シニア)大統領ががっちりと握手している場面、そして年末に処刑されたルーマニアのチャウシェスク大統領の遺体の写真だ。両方とも新聞のトップ面にでかでかと掲載されたので、極めて印象に残っている。あの2つのシーンで、共産主義独裁体制の終焉と新たな時代の幕開けを期待した人はきっと多かったはずだ。おぼろげだったとは思うが、中学生の私もその1人だった。

あれから16年。世界はよくなるどころか、逆に悪くなっている印象さえ受ける。核の脅威は依然なくならないし、文明国家はテロという別の脅威に直面することになった。あの輝かしい歓喜の渦で満たされたベルリンとて、明るい話題はむしろ少ない。相変わらず失業率は高いし、東西の格差は今後も簡単には埋まらないのだろう。壁の崩壊と早急なドイツの再統一を今となっては醒めた目で見る人がいることも、もちろんわかっている。

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さらに言うと、当時私が見たベルリンというのは、全てメディアを通したものに過ぎない。壁の崩壊は「西側世界の勝利」であるかのように、日本のメディアは劇的に報道したが、当時の事情を詳しく知る方はまた違う意見をお持ちだろう。このブログでも分断時代の跡をいろいろ訪ねてはいるものの、勉強不足だったり私の勘違いが含まれていたりと、笑止千万なところもあるのは承知の上のこと。実際のところ、いろいろ書いてはいるが私はあの時代について何もわかっていないのかもしれない。本物のベルリンを私が初めて訪れたのは、その約10年後の1998年のことだった。

しかし私はメディアを通してとはいえ、1988年から89年にかけて目の当たりにした一連の出来事を決して忘れることはないだろう。世界が動くということをこれほど実感させられた年もないし、そのことを私に教えてくれたのがベルリンであり、あのベルリンの人たちだった。世界は変わり得るし、また時には自ら変えることさえできる。こう言うと楽観的に過ぎるかもしれないが、私にとってベルリンという町は、人間のそんなポジティブなエネルギーの象徴として今もあり続けているのかもしれない。

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by berlinHbf | 2006-03-23 00:14 | ベルリン思い出話 | Comments(28)

ベルリン生活は家探しから(6) -「生き残った」アパート-

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(前回のつづき)
ヴァルター・ベンヤミンの「1900年頃のベルリンの幼年時代」の中の「ブルーメスホーフ12番地」。その後半では、ベンヤミンのおばあちゃん宅でのクリスマスの様子が描かれている。盛大な食事やプレゼント交換といったあたたかい情景の後、最後はこのように終わる。

この日、祖母の住まいに来てから、もう何時間も経っていた。それから、しっかり包まれ紐をかけられた贈り物を腕に、私たちが夕暮れの路上に出ると、建物の入り口のまえに辻馬車が待っていて、雪は軒蛇腹や格子垣のうえでは誰にも触れられぬままに白く、舗石の上ではいくらか汚れて積もり、リュッツォ岸通りからそりの鈴の音が響き来たり、そして、ひとつまたひとつと点っていくガス灯が、点灯夫の足取りをこっそり教え、甘美な祝祭日の宵にも点灯夫は点灯竿を肩にかつがねばならなかった、この夕暮れどき―そのとき街は己れ自信のうちに深く沈潜していた。私と私の幸福を包んでずっしりと重くなった袋のように。

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この運河沿いの道を幾度となく歩いた私には、ここに描かれている甘美な情景を思い浮かべるのはそれほど難しいことではない。20世紀初頭、ティーアガルテン南側のこの界隈では、裕福な市民(ブルジョワ)の生活がまだ平和に営まれていたのだった(写真は現在のリュッツォ岸通り)。

ところで、Berliner Stadtplanarchivというサイトでは、1906年当時のベルリンの地図をネット上で見ることができる(ベルリンの年代別の地図をつぶさに観察できる、このすばらしいサイトを教えてくださったla_vera_storiaさんに感謝!)。もしご興味があったら、こちらをご覧いただきたい。
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ここにコピーするのはその一部分だけだが、ベンヤミンの祖母の家があったブルーメスホーフ(Blumesh.)をはっきり確認することができる。その右隣にエリザベート病院という大きな病院があるが、私が住んでいたアパートは、"Elisabeth Krankenh."と書かれた中の、ほぼ"s"の位置の中庭(Hof)にある。ブルーメスホーフとは、まさに目と鼻の距離ということがおわかりいただけると思う。

私が住んでいたこのシェーネベルク岸通りのアパートに、当時どのような人が住んでいたのかは残念ながらわからない。だが、ベンヤミンが言うように、アパートの造りから見て、ここにもかなり裕福な人々が住んでいたのは間違いないだろう。ユダヤ人も多く住んでいたはずだ。この近所にはかつて、ユダヤ教の礼拝堂であるシナゴーグもあったのだから。

この地図では他に、ベンヤミンが生まれたマグデブルク広場(Magdebg.pl)やラントヴェーア運河(Landwehr Kanal)も確認できるし、前回ご紹介したマタイ教会(Matthäus K.)も運河の北側にイラストで描かれている。南から北東へ伸びる、白で太く描かれた線は、ポツダム通り。運河の上に架けられたポツダム橋(Potsd.Br.)を渡って道なりに沿って行くと、繁華街のポツダム広場(Potsdamer Platz)にぶつかる。以上が、この界隈の20世紀初頭の大まかな様子である。

ではその後、ヴァルター・ベンヤミンとブルーメスホーフの彼の祖母の家、そしてシェーネベルク岸通りの私が住んでいたアパートには、どのような運命が待ち受けていたのだろうか。

「1900年頃のベルリンの幼年時代」の序文は、このような文章で始まる。
1932年に外国にいたとき、私には、自分が生まれた都市に、まもなくある程度長期にわたって、ひょっとすると永続的に別れを告げなければならないかもしれない、ということが明らかになりはじめた。
ベンヤミンがこのエッセーを書き始めた翌1933年、ヒトラー率いるナチスが政権を握ると、ベンヤミンは故郷のベルリンに残ることができなくなった。それどころかユダヤ人作家である彼は追われる身にさえなっていたのだった。ベンヤミンは同年パリに亡命。その後もナチの手から逃れようとするが、1940年9月、ヴァルター・ベンヤミンは亡命行のピレネーの山間で自ら命を絶った。「1900年頃のベルリンの幼年時代」は、彼の生前出版されることはなかった。

時代はどこからか狂い始め、もう逆戻りできないところまで来てしまっていた。第2次世界大戦が始まると、ベルリンにはさらに恐ろしい運命が待ち受けていた。ドイツ軍が劣勢になり、連合軍によるベルリンへの空襲が本格的に始まったのは1943年のことである。この年の11月21日から翌年の5月25日にかけて、再三に渡って激しい空爆が繰り広げられた。特に、11月22日から26日にかけての爆撃は凄惨さを極め、5日間だけで4000人の市民が亡くなり、34万戸ものアパートが爆撃されたという。もちろんこのティーアガルテン一帯も甚大な被害を被った。

私の手元に1945年のベルリンの空撮地図がある(これは、大きな本屋や土産物屋で手に入れることができる)。この地図の解説によると、ティーアガルテン地区はベルリンの中でも2番目に空襲の被害が大きかった地区なのだという(ここには書いていないが1位は間違いなくミッテだろう)。全建物のうち、完全倒壊が32%、修復不可能なレベルのものも22%あった。つまり、半分以上の建物が、戦後この界隈から消えたことになる。完全に被害を免れたか、軽い被害しか受けなかった建物は、全体の31%だけだった。

確かにこの空撮地図を見ると、この界隈の被害のすさまじさが一目瞭然だ。爆撃によって屋根に穴が開いたことで、内部の部屋の仕切りが浮き出ていたり、それさえもよくわからずぐちゃぐちゃになっている建物の割合が非常に高いのである。ベンヤミンの生まれたマグデブルク広場とその西側のリュッツォ広場はほぼ壊滅状態。ラントヴェーア運河の北側は、日本とイタリアというドイツの枢軸国の大使館が並んでいたこともあり、その周辺の被害の度合いも極めて大きかった。

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ポツダム橋を渡って、ポツダム広場へと通じる道の周辺の惨状については、どのように形容したらいいのだろう。戦前のポツダム広場は、東京に例えるならば銀座のような繁華街だった。そのすぐ北側には、「帝国宰相官邸」があり、ヒトラーの防空壕もあった。米英の連合軍が、この地区を爆撃の対象にしない理由はなかった。とにかくここは、文字通り焼け野原と化したのだった。

先にご紹介したBerliner Stadtplanarchivのサイトでは、1945年の地図も見ることができる。これはちょっと変わった地図である。通りの名前が大まかにしか記されていない代わりに、ブルーで色分けされている。もうお気づきだと思うが、戦争の被害の大きかった建物には濃いブルー、被害がそれよりも小さかった場所には薄めのブルーで色分けされているのである。
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上の画面真ん中の通りがブルーメスホーフ。ベンヤミンのおばあちゃんの家があった12番地がどこにあったのかわからないけれど、いずれにせよこの通りに面した建物はほぼ完全に爆撃でやられてしまったということが、色だけでわかる。後の50年代初頭の写真を見ると、この通りの西隣のスペースは完全なさら地となった。ブルーメスホーフ自体は1964年まではあったようだが、その後は消えてしまった。ベンヤミンの幼少期の思い出がいっぱいつまったこの通りは、完全に歴史から消えてしまったのである(現在この場所にはユースホステルが建っている)。
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先の地図の右横につながるのがこの部分。ここも被害の程度はひどい。だが、左上の青い部分と、右下から左上へと斜めに長く伸びる青い部分とが交差するところに、四角の小さなスペースがぽっかり空いているのが確認できないだろうか。この部分こそが、私が住んでいたアパートなのである。それにしても、周りの建物は爆撃の犠牲となったのに、なぜここだけは残ったのだろうか。1945年の空撮地図を見ると、コの字型のこのアパートがよりはっきりと具体的に確認できるのだが、初めて見つけた時は感動を抑えることができなかった。

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なんという歴史の因果だろう。私がベルリンに来てすぐ、偶然のように見つけたアパートは、こういう歴史を持ったアパートなのだった。ヴァルター・ベンヤミンは間接的にナチスの犠牲となり、ブルーメスホーフの彼の祖母のアパートは空爆の犠牲となった(はずだ)。だが、そこから数10メートルも離れていないこのアパートは、なぜか「生き残った」。ベンヤミンの幼少の時代も、ナチスが台頭した時代も、戦争の時代も、このすぐそばに壁があった時代も、シェーネベルク岸通りのこのアパートには、どんな時にも確かに人が住んでいた。そして、これまたどういう因果か、東洋からやって来た日本人の私がそこに住んでいるという不思議な縁・・・

このアパートに1年間住んだことは、私のベルリン生活のひとつの原点ともいえる体験なので、どうしても一度文字にしてみたかった。

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by berlinHbf | 2005-12-03 03:54 | ベルリン思い出話 | Comments(7)

ベルリン生活は家探しから(5) -ベンヤミンとベルリン-

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(前回のつづき)
2000年秋に、シェーネベルク岸通りのアパートに住み始めてから約2ヵ月後、私はこのアパートの「過去」について知るための、ひとつのきっかけを得ることになった。

「複製技術時代の芸術作品」「パサージュ論」などの著作で、時代を先取りする芸術論を展開した哲学者であり文化社会学者のヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)が、幼年時代この界隈に住んでいたということを、ベンヤミンに詳しいある日本人の方から教えてもらったのである。大学時代の授業でベンヤミンの「写真論」を読んだことはあったけれど、彼が生まれた家が当時自分が住んでいる場所からすぐ近くのマグデブルク広場にあったとは全く思いも寄らなかった。ベンヤミンの文章は詩的かつ難解で、私はお世辞にも彼の熱心な読み手とはいえない。だが、うれしいことにベンヤミンは「1900年頃のベルリンの幼年時代(Berliner Kindheit um neunzehnhundert)」というエッセーを後年遺している。これを読めばベンヤミンの住んでいたアパートからそう遠くない距離のこのアパートを知る、ひとつの手がかりを得られるかもしれない。私は翌春、弟がベルリンに遊びに来る際にこのエッセーが収められた「ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅(ちくま学芸文庫)」を持って来てもらった。

ベルリンに興味を持つ人間にとってこのエッセーはとても興味深いが(ベンヤミンの著作の中では比較的読みやすい部類に入るだろう)、「住まい」という観点から私がとりわけおもしろく思ったのは、「ロッジア」と「ブルーメスホーフ12番地」の2編。ここには当時のこの区域の住宅環境が、非常に具体的かつ雰囲気豊かに描かれている。「ブルーメスホーフ12番地」とはベンヤミンの祖母の家があった通りの名前のことで、私のアパートとはまさに目と鼻の先といっていいほどの距離だ。その「近所」のアパートに住む自分にとっては、読んでピンとくる箇所がたくさん出てくる。それをいくつか引用してみたい。
「どこの呼鈴だって、ここほど温かく鳴りはしなかった。この住まいに入ると、私は、両親のうちにいるときよりも、さらに安全に護られていた」

「この住居から放射されていた、ずっと昔からの市民(ブルジョワ)的安心感は、どのような言葉で言い表せるだろうか?」

「加えてこの区域は高級住宅街で、中庭での種々の営みも、騒がしい動きをみせることは決してなかった」

「そして、十二使徒教会とマタイ教会がロッジアに送って寄こす鐘の音のどの響きも、ロッジアから滑り落ちることなく、夕暮れまでここに積み上げられていくのだった」

「この住居の部屋は数が多かったばかりでなく、そのいくつかはとても広い部屋だった。張り出し窓のところにいる祖母にこんにちはを言いにいくのに―そこには裁縫籠のかたわらに、あるときは果物が、またあるときはチョコレートがあった―、私は途方もなく大きな食事室を通り抜け、そこからこの張り出し窓のある部屋を横切って行かねばならなかった」
ベンヤミンが子供の頃遊びに通っていたおばあちゃんの家というのは、ひょっとしてこのアパートのことだったのではないかと思うくらい、私の中のいろいろなイメージと合致する。

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私が読んだちくま文庫版は注解が極めて充実しているのだが、それによるとこのティーアガルテンの南側一帯は、ベルリンが西へと拡がっていく19世紀後半に高級住宅地として開発されたのだという(ベンヤミン自身、ユダヤ人の裕福な家庭に生まれた)。なるほど、そういうことだったのかと思う。この地区を東西に流れているLandwehrkanalと呼ばれる運河(上の写真)は、都心の中のちょっとしたオアシス的な存在になっている。運河の北側は現在と同じように各国大使館が並んでいた。そして、この地区の東の端に位置するポツダム広場は、今や空前の活況を呈しようとしていた。20世紀初頭、このアパートのある地区はこういうところなのだった。

とにかく私は、自分が住むアパートに今も流れている悠然とした時の流れ、空気のようなものをベンヤミンが回想している100年前のアパートの中に感じ取ることができたのである。ひょっとしたら私の錯覚かもしれない。これは言葉でうまく説明するのが難しい。だが、戦争や壁に翻弄され続けてきたこのベルリンの中心部の一角に、いまだにこういう空気、時間の流れが残っているということは私には驚くべきことだった。

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しかも、私が目覚めのときに聞いていた教会の鐘の音はベンヤミンが幼少の頃に聞いた同じ教会のものだったのかと思うと、自然と感動が込み上げてきた(写真は現在のマタイ教会)。

(つづく)

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by berlinHbf | 2005-11-29 22:03 | ベルリン思い出話 | Comments(11)

ベルリン生活は家探しから(4) -歴史との接点-

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しばらく中断していましたが、私がベルリンに来て最初に住んだアパートのお話の続きをしたいと思います(まだお読みになっていない方はこちらをご参照ください)。

それまでヨーロッパに旅行で来たことは何度かあったし、ボン大学のサマーコースに参加して、かつての西ドイツの首都に数週間滞在したこともある。だが、自分がヨーロッパに住んでいるということを本当に実感するようになったのは、2000年10月半ば、この家での生活が始まってからだった。

日本と違うなとまず感じたのが生活のテンポ感。ベルリンという大都市のほぼど真ん中にあるのに、このアパートの中では時間の流れが常にゆったりしているように感じられた。それはこのアパートが中庭に位置していることとも関係があるだろう。運河沿いのシェーネベルク岸通りは車の往来が比較的激しいが、この家の中庭へ続くトンネルを抜けると、車の音はぴたっと止み、代わりに小鳥の鳴き声や木々のそよぎが耳に入ってくる。さらにそのまま歩いて行くと、やがて美しいアパートが目の前に姿を現す。私はこの瞬間がとても好きだった。玄関から家の中に入ると、前回お話した巨大な居間を通って、自分の部屋にたどり着く。

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こちらの人は照明にとても気を配り、夜でも決して明るくし過ぎることはしない。この家の中もそうで、明るい照明に慣れた日本人の目には最初は薄暗いと感じられた。だが、100年前もおそらくこうだったのではないかと思わせるようなあたたかい雰囲気がアパートの中を支配していた。それは何とも言えず居心地のいいものだった。午前中は語学学校に通っていたので、朝は早かったが、ゆっくり寝ていられる週末は、遠くからどことなく聞こえてくる教会の鐘の響きで目が覚めることもあった。そういう世界はそれまで、文学や映画の中でしか触れたことがなかった。

夜は近くのフィルハーモニーによく音楽を聴きに行ったし、その手前にある新ナショナルギャラリーも好きだった、ベルリン・フィルなど、日本では高嶺の花で、たまに来日しても生で聴く機会など一度もなかったが、こちらでは最高レベルのものが信じられないくらい安い値段で気楽に聴くことができる。東京に何かを聴きに行く時は、家が遠いのでいつも終電の時間を気にしなくてはなからなかったが、いまやどんなに終わるのが遅くても、歩いて5分で家まで帰ることができるのだ。全く信じられない!

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そのわずか半年前まで、自宅と東京の大学との間を毎日片道2時間かけて通う生活をしていた私には、「突如」このような異世界の環境の中で日々の生活を送っているということが、何かとても不思議なことに感じられた。そして、このアパートの空間が醸し出す「豊かさ」に思いが至り、この豊かさを生み出した「過去」について、もっと知りたいと思うようになった。

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by berlinHbf | 2005-11-28 00:43 | ベルリン思い出話 | Comments(6)

ベルリン生活は家探しから(3) -100年前のアパート-

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ベルリンのアパート探しの話の続きとして、今回は私がベルリンに来て最初に住んだアパートのお話をしたいと思う。前回から少し間が空いてしまったけれど、このアパートに住んだことは、私のベルリン生活の最高の思い出の一つであり、(ちょっと大げさに言うならば)人生観が変わるほどの体験でもあったので、時間に追われて書きたくなかったのです。

2000年の10月初頭、ベルリンに来て間もない私が、慣れない環境の中での家探しに終止符を打ったのが、このアパートとの出会いだった。

運河沿いの通りに並んでいるあるアパートを抜けて中庭に入り、このアパートを目にした時の驚きは今でも忘れられない。それまでベルリンのいろいろなアパートを見てきたが、このまるで貴族の屋敷を思わせるような建築スタイルのアパートは、それまで全く見たことがなかったからである(実は今でも他に知らない)。

「本当にこんな家に自分が住めるのだろうか・・」
期待と不安とでドキドキしながら階段を上がって行くと、ドイツ人の若い奥さんが小さな娘と一緒に2階の玄関で私を迎えてくれた。奥さんのChristinaさんは、高校で英語の先生をしているという。後から登場した旦那のPaulusさんは教会の牧師さん。彼は昔、兵役の代わりのZivildienst(非軍事役務)でシカゴの養護施設で働いていたことがあり、2人とも英語が極めて堪能。Paulusさんは、牧師という堅そうなイメージとはほど遠い、アメリカンロックが大好きな親しみやすい方だった。歳が私と大きく変わらないのもよかった。

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早速家の中を見せてもらう。玄関から中に入り、台所の横を過ぎると、その先が居間になっているのだが、これが信じられないくらい広い。私がベルリンに来てから、数多くのアパートを見てきたけれど、これほど広い居間を持つ家には他にいまだ出会ったことがない。天井が高くて、ユーゲント様式(Jugendstil)と思われる美しい装飾が施されている。Christinaさんの話では、このアパートは約100年前に建てられたものだという。ベルリンというと、戦争で多くの建物が破壊されたので(実際、そこから徒歩10分の距離にあるポツダム広場は、連合軍の爆撃でほぼ壊滅した)、町のど真ん中に100年前のアパートがそっくりそのまま残っているということに、私はとても驚いた。一体どういう人が住むために建てられたアパートなのだろうとふと思った(これについては次回お話したい)。

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その大きな居間の奥から、長い廊下が続いていて、10月半ばから空くという部屋がすぐのところにあった。1人で住むには十分な広さである。日当たりも悪くない。しかも数ある部屋の中で、ここだけ唯一おしゃれなバルコニーが付いているのも魅力だった(上の写真で、2つ写っているバルコニーのうち下の方)。

彼らとの話し合いの結果、私はこのアパートに住めることになった!
ドイツ語でUntermieterと言うが、平たく言うと、彼らのアパートの空いている部屋に下宿させてもらうことになったわけである。バスルームやキッチンなどは共同だが、食事など生活は基本的に別々なのでいわゆるホームステイとは異なる。

気になる家賃は、450DM。450EUROではない。当時はまだドイツマルクが使われていて、ユーロに換算すると250ユーロ。当時のレートで3万円にも満たない額の家賃である。

全く信じられない値段だった。町の外れならともかく、ここはベルリンの中心部だ。新ナショナルギャラリー、フィルハーモニー、国立図書館まで歩いて5分。ポツダム広場までも徒歩10分。特に、ベルリンに来たらベルリン・フィルを生で聴けるのを何より楽しみにしていた私にとって、彼らの本拠地であるフィルハーモニーまで徒歩5分という環境は、「夢の館」以外の何物でもなかった。私が狂喜乱舞したのは言うまでもない。

10月半ば、こうして私のベルリンでの生活が本格的にスタートした。昼間は語学学校。夜は、ChristinaさんとPaulusさんから呆れられるくらい、「ご近所」となったフィルハーモニーに通った。

この私のベルリン最初のアパートには思い出があり過ぎるので、もう少しだけ話を続けさせていただきたいと思う。

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by berlinHbf | 2005-11-14 01:04 | ベルリン思い出話 | Comments(13)

ベルリン生活は家探しから(2)

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Deutsches Theater前にて(11月3日。この木は黄色だけでなく、赤く紅葉した葉も混じっていて、日本の紅葉を少し思い出しました)

(前回の続き)
ベルリンに着いて数日後、家探しを始めた私が、知り合いからの情報を頼りに採った方法は大まかにいって以下の通りであった。

(1)新聞の広告で探す
ベルリンの日刊紙の土曜版には、不動産情報が別冊で付いてくる。物件は地区ごとに分けられていて、小さな文字でぎっしりと書かれているのだが、略語が多く、いきなりそれを見ても何のことだかよくわからない。例えばこんな具合だ。

Prenzlauer Berg Metzer Strasse, AB, ZH, möbl., EBK, Balkon, ruhig, hell

ABというのはAltbauの略で、主に第二次世界大戦前に建てられた古いアパートのこと。これに対して、戦後造られたアパートはNeubauと呼ばれる。Neubauのアパートは鉄筋コンクリート製が主流で、日本のアパートと見た目はそれほど変わらない。私はベルリンに来た直後、たまたま知り合った日本人留学生のAltbauのアパートを見せてもらったのだが、天井が高く、美しい彫刻も施されていたりして、そのゆったりした部屋のつくりにすっかり魅了されてしまった。ベルリンでせっかく住むのならAltbauがいいなと心の中では思っていた。

ZHというのは、セントラルヒーティング(Zentralheizung)のこと。冬場が長いベルリンでは、暖房は死活問題だ。旧東の方に行くと、Kohleheizung(石炭暖房)式のアパートも残っているので、注意が必要。

ちなみに、"möbl."は「家具付き」、EBKは「システムキッチン(Einbauküche)」、"ruhig, hell"は、「静かで日当たりがいい」ということ。

(2)大学の掲示板で探す
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ベルリンには、自由大学(FU)、フンボルト大学(HU)、工科大学(TU)の3つの総合大学があるのだが、それぞれの大学の学食の近くに行ってみると、このようにぎっしりと広告で埋め尽くされている掲示板をよく見かける。「楽器を教えます」とか語学コースの案内などもあるが、その多くはアパートに関するものだ。1人用のアパートの他、WG(Wohngemeinschaft)と呼ばれるルームシェアするアパートの同居人募集の広告も多い。ドイツ人とのWGだったら、何よりドイツ語を話す機会が増えるし、困った時にはすぐ聞ける相手がいるというのは見逃せない利点だ。ただ、WGの生活が楽しくなるかどうかは、相手との相性によるところが大きいのは言うまでもない。後に私は1年半のWG生活も経験したのだが、やはり一長一短はあると感じた。

いろいろ調べていくうちに、ベルリンの地区ごとの大まかな特色もわかってきた。例えば、Prenzlauer Bergはオシャレな店が多く学生に人気。Weddingは外国人が多く家賃も安いが、雰囲気はあまりよくない。ZehlendorfやDahlemは高級住宅地が多い、などなど。

(3)学生寮を探す
私は学生寮でもいいと思っていた。何より安いし、家具などを揃える必要もない。しかし、TUにある学生センターのようなところに行って聞いてみたら、学期が始まる直前になっていたこともあって、もうベルリンの郊外の寮しか空いていないとのことだった。私はできることなら大学からそう離れていない場所に住みたかった。日本での学生時代、片道約2時間かけて大学まで通っていた私としては、家賃もそれほど高くないベルリンでは街中に住んでみたかったのである。


今だったら他にネットで探すなどの方法もいろいろあるだろうが、当時は何も知らなかった。私は主に(2)の方法を試みたが、ドイツ語もままならない自分が、いきなり知らない人に電話をしてアポを取るというのはなかなか大変なことだ。実際にいくつか物件も見たが、あまりピンとくるものがなかった。

そんなこんなでYH住まいになってから10日近くが経ち、そろそろ焦りの色が見えてきた頃、誰から聞いた話だったかもう忘れてしまったのだが、FU(自由大学)の外人局に行って聞いてみたらどうかとアドバイスをしてくれる人がいた。

翌日、早速そこに行って相談してみると、おそらく大学に直接届けられたと見られるアパートの同居人募集のリストをくれた。私はそれを見て、2つのアパートを見に行くことにした。1つは、いわゆるNeubauのアパートであまり気に入らなかった。

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結局今回もだめかなと思いながらも、私はもう1つのアパートを見に行った。場所はティーアガルテンのほぼ南の端。1998年に、私が初めてベルリンに来た時によく歩いた運河沿いの通りにあった。フィルハーモニーや新ナショナルギャラリーからも程近い。そのアパートは中庭にあるという。通りに面した建物をくぐって、中庭に抜けて歩いて行くと、アパートが目の前に姿を現した。その時の驚きは今でも忘れることができない。

(つづく)

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by berlinHbf | 2005-11-06 14:28 | ベルリン思い出話 | Comments(2)

ベルリン生活は家探しから(1)

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ベルリン工科大学の掲示板にて

海外での生活は家探しから始まる。留学、赴任、ワーキングホリデーなど、海外に住むきっかけは人によって様々だろうが、どこに住むのかというのは、常に大きな問題である。今回から数回に分けて、私がちょうど5年前にベルリンにやって来た時、どのようにして住む家を探したのかということと、ベルリンで最初に住んだ家の思い出についてお話してみたいと思う。ひょっとしたら、これからドイツに来る方の何らかの参考になるかもしれないという願いもあってのことである。

私がベルリンにやって来たのは、2000年の9月末。すでにその前に2回ほどベルリンを訪れたことはあったが、いずれも団体での行動だったため、その時と今回とは状況が違う。私は、日本を経つ直前に送られてきたベルリンの大学の入学許可証を手にはしていたものの(その際、大学側に学生寮をどこかあてがって欲しいとお願いしていたが、何の返事ももらえなかった)、唯一の知り合いと呼べる人もその前に一度会ったことがあるだけで、結局全てを自分でこなさなければならなかった。

入学許可証を持っていても、ドイツの大学で勉強するには普通、DSH(Deutschen Sprachpruefung fuer den Hochschulzugang)と呼ばれるドイツ語の試験をクリアしなければならない。ベルリンに着いた翌日、私はベルリン自由大学で早速その試験を受けたが、明らかに力不足で、残念ながらどう奇跡が起こっても合格するとは思えなかった。DSHは学期ごとに1回しか行われないので、次のチャンスは半年後。語学学校に通いながらドイツ語の勉強をするにしても、まず住む家を探して、住民登録をしなければならない。

DSHを受けた翌日、私はホテルからユースホステルに居を移した。最初は町のほぼ中心にあるYHに泊まったが、そこは最大3泊までしか連泊できないとのことで、その後ツォー駅近くのYHに移った。居心地が悪くなかったこともあって、結局そこに10日間ぐらいいたように思う。

さて、家探しだが、ベルリンに着いてすぐ、その唯一の知り合いの方からいくつかの方法を電話で教えてもらっていた。私はそれにしたがって、家探しを始めることにした。幸いにして、ベルリンの住宅事情は、ミュンヘンなどに比べるとそれほど悪くないとのことだった。

(つづく)

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by berlinHbf | 2005-11-04 22:45 | ベルリン思い出話 | Comments(3)

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