ベルリン-東と西が出会う場所。ドイツにありながらドイツではない町。歴史の影に彩られた栄光と悲運の世界都市。そんなベルリンの奥深い魅力をリアルタイムでお届けするブログです。Since 1. August 2005
by berlinHbf
中村真人 (Masato)
神奈川県横須賀市生まれ。早稲田大学第一文学部を卒業後、2000年よりベルリン在住。ベルリンの映像制作会社勤務を経て、現在はフリーのライター、ジャーナリスト。

『素顔のベルリン 過去と未来が交錯する12のエリアガイド 』
¥1,575
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地球の歩き方シリーズ初、待望のベルリンガイドブック誕生!比類なき歴史を抱えつつ、明日へ向かって日々進化し続ける首都ベルリン。「ドイツで最もドイツらしくない」といわれるこの町の知られざる魅力を、現地在住著者が12のエリアにわけて徹底紹介。
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『街歩きのドイツ語 』
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三修社
豊富なビジュアルとドイツ語フレーズを楽しめる1冊。基本のあいさつ表現から、街にまつわるドイツ語豆知識まで、ガイドブックとともに旅に役立つ会話集です。

NHK「テレビでドイツ語」テキスト
¥380(毎月18日発売)
NHK出版
前期(4〜9月)は水と緑の美しいドイツ第2の都市ハンブルクが舞台。テキストの読み物で「ハンザ都市を巡る」を連載中。5月号ではハンブルク(後編)を取り上げています。
ベルリン更新情報
2011/10/1 up!
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執筆、ガイド、コーディネートなどのご依頼、お問い合わせはこちらまで(これまでの出版・寄稿実績)→
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カテゴリ:ベルリン思い出話
- 1978年9月、西ベルリンにて(2)[ 2010-06-09 17:58 ]
- 1978年9月、西ベルリンにて(1)[ 2010-06-07 18:51 ]
- 山根寿代さんが見た1989年10月の東ベルリン[ 2008-11-13 13:18 ]
- 私とベルリンとの出会い 1988-2006[ 2006-03-23 00:14 ]
- ベルリン生活は家探しから(6) -「生き残った」アパート-[ 2005-12-03 03:54 ]
- ベルリン生活は家探しから(5) -ベンヤミンとベルリン-[ 2005-11-29 22:03 ]
- ベルリン生活は家探しから(4) -歴史との接点-[ 2005-11-28 00:43 ]
- ベルリン生活は家探しから(3) -100年前のアパート-[ 2005-11-14 01:04 ]
- ベルリン生活は家探しから(2)[ 2005-11-06 14:28 ]
- ベルリン生活は家探しから(1)[ 2005-11-04 22:45 ]
1978年9月、西ベルリンにて(2)


関連記事:
アルコーナ広場周辺を歩く(3) (2006-02-25)

関連記事:(東側から見たこの見張り台の様子)
壁とタイムカプセル (2007-10-04)


関連記事:
早稲田大学でのカラヤン (la_vera_storiaさんの回想録)
1986年3月東ベルリンにて - ある日本人の回想 - (2007-08-27)
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1978年9月、西ベルリンにて(1)


「動物園駅で降りて、駅前の広場を見た瞬間に32年前の記憶がよみがえりました。コンクール優勝が決まった日の夜、そこで『都の西北』をみんなで歌ったんです」。
当時のお話をいろいろと伺った後、長い間実家に眠っていたという写真を見せてくれました。「ここはどこだろう?」と思わせる写真も中にはあり、私が興味を示したところ、「よかったらお貸ししますので、好きなだけ持って帰ってください。使い道はお任せしますから」とおっしゃってくださいました。ご好意に甘えて、ここでアップさせていただくことにしました。
(1枚目は、「カラヤンコンクール」のポスター。2枚目は、78年のベルリン芸術週間のポスター)



(つづく)
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山根寿代さんが見た1989年10月の東ベルリン

秋に日本に一時帰国した際、このブログで以前数回に分けてご紹介した山根寿代さんに再会する機会がありました。変わらずお元気そうだったことにまず安心し、今回もまたいろいろと興味深い話を伺いました。世界中を旅行されている山根さんですが、その中でもとりわけ私にとって印象深かった、1989年10月に団体ツアーで東ベルリンを訪れた時の話をご紹介したいと思います。夏にいただいた手紙の中から大部分を引用し、実際に聞いた内容も加えて構成しました。
-------------------
最後の訪問地ベルリンへ行く朝、確かライプチヒだったと思いますが、泊まっていた駅前のホテルの窓を開けて外を眺めましたら、朝早いにも関わらず沢山の若者が集まって居りました。後で知ったところによると、東ドイツの建国40周年記念が行われるベルリンでのパレードに参加する為でした。私達はバスで東ベルリンの町へ入りましたが、余りの人でバスが動かず途中下車となり、グランドホテル迄荷物を持って歩きました。ホテルの前も人で溢れ、今も目に浮かびます。
夜も松明行列で壮観でした。今思えば東ドイツ最後の年だった訳です。私達は15人のツアー。ホテルでは、我々を見たピアニストが突然『上を向いて歩こう』を弾きはじめ、歓迎してくれました。その後、駅名は忘れましたが、二駅ほど電車に乗ってパレードの見える広場へ行き、殆どがソ連の戦車や大砲の行列を眺めました。
背伸びしないと見えない程の人垣でしたが、そこに何の為かコンクリートの四角い塊があり、その上に若い親子が乗っていて、狭いところなのに私にも乗れと引っ張り上げてくれました。その時私が“Can you speak English?“とききましたら、“No“とのことでしたが、すぐ彼が“I am Berlin“と云ったので私も“I am Tokyo“と答え、この単純な面白い会話を今も覚えて居ります。(その短いフレーズだけで)東ベルリンに住むドイツ人とわかったのですから、何でも声を出してみるものですね。私のことも日本人と思ったことでしょう。因みに世界中とは少々大袈裟ですが、殆どの国の人が“Tokyo“は知って居りました。

帰りの飛行機の中で知ったのですが、その時劇場内では集会が開かれて居り、出演者云々の事は口実だったそうです。恐らく壁の崩壊の1ヶ月前ですから、各地で集まっていたことでしょう。ホテルに戻ります時、警官が多いなとは思いましたが、帰国後きっかり1ヶ月目のあの壁のTVを観ました時は、涙で霞む程の感動でございました。誰も怪我をすることなく、ベルリンが一つになったのですから。あの夜は本当に静かなクーデターのようでした。チャーリーポイントを通った時のことも忘れられないことでございます。
(注)
山根さんが宿泊された「グランドホテル」は、その2年前フリードリヒ通りにオープンした当時東ベルリンの高級ホテル(現The Westin Grand。上の写真)。「2駅ほど電車に乗って行った」のは、アレクサンダー広場。「ホテルの隣の劇場」とは、コーミッシェ・オーパーに間違いない。
山根寿代さんについては、この夏に書いた以下の記事もぜひご覧ください。
- ベルリンで出会った一枚の写真 - (2008.08)
- 祖父山根正次 -
- 森鴎外からの手紙 -
- ベルリンの恩師との再会 -
- 仕事、旅、そして人生 -
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私とベルリンとの出会い 1988-2006

今回は非常に長い内容になってしまいましたが、私がいかにしてベルリンという町を知り、興味を持つようになったのか、その一部について書いてみたいと思います。自分がなぜここにいるのかを問い直す上でも、一度書いてみたいことでした。大変長いですが読んでいただけると幸いです。
●
私がベルリンという町の存在を知り、漠然とした興味を抱いたのはいつかと考えると、まず思い至るのは1988年という年だ。私はこの年の春に中学校に進学したのだが(完全に歳がバレる^^;)、その中学時代最も楽しかった授業の一つに、1年生の地理の授業がある。私はもともと地図を眺めるのが好きで、日本地図を眺めては見知らぬ土地に思いを馳せていた。思いが高じて、この年の夏には九州を一人で旅して回ったほどだった。だが日本だけでなく、世界にも興味を持つようになったのは、この地理の授業がきっかけだったかもしれない。
社会科の山田先生は世界中を回られているという方ではなかったが、とても誠実な人柄の先生で、毎回世界のいろいろなことを教えてくださった。ご自身が訪れた国の写真を持って来て授業中に見せてくれることもあったし、地図帳や写真の豊富な資料集も折々参照しながら、ちょっとした旅行気分も味わえる楽しい授業だった(少し前に聞いた話によると、山田先生は横須賀市内のある中学校で、現在は校長先生として活躍されているらしい)。

学校で習った時期とどれぐらい前後しているかは定かでないが、私は母親からソ連の話を聞いたことがあった。母は70年代前半にソ連を旅したことがある。スーパーにいかにものがなかった話とか、それに関連してだったかベルリンの壁の話もしてくれた。詳しい内容はもう覚えていないが、こういうことを言ったのだけは覚えている。
「ベルリンの壁は私が死ぬ頃までなくならないだろうね」

今にして思えば、横須賀という基地の町に住む自分、米ソの冷戦、そしてその最前線にあるベルリンという町、その3つの現実が私の中で徐々に重なり合っていたような気がしてならない。

パリでの華やかな出発の様子、番組の最後でオリエント急行が広大な黄河を渡る場面など、見どころは少なくなかったと思うが、私が一番印象に残っているのは列車が東ベルリンに入るシーンだった。駅(フリードリヒ・シュトラーセの駅かな?)に到着すると、物々しいDDRの警備隊が車内に乗り込んでくる。「列車に緊張が走ります」というナレーター氏の一言。短いシーンだったが、東西に分断されたベルリンの様子がリアルに伝わってきて、私は食い入るようにして画面を見つめた(その番組はビデオに録画したのだが、直後壊れてしまい、残念ながら再び見直すことはできなくなってしまった)。

ゴルバチョフがテレビのニュースによく登場するようになって、何かが少しづつ変化しているのに気付いていたと思うが、私は学校と部活動に追われていて、その年の世界の出来事については天安門事件を除いてあまり覚えていない。あの11月9日までは。

画面のベルリンの人々の様子を見て全く興奮が抑えられなくなった私は、次に何をしたかといえば、2階で寝ていた母親をたたき起こしに行くことだった。「ベルリンの壁が壊れたよ!」と。
「壁は自分が死ぬ頃までなくならない」と私に言っていた母親に、「それ見たことか」と言ってやりたい気持ちも働いていたのだと思う。80年代の重苦しい現実と、あのベルリンの人々の歓喜との対照は実に鮮やかだった。世界がこうもひっくり返るなんてことがあるんだ。横須賀にトマホークが撃たれる危険もとりあえずはなくなったのだった(ほっ)。

あれから16年。世界はよくなるどころか、逆に悪くなっている印象さえ受ける。核の脅威は依然なくならないし、文明国家はテロという別の脅威に直面することになった。あの輝かしい歓喜の渦で満たされたベルリンとて、明るい話題はむしろ少ない。相変わらず失業率は高いし、東西の格差は今後も簡単には埋まらないのだろう。壁の崩壊と早急なドイツの再統一を今となっては醒めた目で見る人がいることも、もちろんわかっている。

しかし私はメディアを通してとはいえ、1988年から89年にかけて目の当たりにした一連の出来事を決して忘れることはないだろう。世界が動くということをこれほど実感させられた年もないし、そのことを私に教えてくれたのがベルリンであり、あのベルリンの人たちだった。世界は変わり得るし、また時には自ら変えることさえできる。こう言うと楽観的に過ぎるかもしれないが、私にとってベルリンという町は、人間のそんなポジティブなエネルギーの象徴として今もあり続けているのかもしれない。
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ベルリン生活は家探しから(6) -「生き残った」アパート-

ヴァルター・ベンヤミンの「1900年頃のベルリンの幼年時代」の中の「ブルーメスホーフ12番地」。その後半では、ベンヤミンのおばあちゃん宅でのクリスマスの様子が描かれている。盛大な食事やプレゼント交換といったあたたかい情景の後、最後はこのように終わる。
この日、祖母の住まいに来てから、もう何時間も経っていた。それから、しっかり包まれ紐をかけられた贈り物を腕に、私たちが夕暮れの路上に出ると、建物の入り口のまえに辻馬車が待っていて、雪は軒蛇腹や格子垣のうえでは誰にも触れられぬままに白く、舗石の上ではいくらか汚れて積もり、リュッツォ岸通りからそりの鈴の音が響き来たり、そして、ひとつまたひとつと点っていくガス灯が、点灯夫の足取りをこっそり教え、甘美な祝祭日の宵にも点灯夫は点灯竿を肩にかつがねばならなかった、この夕暮れどき―そのとき街は己れ自信のうちに深く沈潜していた。私と私の幸福を包んでずっしりと重くなった袋のように。

ところで、Berliner Stadtplanarchivというサイトでは、1906年当時のベルリンの地図をネット上で見ることができる(ベルリンの年代別の地図をつぶさに観察できる、このすばらしいサイトを教えてくださったla_vera_storiaさんに感謝!)。もしご興味があったら、こちらをご覧いただきたい。

私が住んでいたこのシェーネベルク岸通りのアパートに、当時どのような人が住んでいたのかは残念ながらわからない。だが、ベンヤミンが言うように、アパートの造りから見て、ここにもかなり裕福な人々が住んでいたのは間違いないだろう。ユダヤ人も多く住んでいたはずだ。この近所にはかつて、ユダヤ教の礼拝堂であるシナゴーグもあったのだから。
この地図では他に、ベンヤミンが生まれたマグデブルク広場(Magdebg.pl)やラントヴェーア運河(Landwehr Kanal)も確認できるし、前回ご紹介したマタイ教会(Matthäus K.)も運河の北側にイラストで描かれている。南から北東へ伸びる、白で太く描かれた線は、ポツダム通り。運河の上に架けられたポツダム橋(Potsd.Br.)を渡って道なりに沿って行くと、繁華街のポツダム広場(Potsdamer Platz)にぶつかる。以上が、この界隈の20世紀初頭の大まかな様子である。
ではその後、ヴァルター・ベンヤミンとブルーメスホーフの彼の祖母の家、そしてシェーネベルク岸通りの私が住んでいたアパートには、どのような運命が待ち受けていたのだろうか。
「1900年頃のベルリンの幼年時代」の序文は、このような文章で始まる。
1932年に外国にいたとき、私には、自分が生まれた都市に、まもなくある程度長期にわたって、ひょっとすると永続的に別れを告げなければならないかもしれない、ということが明らかになりはじめた。ベンヤミンがこのエッセーを書き始めた翌1933年、ヒトラー率いるナチスが政権を握ると、ベンヤミンは故郷のベルリンに残ることができなくなった。それどころかユダヤ人作家である彼は追われる身にさえなっていたのだった。ベンヤミンは同年パリに亡命。その後もナチの手から逃れようとするが、1940年9月、ヴァルター・ベンヤミンは亡命行のピレネーの山間で自ら命を絶った。「1900年頃のベルリンの幼年時代」は、彼の生前出版されることはなかった。
時代はどこからか狂い始め、もう逆戻りできないところまで来てしまっていた。第2次世界大戦が始まると、ベルリンにはさらに恐ろしい運命が待ち受けていた。ドイツ軍が劣勢になり、連合軍によるベルリンへの空襲が本格的に始まったのは1943年のことである。この年の11月21日から翌年の5月25日にかけて、再三に渡って激しい空爆が繰り広げられた。特に、11月22日から26日にかけての爆撃は凄惨さを極め、5日間だけで4000人の市民が亡くなり、34万戸ものアパートが爆撃されたという。もちろんこのティーアガルテン一帯も甚大な被害を被った。
私の手元に1945年のベルリンの空撮地図がある(これは、大きな本屋や土産物屋で手に入れることができる)。この地図の解説によると、ティーアガルテン地区はベルリンの中でも2番目に空襲の被害が大きかった地区なのだという(ここには書いていないが1位は間違いなくミッテだろう)。全建物のうち、完全倒壊が32%、修復不可能なレベルのものも22%あった。つまり、半分以上の建物が、戦後この界隈から消えたことになる。完全に被害を免れたか、軽い被害しか受けなかった建物は、全体の31%だけだった。
確かにこの空撮地図を見ると、この界隈の被害のすさまじさが一目瞭然だ。爆撃によって屋根に穴が開いたことで、内部の部屋の仕切りが浮き出ていたり、それさえもよくわからずぐちゃぐちゃになっている建物の割合が非常に高いのである。ベンヤミンの生まれたマグデブルク広場とその西側のリュッツォ広場はほぼ壊滅状態。ラントヴェーア運河の北側は、日本とイタリアというドイツの枢軸国の大使館が並んでいたこともあり、その周辺の被害の度合いも極めて大きかった。

先にご紹介したBerliner Stadtplanarchivのサイトでは、1945年の地図も見ることができる。これはちょっと変わった地図である。通りの名前が大まかにしか記されていない代わりに、ブルーで色分けされている。もうお気づきだと思うが、戦争の被害の大きかった建物には濃いブルー、被害がそれよりも小さかった場所には薄めのブルーで色分けされているのである。



このアパートに1年間住んだことは、私のベルリン生活のひとつの原点ともいえる体験なので、どうしても一度文字にしてみたかった。
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ベルリン生活は家探しから(5) -ベンヤミンとベルリン-

2000年秋に、シェーネベルク岸通りのアパートに住み始めてから約2ヵ月後、私はこのアパートの「過去」について知るための、ひとつのきっかけを得ることになった。
「複製技術時代の芸術作品」「パサージュ論」などの著作で、時代を先取りする芸術論を展開した哲学者であり文化社会学者のヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)が、幼年時代この界隈に住んでいたということを、ベンヤミンに詳しいある日本人の方から教えてもらったのである。大学時代の授業でベンヤミンの「写真論」を読んだことはあったけれど、彼が生まれた家が当時自分が住んでいる場所からすぐ近くのマグデブルク広場にあったとは全く思いも寄らなかった。ベンヤミンの文章は詩的かつ難解で、私はお世辞にも彼の熱心な読み手とはいえない。だが、うれしいことにベンヤミンは「1900年頃のベルリンの幼年時代(Berliner Kindheit um neunzehnhundert)」というエッセーを後年遺している。これを読めばベンヤミンの住んでいたアパートからそう遠くない距離のこのアパートを知る、ひとつの手がかりを得られるかもしれない。私は翌春、弟がベルリンに遊びに来る際にこのエッセーが収められた「ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅(ちくま学芸文庫)」を持って来てもらった。
ベルリンに興味を持つ人間にとってこのエッセーはとても興味深いが(ベンヤミンの著作の中では比較的読みやすい部類に入るだろう)、「住まい」という観点から私がとりわけおもしろく思ったのは、「ロッジア」と「ブルーメスホーフ12番地」の2編。ここには当時のこの区域の住宅環境が、非常に具体的かつ雰囲気豊かに描かれている。「ブルーメスホーフ12番地」とはベンヤミンの祖母の家があった通りの名前のことで、私のアパートとはまさに目と鼻の先といっていいほどの距離だ。その「近所」のアパートに住む自分にとっては、読んでピンとくる箇所がたくさん出てくる。それをいくつか引用してみたい。
「どこの呼鈴だって、ここほど温かく鳴りはしなかった。この住まいに入ると、私は、両親のうちにいるときよりも、さらに安全に護られていた」ベンヤミンが子供の頃遊びに通っていたおばあちゃんの家というのは、ひょっとしてこのアパートのことだったのではないかと思うくらい、私の中のいろいろなイメージと合致する。
「この住居から放射されていた、ずっと昔からの市民(ブルジョワ)的安心感は、どのような言葉で言い表せるだろうか?」
「加えてこの区域は高級住宅街で、中庭での種々の営みも、騒がしい動きをみせることは決してなかった」
「そして、十二使徒教会とマタイ教会がロッジアに送って寄こす鐘の音のどの響きも、ロッジアから滑り落ちることなく、夕暮れまでここに積み上げられていくのだった」
「この住居の部屋は数が多かったばかりでなく、そのいくつかはとても広い部屋だった。張り出し窓のところにいる祖母にこんにちはを言いにいくのに―そこには裁縫籠のかたわらに、あるときは果物が、またあるときはチョコレートがあった―、私は途方もなく大きな食事室を通り抜け、そこからこの張り出し窓のある部屋を横切って行かねばならなかった」

とにかく私は、自分が住むアパートに今も流れている悠然とした時の流れ、空気のようなものをベンヤミンが回想している100年前のアパートの中に感じ取ることができたのである。ひょっとしたら私の錯覚かもしれない。これは言葉でうまく説明するのが難しい。だが、戦争や壁に翻弄され続けてきたこのベルリンの中心部の一角に、いまだにこういう空気、時間の流れが残っているということは私には驚くべきことだった。

(つづく)
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ベルリン生活は家探しから(4) -歴史との接点-

それまでヨーロッパに旅行で来たことは何度かあったし、ボン大学のサマーコースに参加して、かつての西ドイツの首都に数週間滞在したこともある。だが、自分がヨーロッパに住んでいるということを本当に実感するようになったのは、2000年10月半ば、この家での生活が始まってからだった。
日本と違うなとまず感じたのが生活のテンポ感。ベルリンという大都市のほぼど真ん中にあるのに、このアパートの中では時間の流れが常にゆったりしているように感じられた。それはこのアパートが中庭に位置していることとも関係があるだろう。運河沿いのシェーネベルク岸通りは車の往来が比較的激しいが、この家の中庭へ続くトンネルを抜けると、車の音はぴたっと止み、代わりに小鳥の鳴き声や木々のそよぎが耳に入ってくる。さらにそのまま歩いて行くと、やがて美しいアパートが目の前に姿を現す。私はこの瞬間がとても好きだった。玄関から家の中に入ると、前回お話した巨大な居間を通って、自分の部屋にたどり着く。

夜は近くのフィルハーモニーによく音楽を聴きに行ったし、その手前にある新ナショナルギャラリーも好きだった、ベルリン・フィルなど、日本では高嶺の花で、たまに来日しても生で聴く機会など一度もなかったが、こちらでは最高レベルのものが信じられないくらい安い値段で気楽に聴くことができる。東京に何かを聴きに行く時は、家が遠いのでいつも終電の時間を気にしなくてはなからなかったが、いまやどんなに終わるのが遅くても、歩いて5分で家まで帰ることができるのだ。全く信じられない!

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ベルリン生活は家探しから(3) -100年前のアパート-

2000年の10月初頭、ベルリンに来て間もない私が、慣れない環境の中での家探しに終止符を打ったのが、このアパートとの出会いだった。
運河沿いの通りに並んでいるあるアパートを抜けて中庭に入り、このアパートを目にした時の驚きは今でも忘れられない。それまでベルリンのいろいろなアパートを見てきたが、このまるで貴族の屋敷を思わせるような建築スタイルのアパートは、それまで全く見たことがなかったからである(実は今でも他に知らない)。
「本当にこんな家に自分が住めるのだろうか・・」
期待と不安とでドキドキしながら階段を上がって行くと、ドイツ人の若い奥さんが小さな娘と一緒に2階の玄関で私を迎えてくれた。奥さんのChristinaさんは、高校で英語の先生をしているという。後から登場した旦那のPaulusさんは教会の牧師さん。彼は昔、兵役の代わりのZivildienst(非軍事役務)でシカゴの養護施設で働いていたことがあり、2人とも英語が極めて堪能。Paulusさんは、牧師という堅そうなイメージとはほど遠い、アメリカンロックが大好きな親しみやすい方だった。歳が私と大きく変わらないのもよかった。


彼らとの話し合いの結果、私はこのアパートに住めることになった!
ドイツ語でUntermieterと言うが、平たく言うと、彼らのアパートの空いている部屋に下宿させてもらうことになったわけである。バスルームやキッチンなどは共同だが、食事など生活は基本的に別々なのでいわゆるホームステイとは異なる。
気になる家賃は、450DM。450EUROではない。当時はまだドイツマルクが使われていて、ユーロに換算すると250ユーロ。当時のレートで3万円にも満たない額の家賃である。
全く信じられない値段だった。町の外れならともかく、ここはベルリンの中心部だ。新ナショナルギャラリー、フィルハーモニー、国立図書館まで歩いて5分。ポツダム広場までも徒歩10分。特に、ベルリンに来たらベルリン・フィルを生で聴けるのを何より楽しみにしていた私にとって、彼らの本拠地であるフィルハーモニーまで徒歩5分という環境は、「夢の館」以外の何物でもなかった。私が狂喜乱舞したのは言うまでもない。
10月半ば、こうして私のベルリンでの生活が本格的にスタートした。昼間は語学学校。夜は、ChristinaさんとPaulusさんから呆れられるくらい、「ご近所」となったフィルハーモニーに通った。
この私のベルリン最初のアパートには思い出があり過ぎるので、もう少しだけ話を続けさせていただきたいと思う。
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ベルリン生活は家探しから(2)


(前回の続き)
ベルリンに着いて数日後、家探しを始めた私が、知り合いからの情報を頼りに採った方法は大まかにいって以下の通りであった。
(1)新聞の広告で探す
ベルリンの日刊紙の土曜版には、不動産情報が別冊で付いてくる。物件は地区ごとに分けられていて、小さな文字でぎっしりと書かれているのだが、略語が多く、いきなりそれを見ても何のことだかよくわからない。例えばこんな具合だ。
Prenzlauer Berg Metzer Strasse, AB, ZH, möbl., EBK, Balkon, ruhig, hell
ABというのはAltbauの略で、主に第二次世界大戦前に建てられた古いアパートのこと。これに対して、戦後造られたアパートはNeubauと呼ばれる。Neubauのアパートは鉄筋コンクリート製が主流で、日本のアパートと見た目はそれほど変わらない。私はベルリンに来た直後、たまたま知り合った日本人留学生のAltbauのアパートを見せてもらったのだが、天井が高く、美しい彫刻も施されていたりして、そのゆったりした部屋のつくりにすっかり魅了されてしまった。ベルリンでせっかく住むのならAltbauがいいなと心の中では思っていた。
ZHというのは、セントラルヒーティング(Zentralheizung)のこと。冬場が長いベルリンでは、暖房は死活問題だ。旧東の方に行くと、Kohleheizung(石炭暖房)式のアパートも残っているので、注意が必要。
ちなみに、"möbl."は「家具付き」、EBKは「システムキッチン(Einbauküche)」、"ruhig, hell"は、「静かで日当たりがいい」ということ。
(2)大学の掲示板で探す

いろいろ調べていくうちに、ベルリンの地区ごとの大まかな特色もわかってきた。例えば、Prenzlauer Bergはオシャレな店が多く学生に人気。Weddingは外国人が多く家賃も安いが、雰囲気はあまりよくない。ZehlendorfやDahlemは高級住宅地が多い、などなど。
(3)学生寮を探す
私は学生寮でもいいと思っていた。何より安いし、家具などを揃える必要もない。しかし、TUにある学生センターのようなところに行って聞いてみたら、学期が始まる直前になっていたこともあって、もうベルリンの郊外の寮しか空いていないとのことだった。私はできることなら大学からそう離れていない場所に住みたかった。日本での学生時代、片道約2時間かけて大学まで通っていた私としては、家賃もそれほど高くないベルリンでは街中に住んでみたかったのである。
今だったら他にネットで探すなどの方法もいろいろあるだろうが、当時は何も知らなかった。私は主に(2)の方法を試みたが、ドイツ語もままならない自分が、いきなり知らない人に電話をしてアポを取るというのはなかなか大変なことだ。実際にいくつか物件も見たが、あまりピンとくるものがなかった。
そんなこんなでYH住まいになってから10日近くが経ち、そろそろ焦りの色が見えてきた頃、誰から聞いた話だったかもう忘れてしまったのだが、FU(自由大学)の外人局に行って聞いてみたらどうかとアドバイスをしてくれる人がいた。
翌日、早速そこに行って相談してみると、おそらく大学に直接届けられたと見られるアパートの同居人募集のリストをくれた。私はそれを見て、2つのアパートを見に行くことにした。1つは、いわゆるNeubauのアパートであまり気に入らなかった。

(つづく)
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ベルリン生活は家探しから(1)

海外での生活は家探しから始まる。留学、赴任、ワーキングホリデーなど、海外に住むきっかけは人によって様々だろうが、どこに住むのかというのは、常に大きな問題である。今回から数回に分けて、私がちょうど5年前にベルリンにやって来た時、どのようにして住む家を探したのかということと、ベルリンで最初に住んだ家の思い出についてお話してみたいと思う。ひょっとしたら、これからドイツに来る方の何らかの参考になるかもしれないという願いもあってのことである。
私がベルリンにやって来たのは、2000年の9月末。すでにその前に2回ほどベルリンを訪れたことはあったが、いずれも団体での行動だったため、その時と今回とは状況が違う。私は、日本を経つ直前に送られてきたベルリンの大学の入学許可証を手にはしていたものの(その際、大学側に学生寮をどこかあてがって欲しいとお願いしていたが、何の返事ももらえなかった)、唯一の知り合いと呼べる人もその前に一度会ったことがあるだけで、結局全てを自分でこなさなければならなかった。
入学許可証を持っていても、ドイツの大学で勉強するには普通、DSH(Deutschen Sprachpruefung fuer den Hochschulzugang)と呼ばれるドイツ語の試験をクリアしなければならない。ベルリンに着いた翌日、私はベルリン自由大学で早速その試験を受けたが、明らかに力不足で、残念ながらどう奇跡が起こっても合格するとは思えなかった。DSHは学期ごとに1回しか行われないので、次のチャンスは半年後。語学学校に通いながらドイツ語の勉強をするにしても、まず住む家を探して、住民登録をしなければならない。
DSHを受けた翌日、私はホテルからユースホステルに居を移した。最初は町のほぼ中心にあるYHに泊まったが、そこは最大3泊までしか連泊できないとのことで、その後ツォー駅近くのYHに移った。居心地が悪くなかったこともあって、結局そこに10日間ぐらいいたように思う。
さて、家探しだが、ベルリンに着いてすぐ、その唯一の知り合いの方からいくつかの方法を電話で教えてもらっていた。私はそれにしたがって、家探しを始めることにした。幸いにして、ベルリンの住宅事情は、ミュンヘンなどに比べるとそれほど悪くないとのことだった。
(つづく)
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